前回までの粗筋です。イサク・リベカ夫妻には双子が与えられました。兄息子はエサウ、生まれつき毛深い男性でした。弟息子はヤコブ、滑らかな肌の男性でした。父イサクはエサウを依怙贔屓し、母リベカはヤコブを依怙贔屓していました。
イサクは年老い目も見えなくなり、死ぬ前にエサウを祝福しようと考えます。この場合の祝福とは、自分の全てを継承させるという祈りです。イサクはエサウにすべてを相続させようとしていました(1-4節)。それは当時の常識からは当たり前です。家父長制と言います。長男が全てを相続し、次男以下は何ももらえないのが普通だったのです。27章の冒頭は、エサウとイサクの対話です。
イサクの妻リベカは、この家父長制に挑みます。夫の目が見えないことを利用して、自分の最愛の息子ヤコブに祝福が与えられるように計画したのです。場面は変わって、リベカとヤコブの対話になります。エサウが祝福前の食事用の肉を狩りと料理で準備している隙に、先に料理を出してしまう。イサクがヤコブのことをエサウだと勘違いさせる。そして食事の後に祝福をヤコブに(イサクはエサウだと思っている)与えさせるという陰謀です(5-17節)。
父イサク・長男エサウ対話、母リベカ・次男ヤコブ対話。それぞれは仲間同士の対話でした。本日の箇所はそれを受けて、イサクとヤコブが対面します。いよいよリベカの立てた計画の実施の時です。つまりヤコブがイサクを騙す場面です。何とも不幸な家族です。二つの陣営に分かれて家族同士で争っているからです。
ヤコブは母の用意した料理を手にし、また両親の用意した「エサウ用の晴れ着」を着て、さらに子山羊の毛皮を腕や首に巻きつけて、イサクの前に現れます(14-18節)。イサクは目が見えなくなったので寝床に寝たきりの状態のようです(19節「起きて」)。「わたしの父よ」とヤコブ。「わたしの息子よ。誰だ、お前は」とイサク。イサクはヤコブの声だと思ったのでしょう。しかし、呼んでいないのになぜヤコブが自分の天幕に来たのかを訝ります。もしやエサウが帰ってきたのかと思ったのでしょう。イサクはエサウの帰りを心待ちに待っています。放蕩息子の例え話をなんとなく思い出します。
ヤコブは嘘をつきます。「わたしはあなたの長男エサウ」(19節)と言いのけます。しかし、その後のヤコブの言葉には、イサクとエサウしか知らない内容が含まれています。「わたしはあなたの言ったとおりにしました。どうかわたしの獲物を食べてください。そうすれば、あなたの全存在がわたしを祝福してくださるでしょう。」こういった嘘は信憑性が増します。
それでもイサクは用心深く問いただします。「このように早くあなたが見つけられたのはどうしてか、わたしの息子よ」(20節)。イサクは、目の前の人物が狩りの獲物を獲ってきたのではなく、家畜の群れから動物を見つけてきたのではないかと疑っているようです。それに対して「完璧な人物」ヤコブは、見事な切り返しで騙していきます。「あなたの神ヤハウェが出会わせてくれたのです」(20節)。かつてイサクが父親に殺されかけた時、神は雄羊をイサクの代わりに用意しました(22章13節)。同じように神はエサウのために獲物を見つけやすくしてくれたのかもしれません。イサクを説得する話術がヤコブにはあります。
そうなると逆に「目の前の人物は、やはりヤコブではないか」との疑いも起こります。エサウはこのような言葉をうまく言える人物ではないからです。イサクはヤコブに言います。「なあ、お前、近寄ってくれ。そうすればわたしはわたしの息子を触れることができる。ここにいるお前がわたしの息子エサウであるか、そうでないかを」(21節)。
このイサクの行動はヤコブの想定の範囲内でした(12節)。そしてその場合の対策も練って臨んでいます(16節)。内心はどきどきしながらも、ヤコブはイサクに近寄ります。イサクはヤコブの子山羊の毛皮をかぶせた手に触ります。「声はヤコブの声。そして両手はエサウの両手」(22節)。イサクの手はもしかすると年齢のために震えて上手く使えなかったのかもしれません。子山羊の毛皮と、毛深い人間の腕は、かなり異なります。それでもわからないほど衰えていたのでしょう。「そして彼は彼を認識できなかった」(23節)。ここに至るまでも父子がどちらも理解し合えていないことをも示唆しています。
それでもイサクは用心深く確認します。「ここにいるお前が、わたしの息子エサウなのだな」。疑問文ともつぶやきとも取れる発言です。ヤコブは「わたしが」と答えます(24節)。この時点でイサクは決断しました。「お前の獲物をわたしのために持って来なさい。そしてわたしはわたしの息子の獲物を食べる。その結果、わたしの全存在はお前を祝福する」(25節)。儀式的な食事と、祝福の祈りという儀式は、連結しています。この考え方は、主の晩餐という儀式に至るまで継承されています。わたしたちはキリストの体を食べ、血を飲むということを象徴して、パンとぶどうジュースを口にしています。それによって、キリストの全存在がわたしたちに相続されるためです。
イサクは、リベカの作った料理をエサウが作ったものと錯覚しながら、食べます。そしてヤコブはエサウを演じながら葡萄酒もイサクのために持ってきます。イサクは肉を食べ、葡萄酒を飲みました。それはおそらく少量の儀式的な飲食です。
すぐにイサクは言います。「なあ、近寄って口づけをしてくれ、私のために、私の息子よ」(26節)。ヤコブが口づけをすると、イサクは「エサウ用の晴れ着」の匂いを嗅ぎます。おそらく二人は抱き合うような体勢を取っていたのでしょう。この近さが、祝福という儀式の特徴です。イサクの全存在、すなわち生命・生活・生き方、それに付随するすべての者・物・事柄が、抱き合う後継者に移動するのです。イサクの人生で一回しかすることができない、後継者指名の儀式です。
イサクはエサウのために準備していた「祝福の祈り」を、ヤコブと抱き合いながら、神にささげます。「見よ、私の息子の香りは、ヤハウェが祝福した野の香りのよう」(27節)。この言葉には「野の人」(25章27節)であるエサウへの深い愛情が示されています。
「そして神がお前のために与えるように、天の露と地の産物、すなわち多くの穀物と酒を」(28節)。五穀豊穣を祈ることと、儀式的な食事は関わります。与えられた食物に感謝しながら、次の世代にも収穫が豊かであるようにと祈るのです。これはイサクが得た経済的な祝福をヤコブに移す祈りです。父アブラハムと同様にイサクも、多くの家畜・家来を所有する富豪だったのです。古代人にとって富も神からの祝福の証でした。神の祝福なしに井戸も掘り当てられないし、天候も恵まれないのです。イサクは、それをエサウに引き継がせたいと願って祈ります。
「諸々の民族はお前に仕える。諸々の民(レオム)はお前にひれ伏す。お前はお前の兄弟たちにとって支配者となれ。そうすればお前の母(ギリシャ語訳聖書は「父」とする)の息子たちはお前にひれ伏すだろう。お前を呪う者は呪われている。そしてお前を祝福する者たちは祝福されている」(29節)。これはイサクが得た政治的な祝福をヤコブに移す祈りです。
原文は「支配者となれ」とはっきり命じています。また、「呪われている」「祝福されている」は現在進行形です。効果が話した直後から発生しています。今エサウを呪っている者が、今呪われているというのですから、これも強い表現です。イサクは、エサウとヤコブが争い続けていることを知っています。兄弟喧嘩の原因は、夫婦がそれぞれを依怙贔屓していたことにあります。にもかかわらずイサクは、その争いを上手く治めることができませんでした。彼の思いつく最後の解決手段は、この祝福の祈りでエサウの優位を決定づけることです。古代のこと。族長・家長の祈りは、その言葉がそのまま実生活に実現すると強く信じられていたのです。
イサクは、父アブラハムの八人の子どもの中で二番目に生まれましたけれども、意思決定の上で親族中最も優位に立っていました。それと同じようにエサウも、弟ヤコブに勝るようにと願ってイサクは祈ります。エサウを呪っているヤコブがすぐに呪われるようにと、二人の父親であるイサクが祈ります。
エサウのためのイサクの祝福は、間違えてヤコブになされました。こういう場合、わたしたち現代人であれば、イサク本人が錯誤をおかしているのだからこの言葉は無効ではないかと考えます。特にイサクが見えないことを悪用して悪意で騙しているのだから、詐欺による無効も主張できそうです。あるいは、目の前の人物が誰であろうと、エサウのための祝福は、その場にいないとしてもエサウに効果を及ぼしそうなものです。しかし聖書の時代の古代人はそのようには考えません。その場に密着している二人の間の出来事は、密着していなければ乗り移らない祝福に関するものです。イサクの全存在は、エサウに変装したヤコブに引き継がれるのが自然であると考えられているのです。
こうして妊娠中のリベカに告げられた神の言葉が、また一歩実現します。「二つの国があなたの胎内に。そして二つの民(レオム)があなたの腹より分かれる。そして(ある)民より(別の)民が強くなる。そして多大な者が些少な者に仕える」(25章23節)。イサクはこの預言について知りません。リベカだけがこの言葉を指針にして、ヤコブに肩入れしてきたのです。知らなかったイサクが、知らないままに加担する。この預言の内容と反対のことを願っていたイサクが、皮肉なことに預言の実現に大きく貢献してしまいます。すなわち族長・家長の祝福が、ヤコブがエサウを従えるという未来を決定づけてしまったのです。呪いがエサウに、祝福がヤコブに、現在進行形で降りかかります。
聖書は人間の世界で起こりうることを示しています。こういう皮肉なことが世の中には起こりえます。この家族について神は何も干渉しません。いやもっと厳密に言えば、神はリベカとヤコブの行為を黙認しています。二人の詐欺行為を止めないからです。騙されたイサクとエサウがかわいそうだとは、物語作者も神も考えていません。なぜでしょうか。聖書が抑圧からの解放を救いだと考えるからです。長男総取りの家制度がリベカとヤコブを苦しめています。弟や妹、女性たち、奴隷たちの名誉の回復が贖いという救いです。だからリベカとヤコブの支配者たちを出し抜く行為は、高く評価されるのです。
今日の小さな生き方の提案は、この世界の家父長制を批判することです。教会の中にもそのような上下関係がつくられることがあります。わたしたちの間ではそうであってはいけません。逆の出来事に注目しましょう。支配しようとする者は、皮肉なことに自らの支配の崩壊に手を貸すことがあります。神が引き起こす痛快事です。支配されているリベカやヤコブに共感するならば、そうです。本当にかわいそうなのは誰なのか、共感すべき相手を吟味しましょう。