平和があるように ルカによる福音書24章36-43節 2019年1月13日礼拝説教

 先週の話で、クレオパともう一人のエマオ出身の弟子たちが、復活のイエスに出会いました。彼らはイエスと数時間を共にしたのです。二人がイエスだと分かった時に、イエスの姿が消えました。彼らはイエスがよみがえらされたことを信じました。女性たちの証言は正しかったのです。そこで、二人はエマオからエルサレムに戻ります。おそらくは最後の晩餐を行った宿屋に戻ると、仲間たちが集まって話し合っていました。

 その中で、復活のイエスに最初に出会った人物は、シモン・ペトロとされています(34節)。これはパウロも共有している言い伝えです。コリントの信徒への手紙一155節にあるとおり、復活者イエスは「ケファ(ペトロのアラム語名、岩の意)に現れ、その後十二人に現れた」という言い伝えをパウロも受け入れています。パウロとルカの近さがうかがい知れます。

だからルカ教会としては、エマオの二人の弟子よりも先にイエスはペトロに出会っていると言いたいのです。つまり、二人の弟子たちを追いかけてエルサレムからエマオへの途上に現れたイエスは、先にエルサレムでペトロに出会っていたのでしょう(15節)。

これが本日の場面の大前提です。宿屋には、イエスの弟子たちが男女共に大勢集まっていました。その人数はよく分かりません。少なくとも十三人以上の男性、五人以上の女性の弟子たちがいたはずです。先ほどのパウロの手紙によれば「次いで五百人以上の兄弟たちに同時に現れました」(コリントの信徒への手紙一156節)という事態が、本日の場面の並行箇所です。「五百人」は誇張表現で、多くの人(数十人?)に同時に現れたという意味と考えられます。

この大勢の弟子たちの中に、ペトロとクレオパともう一人の弟子という三人がいます(1318節)。この三人の男性は、すでに復活のイエスに出会っている人です。また、空の墓を目撃した五人以上の女性の弟子たちもいます(10節)。彼女たちは直接イエスに出会っていないけれども、天使たちの言葉を信じてイエスの復活を信じた人々です。復活を確証している八人以上の人は、ここで「恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」(37節)り、「うろたえ・・・心に疑いを起こ」(38節)したり、「信じられず、不思議がっ」(41節)たりする必要はないように思えます。しかし、聖書は十把一絡げにして、彼ら/彼女たちは慌てふためいて混乱状態に陥ったと、語ります。

不自然な文脈が教える真理があります。それは罪というものの一側面です。大多数がうろたえ混乱をきたしてしまったら、少数者は群集心理により再び信じられなくなるのかもしれません。それも合理的な説明です。それほどにわたしたちは弱い存在です。少数者であり続けることは決して容易なことではありません。たやすく多数者に煽られてしまうものです。

そのような人間の本質に沿って深掘りすると、八人の弟子たちが復活信仰を失う理由は、復活信仰そのものにあります。ナザレのイエスが神によってよみがえらされたということは、一旦信じた人にとっても、あっという間に失われることがらなのです。あるいは失われないまでも、心に疑いを起こしがちな内容なのです。一般的に、人は一度生まれ、一度死ぬからです。ナザレのイエスが、その自然法則に逆らう唯一の人であるということは、本質的に「躓きの石」です。だから復活を信じるということに、わたしたちは躓いて構いません。どんなに善意で解釈しても、「喜びのあまりまだ信じられず」(41節)という状態が、わたしたちの精一杯なのです。

復活信仰は、人間側からの接近では到達できないものです。そうではなくて、神の側からの接近によってのみ、人は十字架の死刑囚がよみがえって今も生きて働いているということを信じることができます。ここでわたしたちは、二つのことに注目しましょう。どちらも復活者イエスの振る舞いです。一つは、イエスの登場の仕方です。もう一つは、イエスのユーモラスな仕草です。

エマオへ行く途中においても、イエスは後ろから二人の弟子たちを追いかけてきました。神の側からの接近です。それがエルサレムの宿屋にも及びます。「これらのことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち」(36節)ました。弟子たちが、外へ出てイエスを捜して捕まえて、「どうぞ、この部屋にお入りください」とは言っていません。またギュウギュウ詰めの部屋の中で、誰もイエスのために、「どうぞ、わたしたちの真ん中に来てください」と場所を作っているわけでもありません。

「イエスは本当に復活した。あの人に現れた。この人たちにも現れた。最後に、このわたしにも現れた」ということを、心を燃やして話し合う時に、突然、復活者イエスが真ん中に立つのです。このような仕方で、神の国は弟子たちの只中にあります(1721節)。

教会は十字架と復活の主イエスをキリストと信じている人たちの交わりです。この人々が日常生活の中で、全く些細な出来事にあたっても、「あれは神の働きだった」と無邪気に喜び語り合う時に、その真ん中に復活の主イエスが立っています。その交わりの中に入る人は、最初はもちろん戸惑います。「なんでこの人はこのように祈るのだろう。何の根拠でこの人は神の働きだと言い切れるのだろう。こどもが素直にアーメンと言っているのはなぜだろう。なんで賛美歌を歌って神を崇めるのだろう。」

何となく惹かれ、時々訪れるようになり、さらにしげしげと通うようになり、これらの証言を交わし合う礼拝という交わりの中で復活信仰が与えられるようになっていきます。これらは全て霊である神の働きと導きです。37節「亡霊」と訳されています。最新の聖書協会共同訳は、直訳の「霊」という訳語を採りました。あの時、弟子たちはイエスの骨と肉、手と足を備えた身体を見ました。現在のわたしたちは、逆に「霊」を感じなくてはいけないでしょう。あの時弟子たちは真ん中に立つイエスを実際に見ました。現在のわたしたちは礼拝の真ん中に、目には見えない雲の柱・火の柱、竜巻のような風の塊が立ち上るのを感じなくてはいけません。そのような礼拝の真ん中で生きて働く霊の神が、実に神のみがわたしたちに復活信仰を与えます。

もう一つのイエスの振る舞いは、信じない弟子たちに対するユーモラスな仕草です。イエスは自らの復活について、あるいは自分が自分であることについて一所懸命に説明し証明しようとします。実に涙ぐましい努力です。

この箇所は作家の椎名麟三という人の入信のきっかけとなった聖句です。椎名は、ある日旅をしていて、身分証明をしないといけない場面に出くわします。ところが免許証その他、その時まったく持ち合わせていなかったのだそうです。そこで、自分の鼻を指差して一所懸命に「わたしが椎名麟三です」と力説する。しかし相手は信じない。「とにかく椎名さんであることを証明するものを見せなさい」と。押し問答です。椎名は、ふと客観視して自分の仕草に吹き出して笑い出したのだそうです。「この鼻が自分であるわけはないのにね。そんなことで証明できるはずがないのにね」、というわけです。そうして自分の、必死だけれどもユーモラスな仕草と、復活者イエスの仕草を重ね合わせるのです。

自分の顔を見ても、寝食を共にした弟子でさえ信じない。つい最近復活した自分に出会って大喜びだった三人の弟子でさえも信じない。弟子たちとの押し問答です。「いや、あなたが師匠イエスであることを証明するものを見せてください」と。そこでイエスは十字架に釘付けされた手足の傷跡を見せる。「どうだ、これが証拠だ」と。しかし、それでもまだ弟子は信じません。「まさしくわたし、わたしだ」と、IDカード無しに必死に叫ぶ主イエス。これだけでも十分ユーモアに満ちています。

さらにイエスは驚きの解決策を発案します。これもまた実に面白い。「ここに何か食べ物があるか」(41節)。弟子たちは不意をつかれます。不審な闖入者に魚をひと切れ、つい渡してしまいます(42節)。何をするんだろうと、みな思ったことでしょう。聖書の読者は、ここで魚をイエスが弟子たちに裂いて配って、みんなで満腹する場面を思い起こします(91017節)。何か奇跡を行って、自分がイエスであることを証明しようとしているのかと、思わせる筆致です。同じ魚が用いられているからです。

ところが、復活者イエスは、出された魚をただむしゃむしゃと食べるだけなのです(43節)。これは何ともおかしみのある仕草です。幽霊ではないよということを証明するために、イエスは食べたのでしょう。椎名麟三は、その時のイエスの必死な食べっぷりを想像して笑いがこみ上げてきたというのです。そしてユーモラスなイエスを再発見した時、イエスが復活したということを信じることができたと述懐しています。

椎名はユーモアについて、次のような例を挙げて説明しています。「例えば校長先生が朝礼の訓示を垂れようと台に登る時に、うっかり足をすべらせ転んだ時、子どもたちは笑うだろう。本来ありえないことが起こる時にユーモアが発生する」。イエスが魚を食べる行為も、この一種です。

弟子たちもまた、その場で笑い出したかもしれません。こんなにまでして一所懸命に、「まさしくわたしだ。よみがえったのだ」ということを、全身で証明しようとして、魚を食べている姿に、生前のイエスの振る舞いを思い出したのです。つまりイエスはユーモラスな方だったのです。たとえ話などにも、当意即妙な会話の中にも、イエスのユーモアは垣間見えます。「このユーモアは、彼にしか出せない味だ。この方はイエスだ。本当によみがえったのだ」。気づいただれかがにやりと笑い、イエスもにやりと笑い、一同が大笑いに包まれます。このような健康的な笑いの只中に、イエスの復活が確認され、そして復活のイエスと共に再び立ち上がる力が与えられます。

復活信仰というのは、生真面目に論証してたどりつく真理ではありません。むしろ神の引き起こす当意即妙なユーモラスな出来事によって、笑いの只中で初めて与えられるものです。

この点、こどもたちはユーモラスな出来事の宝庫です。大人が繰り広げる生真面目な儀式について、いつも面白い反応をしてくれます。大人の説教が長いと「まだ終わらないの」と大声で言ったり。主の晩餐のぶどうジュースをちびちび飲んだり。意外な人物がタイミングよく「アーメン」と言ったり。それらは復活のイエスのユーモラスな仕草を思い起こさせます。だから健康的な笑いが、礼拝の中で起こるのです。そこに復活者イエスがおられます。そして笑いの只中でわたしたちも日常生活の葛藤・自分の十字架から解放されます。

今日の小さな生き方の提案は、ユーモアのすすめです。世界は冷笑と嘲笑に満ちています。人生は尊重されない経験・笑えない出来事に満ちています。どうすればよみがえらされて月曜日から生き抜いていけるのでしょうか。復活信仰と復活の経験はユーモラスな出来事によって与えられます。そしてそれは健康的な笑いに満ちた礼拝の只中で起こるものです。