目が開け ルカによる福音書24章13-35節 2019年1月6日礼拝説教

エマオに向かう二人の弟子に復活のイエスが現れるという物語は、マルコによる福音書16章12-13節にも短く触れられています。元来のマルコ福音書は16章8節で終わっていますから、12-13節は付け加えです。ルカの教会はもしかすると、付け加わった状態のマルコ福音書を礼拝で用いていたのかもしれません。その後、より詳しい言い伝えを入手して、ルカ福音書に「増補改訂版」を掲載した可能性があります。ルカ福音書1章1-3節にある編纂者の自負が、この推測を裏付けています。福音書編纂については、「多くの人々(マルコ福音書の著者ら)が既に手を着けています」が、自分たちは「すべての事を初めから詳しく調べています」と、ルカ教会の福音書編纂作業チームは胸を張っています。ルカ福音書自体が、マルコ福音書の「増補改訂版」なのです。

もう一つ重要なことは、24章13節以降が使徒言行録との接続部分でもあるということです。先に存在している使徒言行録の冒頭部分にうまく着地しなくてはいけません。復活者イエスはガリラヤではなくエルサレムにいます。そしてエルサレムから全世界に教会が設立されていく様子と、本日の箇所は重なり合い響き合わなくてはいけないのです。

具体的に言うとエマオ途上の物語は、使徒フィリポがエチオピア人宦官にバプテスマを施す物語から迫害者サウロがバプテスマを受ける物語までのひと繋がり(使徒言行録8章26節-9章19節)と、重なり合い響き合っています。大筋が同じです。旅をする人に復活のイエスが出会い、回心してイエスをキリストと信じるという物語という点で一致しています。出会う方法は、聖書を解説する人を通してか(エチオピア人の場合)、あるいは復活者自らかは(サウロの場合)異なります。いずれにせよ、両者の回心は「目からウロコ」の出来事でした。今までの人生哲学がぐるりと転回する、悔い改めと救いの経験です。

エマオの物語では、復活者自らが聖書を解説するという二重の役割を果たしています。さらに、教会が毎週行っている「主の晩餐」を、復活者自らが取り仕切ります(9章16節、22章19節、24章30節、使徒言行録2章42・46節、20章7節、27章35節)。こうしてルカ福音書と使徒言行録は接続されます。使徒言行録と調和する福音書ができあがり、ルカ文書が完結します。

このようなルカ教会の全体構想に沿って、エマオの物語の機能が考えられなくてはいけません。すなわち、ある人が、死刑囚ナザレのイエスを復活のキリストと信じ、教会に連なる過程の典型例を示すという機能です。

イエスをキリストと信じるための第一の過程。人はそれとは知らずに復活者に出会っています(13-18節)。その前提として、義人イエスが十字架で処刑されたという悲劇について、この冤罪が悲劇であると全ての人は理解できます(19-21節)。善人の十字架の死までは理解できます。しかし、それが悪人のための死であるとか、その人が三日目によみがえらされたとかということについては、理解しようとしないものです(22-24節)。神から離れようとする者に、神は追いすがり共におられる。すべての者と神は共におられます。

二人の弟子はエマオという町の出身者だったという言い伝えが古代教会にすでにありました。彼らも、アリマタヤ出身のヨセフのように、巡回して旅をするイエス一行に地元エマオで出会い弟子となり、一行に食事と宿を提供していた定住の支援者だったのかもしれません。そして、エルサレムで過越祭を祝うために来て、そこでイエス一行と合流していたのでしょう。最後の晩餐にもいた可能性もあります。少なくとも、24章9節の「十一人とほかの人皆」の中にはいたはずです。そうでなくては22節の「わたしたち」の意味が通じません。

二人は師匠イエスの非業の死を悲しんでいました。暗い顔をし、見知らぬ人にまで十字架の悲劇を語るほどです。彼らはイエスに期待をかけていたのです。「あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」(21節)。「解放する」は「贖う」という言葉です。奴隷を自由人に買い戻すという元々の意味を重視した翻訳です。ローマ帝国の奴隷と成り下がったユダヤ人を解放し、イスラエル独立王国の王となる人として期待をかけていたのです。

しかしユダヤ人の代表者である祭司長たちや議員たちが権力をふるって、民族自決の芽を摘んでしまいました。二人は、人生をナザレのイエスが王となることに注ぎ込んでいたので、非常に失望しています。自分にもがっかりしています。なぜなら、彼らには自分も師匠を見捨てたという自責の念、イエスに対する罪責があったからです。こんなに楽しくない過越祭は初めてです。彼らはイエスが殺されたので、イエスの弟子であることを辞めて故郷に帰っていったのです。イエスは、そのような二人を追いかけてエルサレムから来ます。離れようとする者に近づくキリスト。

道を求めると書いて「求道」と言います。信仰を得ようと近づくイメージの言葉です。キリスト信仰は、この方法では得られないと思います。信じきれないという失望する者に、イエスはそれとはわからない仕方で追いかけてきて、伴ってくださる。つまり目標を捉えようとするのではなく、途上で捉えられてしまうというのが、信仰の本質です。後で振り返って考えると、あの出来事に神が働いておられたと気づくという類のものです。

イエスをキリストと信じる第二の過程は、聖書の説明を聞くことです。ナザレのイエスの十字架刑死を、聖書を通してどのように考えるのかということです。贅沢なことに、ナザレのイエス自身の聖書解釈・十字架と復活の出来事とは何であるのかを、二人の弟子は聞くことになります(25-27節)。27節の「モーセ」は創世記から申命記を指します。「すべての預言者」は、ヨシュア記から列王記(ルツ記を除く)・イザヤ書からマラキ書(哀歌を除く)を指します。

空の烏を祝福された創造主は、人の命も大いに祝福しておられます。ハンセン病を患う人も、しょうがいを持つ人も、子どもも女性も、徴税人も娼婦も全存在が「良し」とされています。しかし、「木にかけられた死体は、神に呪われたもの」とされます(申命記21章23節)。この意味で、十字架という木で殺されたイエスは神によって呪われた存在です。

しかしどう考えても、イエスは悪いことではなく、むしろ正しいことを行っていました。なぜ義人が、この世で横暴を働く権力者たちに殺されなくてはいけなかったのでしょうか。また、なぜ義人が身内から裏切られ、見捨てられなくてはいけなかったのでしょうか。

イザヤ書53章に示される救い主の姿は、イスラエルを解放する勇敢な武人のイメージではありません。「贖う」という言葉に、「自らを償いの捧げ物とする」という意味を強く吹き込んでいます(イザヤ書53章10節)。これはレビ記4-5章等に示される、人の罪を贖う犠牲獣の姿です。他人の罪を自分のものとして担い(同6節)、代わりに死ぬという人物が、救い主・「神の僕」(11節)だという言葉です。しかもこの悲劇は、神が認めたことなのであり、あたかもアブラハムが息子イサクを殺すような仕方で、神が神の子を殺した。それが十字架です。こう考えるとイエスの裁判や十字架上の様子も、弟子たちの裏切りも、イザヤ書53章とそっくりです。イエスの十字架は、イスラエルだけではなくすべての人の罪を担い、代わりに死ぬという犠牲の死だったのです。

創世記2章7節で神は、アダム(人の意)に命の息を吹き入れられ、生きる者としました。神は、命の主であり、人をよみがえらせることもできます。預言者ヨナが三日三晩魚の腹の中にいて、深淵の黄泉を体験し、そこからよみがえらされたように、そして彼が最悪の帝国都市ニネベを丸ごと救ったように、イエスはよみがえらされました(ヨナ書)。それは、失望する弟子たち、希望を失う世界中の人々を、神がキリストとともに立ち上がらせるためです。「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし、我々を打たれたが傷を包んで下さる。二日の後、主は我々を生かし、三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる」(ホセア書6章1-2節)。

代わりの死を死んだ方は、代わりの命を配ってくださいます。罪を悔い改め復活の永遠の命を生きることができるようになるのです。

ああ、物分りが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、キリストはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。あなたたちの仲間の女性たちは正しい。今日ナザレのイエスはあなたたちのためによみがえらされた。この聖書の言葉は、今日、あなたたちが耳にした時、実現した。

イエスをキリストと信じる第三の過程は、主の晩餐です。エマオ出身の二人の弟子はペトロとアンデレのような兄弟だったかもしれません。自宅までたどり着いた二人は、いつものようにイエスに食事と宿を提供しようとします。先に行こうとするイエスを強いて滞在させます(28-29節)。かつてイエスの聖書解釈を聞いて弟子となった時に感じた、心が燃える経験をしたからです(32節)。家の主人でもないのに、イエスは夕食を仕切り出します。いつもの仕草でパンを取り、祈りを捧げてから、一人ずつにパンを裂いて与えます(30節)。

二人の弟子はパンが手渡された瞬間に、「この人は主だ」と分かります。今までウロコのようなもので塞がれていた心の眼が開かれたのです。その時イエスの姿も消え、手にパンひと切れだけが残されます(31節)。こうして、二人の弟子は女性たちの言葉を信じ、イエスが復活したことを信じました。十字架のイエスこそが、イザヤ書53章の示す救い主・贖い主・いのちの主であることを信じたのです。彼らはエルサレムに戻り、弟子としての人生を歩み直します。初代教会を建てる一員となったのです(33節)。

これは教会での主の晩餐が、イエスをキリストと信じるために必須であることを示しています。35節「パンを裂いてくださった時に」は、「パン裂きにおいて」が直訳です。初代教会は、「パン裂き」という名詞を主の晩餐のために使い慣らしていました(使徒言行録2章42節)。手元にあるひと切れのパンを見て、わたしたちは見えない復活のキリストが今ここにおられることを信じます。儀式には、追体験という重要な意味があります。

わたしたちがぶらりと教会に来た時、わたしたちは何かを得ようとしていたのかもしれません。しかし、正確には復活のキリストに捕まっていたので、導かれたのです。わたしたちが礼拝の中で聖書の解説を、十字架と復活のキリストの証言として聞く時、復活のキリスト自らが語りかけています。わたしたちが礼拝の中で主の晩餐を共に行う時、復活のキリストはわたしたちの目の前におられます。これらの過程を通じて、わたしたちはナザレのイエスを、自分の救い主と信じることができます。

今日の小さな生き方の提案は、イエスをキリストと信じることです。そして復活のイエスを礼拝し、礼拝の中で復活のイエスに出会い、再び立ち上がる力を得ることです。そのために教会という交わりは存在し、そのために福音書は編纂されました。旧新約聖書全編もまた、礼拝で復活のイエスを証言するための本です。聖書を開き、パン裂きを行う時、わたしたちの心の眼が開かれます。永遠の命を共にいただいて、明日を生きる力を得ましょう。