アドベントが今日から始まりました。今日は、クリスマスと十字架を関連付けて読みます。十字架の主は、飼い葉桶の主です。そしてこの二つが深く関わっているということは、ルカ福音書そのものが構想していることです。
赤ん坊のイエスが馬小屋の飼い葉桶に寝かされたということはルカ福音書だけの記事です。さらに、その理由まで書いています。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(2章7節)。神の子は、人の子らの世界に居場所がありません。人の子たちは「場違いだ」と主張し、神の子を締め出します。その究極に、十字架という処刑があります。飼い葉桶は人間用のベッドではありません。家畜小屋は動物のための家です。生まれた時に動物の餌のための場所に寝かされたイエスは、死ぬ時も人間の尊厳を奪われて虐殺されました。
わたしたちはクリスマスの喜びを、十字架の痛みと共に味わうものです。そして神の子の苦しみは、わたしたちにとって救いであるということも、ルカ福音書は全体を通して伝えています。
クリスマスの日、最初にキリストの誕生を教えられたのは、徹夜勤務で苦労する羊飼いでした。天使は羊飼いに告げます。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主キリストである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(2章11-12節)。
「今日」(セメロン)という単語は、ルカ文書特愛の言葉です。40回中20回がルカ福音書と使徒言行録で用いられています。本日の箇所においても、43節のイエスの言葉に用いられています。「アーメン。あなたにわたしは言う。今日わたしと共にあなたは居る、パラダイスに」(43節語順を意識した私訳)。イエス・キリストによる救いが、今・ここに・あなたのために現れている。その救いというのは、人生のどん底にあっても、神が常に共に居るという救いです。わたしたちはしばしば苦しみの中で神が共に居ることに気づきます。
神が引き起こす、この不思議な出来事をルカ教会はとても大事にしています。羊飼いが飼い葉桶のイエスを見る時に救いが起こります。イエスが会堂で読む聖書を聞く時救いが起こります(4章21節「今日」)。イエスが徴税人ザアカイの家を訪れる時救いが起こります(19章9節「今日」)。イエスが十字架上で隣の死刑囚と会話を交わす時救いが起こります。「今日」という単語を用いて一貫した救いを告げています。人間扱いされずに最低限度健康で文化的に生きる場から排除された方は、少しでもそのような目に遭っている人々と常に共におられ、そのようなわたしたちと必ず共におられる方です。
わたしたちは共に居るイエスの霊に普段は気づかずに生きています。しかし気づくことがあります。特に生きているのが嫌になるぐらい、どん底の経験をしている最中です。不思議なことに「見よ、今は恵みの時、今は救いの日」と感じるのです。その決定的な時が「今日」という言葉の意味です。イエスと共に磔にされた死刑囚にとって、その救いの「今日」は人生最後の時でした。それでも決して遅くはありません。彼はその時自分の人生をすべて振り返っていただろうからです。どんな人も、振り返れば全ての時に渡って神の霊は自分と共にあったということを、知ることができます。「今日」というものは毎日訪れるものです。厳密に言えば、神は常に共に居たのです。今日だけ居るのではなく、わたしたちが気づいたのが今日だったというだけのことです。
先週、イエスの十字架の赦しの前で、人々は決断を迫られるということを申し上げました。図式化すれば、二つの立場に分かれます。無条件の赦しを「アーメン」と言って受け入れるか、それとも、赦されていることを拒否するかです。イエスの左右にいる死刑囚は、この二つの立場を説明しています。エルサレム住民はその二人の姿を見て、自分がどこに立つべきかを熟考するのです。
一人はイエスを罵り(39節)、一人はその罵る者を叱ります(40節)。新共同訳「たしなめた」は少し弱い表現です。「叱る」が直訳です。この場合は、「叱る」とした方が正確でしょう。そんなに近くでの会話でもなく、相手の顔がよく見える状況でもありません。どちらも大声で会話をしているのですから、たしなめる程度ではなく、叱っているのです。
A→イエス「お前はキリストではないのか。お前は自分自身と俺たちを救え」。
B→A「お前という奴は神をも恐れていないのか。というのも、お前は(俺と)同じ判決の中にいるのだから。そして俺たちは実際正当に(判決を受けた)。なぜなら俺たちがしことにふさわしいことを俺たちは受けているのだから。一方この人は場違いなことを何もしなかった」。
B→イエス「イエスよ、あなたがあなたの国へと入る時に、わたしを思い出してください」(以上私訳)。
これらの会話には特徴があります。ギリシャ語文法で、未完了過去という時制が使われていることです。一人の死刑囚Aが「罵った」(39節)、別の死刑囚Bが「叱った」(40節)、そして同じ人物Bがイエスに「言った」(42節)。この三つの動詞はすべて未完了過去という時制です。未完了過去は、過去のある時点から、過去の別の時点まで継続している行為に用いられます。強く訳せば、「~し続けていた」という表現です。福音書が丁寧に十字架上の会話を再現しようとしていることが分かります。
二人の死刑囚は、ただ一度これらの罵倒・叱責・懇願の言葉を言ったのではありません。ある時間、同じ言葉を繰り返し言い続け、同じ問答を何回も繰り返していたのです。一人は隣の死刑囚であるイエスを罵り続けました。「お前はキリストではない」。もう一人は罵り続ける男をイエスの頭越しに叱り続けました。「お前は神を恐れよ」。また、隣のイエスに向かって願い続けたのです。「わたしを思い出してください」。これがすべて大声でなされます。しかも二人は瀕死の痛みと苦しみを抱えながら叫んでいたのです。刺し貫かれる激痛、大量の出血、肩の脱臼、呼吸困難。壮絶な場面です。
ところでイエスはどうなのでしょうか。二人の大声の対話や、自分に対する願いに対してイエスは沈黙し続けていたのでしょうか。「さてイエスは言い続けた(未完了過去)。『アッバ、彼らを赦してください。というのも、自分たちが何をしているかを、彼らは知らなかったのですから』」(34節私訳)。ここも未完了過去です。34節のイエスから神への祈りの言葉は、ずっと続いている可能性があります。二人はイエスによる赦しの祈りの前に、自分の罪を自覚します。一人の死刑囚は執拗な赦しを求める祈りに対して余計に苛立ち、赦しを拒否し、イエスがキリストであることを否定します。もう一人の死刑囚は、罵る者をも赦し続けるイエスを見て、本当にこの人は神であると信じます。神を畏れるべきです。畏敬に値する行為は無条件の赦しです。愛こそ神の凄みです。こうして彼は赦しを受け入れ、赦されるならば自分のことを救い出して欲しいと願います。
この二人が持っていた悪とは何でしょうか。この二人は何から救い出されるべきだったのでしょうか。彼らはエルサレム住民です。ユダヤ至上主義者です。都で反乱を起こしたバラバの左右に位置する側近です。ローマ帝国に対しても自分たちの政府に対しても憎しみを持っています。ガリラヤ住民、イドマヤ人、サマリア人を軽蔑しています。ローマ軍や自分たちの政府を、武力で転覆させても良いと考えています。バラバと一緒に死んでも構わないという覚悟で、反ローマ帝国運動・反最高法院運動に身を投じたのです。三人ともに同時に殺されれば納得がいったかもしれません。事態が複雑になったのは、エルサレム住民がバラバだけをガリラヤ出身のナザレのイエスと交換に救ったことです。
二人から見れば、エルサレム住民は裏切り者に見えます。なぜ自分たちも救わないのか。バラバに対する感情も微妙に変化します。なぜ彼は生かされ、自分たちだけが憎むべきローマ兵によって殺されるのか。釈放されたバラバも住民の一人となって、二人の死を見届けていたと思います。十字架上の一人が自暴自棄になって、イエスに向かって八つ当たりするのは当たり前かもしれません。ガリラヤ住民であり、自分の十字架も担いきれない弱い人物。自分を貶め侮辱する者たちに何も言い返せない弱い人物に見えます。弱い者はさらに弱い者を叩いてストレスを解消するものだからです。「お前はキリストではない。自分を救え。俺たちも救え」という罵倒は支離滅裂です。それゆえに彼の悪は社会全体が生み出しているということを滲ませます。憎しみ続けること・自暴自棄になること・より弱い者を叩くこと、これらが悪の具体です。健全な社会において、およそ場違いな暴力的態度です。死刑という暴力も彼の態度を支えています。暴力的社会が暴力的人を生みます。
暴力的な死刑囚に対しても、イエスは赦しの祈りを捧げ続けました。この祈りが、もう一人の死刑囚に影響を与えました。本当にこの人は場違いな態度を取らない。嘘っぱちの裁判で冤罪を被っても、侮辱されても、実に死の直前、殺される直前まで、神の無条件の愛を貫いて生きていることに感動したのです。憎しみ続けない・自暴自棄にならない・より弱い者を叩かないイエスこそが救い主です。暴力の連鎖から救われて、暴力を捨てたいと彼は願いました。「主よ、憐れんでください。天に帰る時にわたしのことを思い出してください。」
そして彼は彼に言った。「アーメン。あなたにわたしは言う。今日わたしと共にあなたは居る、パラダイスに」(43節)。冒頭の「言った」は、未完了過去ではありません。アオリストという時制で過去の一回きりの行為です。十字架上の三人の会話は、救いの約束で締めくくられます。彼の願い通り、否、願いよりも早く、死刑囚はその場でイエスの弟子となりました。永遠の命第一号。この時からずっとイエスと一緒に居ることになります。大口を叩いて「あなたと一緒に死ぬ」とまで言った弟子ペトロではなく、不思議な経緯で隣の十字架に居合わせた死刑囚が、イエスと共に殺され、共によみがえらされ、共にパラダイスに行くこととなりました。パラダイスの第一の意味はエデンの園です。神の前で、対等に人間同士が向き合い、協力して畑を耕す生活です。
パラダイスには力による支配/被支配はありません。ローマ人もガリラヤ住民もありません。すべての人が、隣人に仕え、土に仕え、神に仕えるのです。死刑場でイエスから習った生き方が、パラダイスで実践できます。彼は実は今までもこのような社会でこのような生き方をしたかったということに、最後の瞬間に気づき救われたのでした。どんな人も更生しうるのです。
今日の小さな生き方の提案は、隣にイエスが居られることに気づくことです。人生の十字架は重いものです。神から見捨てられた感覚にしばしば襲われます。そこで自暴自棄になるのではなく品位を保つべきです。自分の十字架を軽くしてくださる方の赦しの祈りを聞くのです。また「あなたは今日わたしと共にパラダイスに居る」との約束を聞くのです。教会で、神の前で対等に仕え合う交わりを作りましょう。パラダイスは、わたしたちの只中にあります。