本日の物語もアブラハムに似た逸話が残っています。「自分の妻を姉/妹と偽って保身を図る」という話です。イサクの父アブラハムは、2回もこの失敗を繰り返しています(12章10-20節、20章1-18節)。イサクは1回です。そして、イサクの息子エサウとヤコブには、同種類の失敗はありません。この家族が、少しずつ改善されていることに気づきます。「改善の家族史」という視点から読み直すと、イサクの振る舞いがアブラハムに比べて改善されていることにも気づきます。また妻に対する不誠実さ、結果としての過酷さも、改善されています。
まずイサクは、12章のアブラハムとは異なり、エジプトに行きません(2・6節)。12章のアブラハムのエジプト下りは、間違えだったという神の考えが、初めてここで暗示されています。確かに神はエジプトに滞在せよと命じていません。
そして、イサクは、自分の妻に「姉/妹と自己紹介してくれ」と頼むことをしません。12章のアブラハムはエジプトに入る前に自分から直接妻に、「姉/妹と自己紹介してくれ」と頼んでいます。自分で言うことを逃げている点で、より無責任・悪質です。20章のアブラハムは、自分の言葉で「この女性はわたしの姉/妹です」とゲラルの王アビメレクに言っています。少しましです。26章のイサクはさらに改善されています。
7節の原文の語順を意識した直訳はこうです。「そして、その場所の男性たちが彼の妻のために尋ねた。そして彼は言った『私の姉/妹、彼女は』。なぜなら彼は恐れていたからだ、『私の妻』と言うことを。『その場所の男性たちが私を殺さないように、リベカに関して。なぜなら容姿が良い、彼女は』」。最後の部分は、実際には質問者に対して答えなかったけれども、イサクの心の中のセリフでしょう。「私を」と言っているのですから、イサクが話者であることは明らかです。尋ねられたから答えた、しかもあわてて答えた、しかし本音は言えなかったという含みが原文の語順から伝わると思います。
さらに、アブラハムの妻サラは、政治権力者の妻の一人になっています。アブラハムが自分の妻をエジプトのファラオとゲラルの王に供出し、王たちは実際に一旦妻としたことが、12章においても20章においても明記されています。しかし、リベカはアビメレクの妻とはなっていないように読めます。「もう少しで民の一人があなたの妻と寝る」(10節直訳)という事態を、アビメレクは咎めています。この時点で、アビメレクも土地の男性も、誰もリベカを妻とはしていません。
そして12章・20章のアブラハムは妻を供出したために財産を得ています。ひどい夫です。イサクの場合は、そこまでの便宜を権力者から与えられていません。11節と12節は、一応区分され強い因果関係はありません。
これらの点でイサクはアブラハムよりも「まし」です。改善の努力がこの家族には見られます。わたしたちはイサクを批判する前に、長い目で見た良い点も見直す必要があります。褒めて育てることです。
イサクの改善、遡ってアブラハム自身にも若干見られた改善は、どこに理由があるのでしょうか。本文は、男性族長たちの言い訳は記しますが、悔い改めを記していません(例えば9節)。しかも、物語話者も、あまり突き詰めて主人公たちの失敗を批判しません(例えば12-14節)。妻たちから見れば非道な夫の振る舞いが問いただされていないのにも関わらず、なぜ彼らは祝福されるのか。理由を考えることは読者に委ねられています。
改善の一つの理由は父親になるタイミングです。12章ではイサクは生まれていませんでしたが、20章ではサラのお腹の中にいます。アブラハムは父親になりつつある中で、若干改善されます。イサクの場合はすでに双子の父親です。子どもの前で、子どもの母親を他人の妻にするようなことは、しづらくなっていくのではないでしょうか。
もう一つは、サラとイサクの近い関係性です。ユダヤ教の伝統的解釈にはサラの死の遠因は、夫アブラハムの息子イサクに対する殺人未遂だったというものがあります。イサクは母親サラの死を受け止めきれずに悲しみに暮れます。密な母子の関係が両者にあります。サラは、夫アブラハムが自分に二度も酷いことをしたと、イサクに語り聞かせている可能性があります。イサクは家族の歴史の暗部も引き受けます。自分の罪責として継承し、それをも相続します。
一夫一婦制を採ることも、罪責を引き受け自分の世代で改善していこうとする努力の一つです。そして妻に誠実に生きるという決意が、アブラハムよりも少しましな行動に現れたと考えます。
以上はイサクを弁護する説明ですが、しかし、本日の箇所の全体は「イサクの失敗」という括りで考えざるをえません。長い目で見ての改善と、単発の出来事における失敗は、区別しなくてはいけないからです。イサクもまた、自分の命を守るために、「彼女は姉/妹だ=妻ではない」と嘘をつきました。自分の保身のために、誰かを犠牲にしても良いと考えていたのです。ここに通底する罪があります。
イサクは柔和な人物です。気の良い人です。そのような人が陥りやすい失敗は、厳しい場面から逃げるということです。柔和というものは柔弱に、気の良さというものは気の弱さに、たやすく変わります。面と向かうと言えなくなることというのは、わたしたちにもしばしばあることでしょう。ましてや古代のこと。警察、裁判などは整備されていません。私刑によって殺されることが現代よりも頻繁にありえたのです。死の危険を感じた彼は嘘をつきます。
この行為は、リベカに対する重大な裏切りです。福音書を読んだ時に、イエスを官憲に「引き渡す」行為が、伝統的に「裏切る」と翻訳されていることを説明いたしました。アブラハムがサラにした不誠実な行為は、正にこの引き渡し=裏切りです。本質的なところでイサクも同じ裏切りをリベカにしています。弟子たちがイエスを引き渡すことに罪の本質と典型を見るわたしたちは、イサクがリベカを引き渡すことにも罪というものを見なくてはいけません。
実際ペリシテ人の王アビメレクは、「罪」(10節)を問題にしています。ヘブライ語にはいくつもの罪と翻訳される言葉があります。ここでの「罪」はアシャムという言葉で、責任という含みもあります。「罪責」がしっくりときます。アビメレクは統治者として、領土内の誰かが気づかずになしてしまう悪行に責任を感じています。知らずになす他人の罪まで(ギリシャ語訳は「罪」を「無知」と訳す)、自分の責任であると考えていることに、アビメレクの優れた点があります。政治家として立派な態度です。「行政官が勝手にしたことだ」と言い訳して、自らの責任を取らない政治家の態度よりも清々としています。
罪とは何か。人間としての責任を取らない態度です。この意味でイサクの気の弱さも罪の一形態です。責任responsibilityとは、応答responseする能力abilityです。責任を負おうとするアビメレクは、イサクとの対話を試みます(9-11節)。柔弱なイサクを「当然の責任を取る人間」へと招くのです。「そしてアビメレクはイサクのために呼んだ」(9節)が直訳です。ペリシテ人がイサク(ユダヤ人の直接の先祖)の罪を教え、罪からの解放を教えます。後に「無割礼の者ども」とイスラエルに侮蔑される競合相手・敵が、対話相手としての救い主となります。「敵を愛せ」という命令だけが主題ではありません。敵から愛されてしまうことがあるという現実が、良いサマリア人の譬え話が示す主題です。ペリシテ人=悪役=罪人という固定観念から自由になる必要があります。聖書は、わたしたちが思うよりも、ダイナミックな本です。
ペリシテ人アビメレクは勘の良い人でもあります。ただ一度、イサクがリベカと「いちゃつく」のを見て、この二人は夫婦ではないかと察します(8節)。ここには言葉遊びもあります。原音表記でイサクは「イツハク」、動詞ツァハク(笑う)から派生しています。「いちゃつく」も動詞ツァハクの強意談話態の分詞「メツハク」です。「イサクがいちゃつく」がちょうど良い翻訳です(小林洋一による)。笑いながら楽しく過ごしていたのでしょう。ここに双子の息子たちも居合わせていたかもしれません。
アビメレクはイサクを尋問します。「本当は、見よ、彼女はあなたの妻だ。しかしどうして、『彼女は私の姉/妹』とあなたは言ったのか。」「なぜなら、彼女に関連して私が死なないために、私は(そう)言いました。」「これは何か、あなたが我々になしたことは。」
アビメレクはイサクに失望します。ゲラルに住むペリシテ人たちが、まったく寄留者であるイサクに信頼されていないことが悲しかったのです。罪の一つの形態は、相手を信頼しないことです。初めてここでイサクは本音をアビメレクに告げました。イサクは自分のためにリベカを犠牲にすることは構わないと思いながら、リベカのために自分が犠牲になることを避けようとしています。決して対等ではない夫婦関係です。
アビメレクの勅令は皮肉とユーモアに満ちています。「この夫と彼の妻に触れる人は、必ず処刑されなければならない」(11節)。私刑の禁止を謳いつつ、夫妻について対等の法律を制定したのです。イサクは処刑されることを覚悟したと思います。ところが、イサクにとって意外なことに、アビメレクは全住民に、夫婦どちらに対しても触れることを禁じました。各人は大切に扱われなくてはいけないという主張が読み取れます。リベカを犠牲にしている卑劣なイサクに対して、「リベカを支配するな」とも言っています。
アビメレクの法律は「カインのしるし」を思い起こさせます(4章14-15節)。イサクの罪はとても自分では負いきれない重さのものです。妻に対する不誠実な生き方は厳しく罰せられるべきです。罰は死ぬことなのでしょうか。カインとイサクには生きることが十字架として与えられます。生きながら学びながら償うのです。イサクはリベカと向き合うしかありません。
アブラハムの場合は、報酬・代価として財産が与えられました。しかしイサクの場合は、ペリシテ人のねたみの原因として財産が与えられます(12-14節)。確かに罪の増し加わるところに恵みもさらに増し加わるという面もあります。イサクの罪にもかかわらず、神はイサクを祝福したのでしょう。無条件の赦しです。しかし、それだけではありません。財産もまた「カインのしるし」です。与えられた財産をどのように用いて生きるかが試されているのです。気が弱いゆえに、隣人を信じなかったイサクは、どのように生き直すことができるのでしょうか。次週、イサクの真骨頂が現れます。
今日の小さな生き方の提案は、直面する課題から逃げない、面と向き合うということです。わたしたちは気が弱く、知らない人を信じられません。しかし逃げ腰のために身近な人に犠牲を強いてはいけません。知らない人に罪を犯させてもいけません。これらの罪について、長い目で見れば必ず改善されていると信じて、自分のできる誠実を示しましょう。課題に向き合うことです。神は「カインのしるし」をわたしたちにも付けています。守りを用いましょう。