エサウとヤコブの双子は大きくなりました(27節)。ヘブライ語の直訳調を活かすならば、エサウは「狩り/獲物を熟知する男性」・「野の男性」となりました。そしてヤコブは、「諸々の天幕に座る完璧な男性」になりました。新共同訳「穏やかな」は、直後の調理の場面に引きずられています。ヘブライ語形容詞タムは、「非の打ち所のない」という意味合いです。14回しか使われない言葉ですが、7回もヨブ記で用いられています。ヤコブは義人ヨブに比肩する人物です。この後の物語を読めば、ヤコブという人が決して穏やかな人ではないことが分かります。いわゆる「女らしさ」と「穏やか」が結びつきやすいので、料理=女性の仕事=穏やかな性格という思考の流れで、このような翻訳になったのでしょう。わたしたちのジェンダー意識が問われています。
エサウは狩猟/獲物についての知識が豊富で、羊等家畜を飼う傍ら、野で獣を狩る仕事もしていたのでしょう。ちなみに27章ではエサウも料理をしています(27章31節)。ヤコブは、何でもできる人間だったので(料理はその一つに過ぎない)、羊等家畜を飼う傍ら、イサク・リベカ家のすべての天幕を管理する仕事や、さらには羊毛や酪農商品を取り扱う外部との取引交渉をしていたのでしょう。天幕の中で座って行う仕事は商談です。アブラハム家はメソポタミア出身の豪商でもあります。基本的に双子は共に「羊飼い」として外の仕事をしていました。その傍ら、それぞれの長所に応じて役割分担をしていたのでしょう。エサウを外向的な人とし、ヤコブを内向的な人と推定するのは拙速です。この双子の族長も、羊飼いとしてメシア的人物です。
イサクは長男のエサウを愛し、リベカは次男のヤコブを愛しました。イサクについては偏愛の理由が記されています。「なぜなら、獲物が彼(イサク)の口の中にあるから」(28節直訳)。ギリシャ語訳と『サマリヤ五書』は、「なぜなら、彼(エサウ)の獲物が彼(イサク)の口の中にあるから」とします。イサクは単に肉好きだったというだけではなく、愛する長男が狩りをした獲物だったから好んで口にしていたのでしょう。イサクの偏愛が相乗効果を生んでいます。エサウは獲物について、肉の部位について詳しくなり、父親の好み通りに調理することもできるようになります(27章)。
イサクはエサウについては良い教育者です。息子の能力を引き出すことに成功しています。しかしヤコブについては悪い教育者です。ヤコブの長所を無視しているからです。
仮にヤコブが狩りをし獲物を調理してもイサクは喜ばなかったかもしれません。長男ではないからです。ヤコブの獲物はイサクの口の中にはありません。エサウの獲物のみがイサクの口の中にいつもあるのです。ヤコブは完璧な仕事をできる人間でしたが、イサクの愛情を獲得することはできませんでした。ヤコブは、長男重視の社会・家父長制の被害者です。父親の愛情だけではありません。実際の相続においても、エサウだけがすべてを相続することが決められています。アブラハム・サラ夫妻が「嫡出」にこだわって、長男イシュマエルを追放し、次男イサクを長男に据え、全財産をイサクにのみ継承させたことが、この家のルールなのです。
リベカはヤコブを愛します。偏愛の理由は書いていません。母親だから無条件に愛したとは考えません。それならば、リベカはエサウもヤコブも無条件に同等に愛すはずだからです。ヤコブが「家事労働をよく手伝う息子」だからでもありません。彼はもっと多くのこともしています。先週からの続きの話題ですが、次男であることの不利益に共感し、ヤコブに肩入れしているから、リベカはヤコブを愛したのです。
親も人間です。どんなに等しく愛したつもりでも、子どもに対する相性があったり、場面によっては特定の子どもを贔屓したり、どこかの場面で埋め合わせるつもりがかえって不均衡になったり、色々あります。子どもたち各人には、親の覚えていないところで親を恨みに思うことが、ありえます。ましてやイサクとリベカの、エサウとヤコブに対する偏愛はもっと露骨だったのです。ヤコブはイサクを恨みに思っていたでしょう。しかし反抗はできません。家父長制のもと、家からの追放は社会からの抹殺を意味します。イサクの場合は父親から殺されかけたけれども、「否」と言えませんでした。ユダヤ人の解釈によれば、母親サラが早くに死んだ理由は、夫アブラハムが息子イサクを殺そうとしたことに対するショックだったとされます。サラもイサクも精神的に抑圧されています。それを引き継ぐ孫ヤコブも精神的にいつも抑圧されています。
そんなある日のこと、ヤコブが赤い(アドム)豆を用いて煮物を煮ていました(29節)。ヘブライ語表現はしばしば同根の単語を連ねるので、「煮物を煮る」が直訳です。シチューのようなものです。そこへエサウが野から来ます。彼はふらふらになるまで働いていたようです。
「なあ、その赤いもの、この赤いものをわたしに飲ませてくれ。わたしはふらふらだから」(30節直訳)。「カレーは飲み物」と言い放ったのはマツコ・デラックスでしたか。空腹のあまりシチューを飲みたいとエサウはお願いをします。そして、赤い肌だけの理由ではなく、赤い煮物を飲みたいと言ったという理由でも、彼の別名は「エドム」となります。飲むという単語は、ここ一回しか使われない、エサウのためだけの特別な動詞です。
するとヤコブは商談交渉を始めます。「あなたは本日付で、あなたの長子の権利をわたしに売れ」(31節)。エサウは即座に応えます。「見よ、わたしは死に行きつつある。なぜこれがわたしに属するのか、長子の権利が」(32節)。ヤコブは畳み掛けます。「あなたは本日付で、わたしに誓え」(33節)。
このやり取りを見ると、ヤコブは入念な準備をしていたこと、それとは反対にエサウが不意打ちを食っていることが伺えます。ヤコブは落ち着き払って相手の出方を読んで、常に先手を取っています。それに対してエサウは慌てて、常に後手に回っています。
ヤコブはエサウが赤い豆の煮物を好んでいることを知っているでしょう。エサウが外に出かけた後で、彼が帰ってくるであろう時間に、あえて赤い豆のシチューを調理します。エサウは完全に引っかかったのです。空腹と疲労は、冷静な判断を奪います。エサウが先に「飲ませてくれ」というように誘導されています。
ヤコブの目的は、長子の権利を自分のものにすることでした。父親の愛情という主観的なものはもはや獲得できません。ならば、父親の財産という客観的な物を獲得する。これこそ、不公平感をさらに増幅させている原因だからです。
商人らしくヤコブは、正式な売買契約を交わそうとします。「譲る」というより「売る」が原意です。ヤコブ所有の赤い豆の煮物と、エサウ所有の長子の権利を、等価交換するという契約です。正式な契約には、日付の付いた誓約が必要です。「まず」(31節)・「今すぐ」(33節)ということではなく、同じ単語なので「本日付で」とした方がヤコブのこだわりが分かります。
エサウは、母親リベカとよく似た表現で大声を上げています。「なぜこれがわたしか」(22節)というリベカの叫びに対応して、「なぜこれがわたしに属するのか」(32節)とエサウは叫びます。リベカと同じく、文法的に乱れています。だからこそ、長子の権利についてエサウが熟慮していないことが伝わります。長子の権利などどうでもよいと、その瞬間彼は本気で考えていたのでしょう。彼はなぜ長子の権利が自分に属するのかを熟考すべきでした。一方ヤコブはなぜ自分に属さないのかを熟考していました。
よく考えれば、長子の権利と赤い豆の煮物料理が、等価値を持っていないことは明らかです。長子の権利は全財産の相続権ですから、赤い豆もそこに含まれるものです。この時点でヤコブのものはすべてイサクの財産であり、ヤコブ作成の料理もイサクのものです。赤い豆は、いつかすべてエサウ所有のものになる財産のうちの、ほんの一部なのです。
ある意味で素直なエサウは、完璧に騙されました。即座にエサウは正式な誓約をして、自分の長子の権利をヤコブに売り渡しました(33節)。本日付の正式な契約が成立したことを確認した上で、ヤコブはパンと(パンはヤコブのサービス)赤い豆の煮物をエサウに与えました。双方の債権・債務は消えます。
原文ではこの後のエサウの行動は、四つの動詞によって立て続けに表現されています。「そして彼(エサウ)は食べ、彼は飲み、彼は立ち、彼は行った」(34節直訳)。このような表現によって、エサウの短慮・短絡が読者に示されています。最後に総括的に、聖書の著者は物語の地の文で、エサウについての評価を下しています。「そしてエサウは、その長子の権利を軽んじた」。
聖書の地の文は、エサウを批判し、ヤコブに肩入れしています。わたしたち読者からすると、エサウに同情したくもなる場面です。ヤコブが悪意を持って計画的にエサウを騙していることは明らかだからです。なぜ、このような詐欺師が義人であり、完璧な人物なのでしょうか。エサウの何が問題なのでしょうか。ヤコブの何が模範なのでしょうか。
ヤコブが義人である理由は、彼が義に飢え渇いていたことにあります。「自分に相続権が少しも与えられていないことは義ではない」と彼は考えています。「ほとんど同時に生まれたのに、順番を付けられ、エサウの総取りになることは不当だ。どんなに完璧に仕事をしても、父イサクは自分のことを見てくれない。これも不当だ」。放蕩息子の譬え話との重なり合いや異同があります。
そして実際に、ヤコブは義を求める行動をします。それがエサウから長子の権利を奪うことです。権利rightは義righteousnessです。ヤコブはエサウよりも敏感に神の義を求めています。家父長制社会の範囲で許される逆転劇を、ヤコブは編み出して実践したのです。家父長制を逆用し、全財産を奪い取ろうとしたのです。父イサクも次男ではないか。
「権利の上にあぐらをかく者を、法は保護しない」とは民法の大原則です。また、憲法12条も「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」と規定します。「権利ばかりを主張するな」という揶揄は、権利について無理解な発言です。権利は主張しなくては獲得できない類のものだからです。義に飢え渇く、明敏な者の権利主張こそが、時代を切り開くのです。例えば女性参政権もその代表例です。
今日の小さな生き方の提案は、神の国と神の義を求めることです。永遠の命という恵みは、わたしたちを満足させます。「わたしも神の子であり、絶対的に神に愛されている」という信仰は、わたしたちの人生に基盤を与えます。しかし恵みは同時に、わたしたちに飢え渇きも自覚させます。日常生活において、不当に扱われることが多いからです。「同じ神の子・同じ人の子なのに、なぜ」と感じます。ヤコブは「不公平だ、おかしい」と声を上げました。恵みはアヘンではありません。恵みが正義を教えるのです。恵みが逆転の希望を与えます。自らの権利を自覚しつつ、奪われている権利を再獲得いたしましょう。