リベカの知恵 創世記27章41-46節 2019年3月31日礼拝説教

聖書の中でリベカという人が登場するのは、本日の箇所までです。リベカの遺言を聞くような場面であり、彼女を記念する箇所と言えます。先週までのところでリベカの第一次計画は完了しました。エサウに変装したヤコブは、エサウの祝福を騙し取りました。イサクの頑迷さも手伝って、騙したヤコブが騙されたエサウに代わって「長男」になり、イサクの後継者として確定されました。

当然エサウは面白くありません。ヤコブを憎み、父親イサクが死んだらヤコブを殺そうと密かに決意をします(41節)。この物語は「カインとアベルの物語」を前提にしています(4章)。兄カインが弟アベルを殺し、兄も共同体から追放されるという物語です。弟ヤコブに殺意を抱くとき、兄エサウの心の戸口に罪が待ち伏せしています(4章7節)。エサウがヤコブを殺せば、エサウは再びこの家の「長男」になるのでしょうか。そうではないでしょう。4章に倣えばエサウも追放され、アブラハム・イサク家は断絶します(4章16節)。エサウは憎しみのあまり思いつめ、自暴自棄になっています。ただし、エサウは父思いの息子です。父が生きている間は父を悲しませてはいけないと考えていました。父イサクの葬儀の直後にエサウはヤコブを殺したいと願うのです。

「そしてエサウは、彼の父が彼(ヤコブ)を祝福した、その祝福に関して、ヤコブを憎悪した(サタム)。そしてエサウは彼の心の中で言った。『俺の父の喪の日々が近づく。そして俺は俺の兄弟ヤコブを殺したい(ハラグ)』」(41節直訳風私訳)。「憎悪した(サタム)」は、「シトナ(敵意)」(26章21節)や「サタン(敵対者)」と同根の言葉です。イサクがペリシテ人との間で避けた敵意や争いは、二人の息子の間で繰り広げられます。

「そしてリベカに、彼女の大きい息子エサウの言葉が告げられた」(42節)。「告げられた」は奇妙です。エサウが心の中で言っていた言葉を、リベカはどこから告げられたのでしょうか。人間からではありえません。一つの可能性は神からであり(いわゆる託宣)、もう一つの可能性はリベカ自身の洞察によるものです。この二つは矛盾しません。両立します。特に預言者にとっては、両方が相まって「預言」となります。これが神の意思なのだという確信に基づく人間的な洞察、広く深い熟慮に基づく神的な託宣。両者の結合が預言です。

知恵の預言者リベカは、第一次計画(イサクを騙す)と、第二次計画(ヤコブを逃がす)の実行を同時に練っていたと推測します。リベカは夫イサクが、この期に及んでもヤコブとエサウに対して何もしないということを読んでいます。イサクを騙すヤコブに対して何も処罰をしないだろう。エサウに対しても遠くに住まわせるという措置もしないだろう。放置されたエサウがヤコブに報復をする可能性は極めて高い。イサクの優柔不断はヤコブの生命をも脅かします。詐欺の後は、自分の実家への避難。リベカの第二次計画です。

「そして彼女は遣わした。そして彼女は彼女の小さい息子ヤコブを呼んだ。そして彼女は彼に向かって言った。『ご覧。エサウ・あなたの兄弟は、あなたを殺す(ハラグ)ということをもって、あなたに対して自分を慰め続けています』」(42節)。新共同訳「大変」というような慌てぶりではないと考えます。翻訳者の頭に、「女性は感情的である(≒男性は論理的)」という偏見があると、同じ単語を女性に対してのみ感情的に訳してしまう場合があります。

リベカはエサウの心のうちを見抜いていたのですから、「ご覧よ」という態度でしょう(直訳は「見よ」)。鋭い洞察です。騙されたエサウは、毎日ヤコブへの殺意を糧にして生活をし続けているに違いない。ヘブライ語にはいくつも「殺す」という表現がありますが、エサウが用いる「殺したい」(ハラグ)という単語を、リベカも正確に用いています。エサウも彼女の息子なのです。リベカは、長男エサウと夫イサクの心情も行動も把握しています。

しかし、この二人はリベカのことに気づきません。二人共ヤコブが騙したとしか考えていません(35節)。ここに男たちの陥りがちな間違えがあります。実際は、双子を妊娠していた時から、リベカが心に留めて思いめぐらしていた事柄が大逆転の歴史となっていることに、家父長制にまみれた男性たちは気づきません。聖書をどう読むべきか。わたしたちは、his-story(支配する男が書いた歴史としてのhistory)として読むのではなく、her-story(被抑圧者である女の視点で読み直す歴史)として読むようにと促されています。イスラエル(ヤコブの子孫)という神の民を創生したことにリベカは大きく貢献しています。

リベカは預言者として、つまり神の言葉や意思を告げる者として、神に代わってヤコブに言います。「そして今、私の息子よ、私の声に聞け。そしてあなたは起きよ。あなた自身のためにあなたは逃げよ。ラバン・私の兄弟に向かって、ハランへ」(43節)。この言葉は、リベカの舅アブラハムに告げられた神の言葉と対応しています。「あなた自身のためにあなたは行け。あなたの地から、あなたの故郷から、そしてあなたの父の家から、私があなたに見せる地に向かって」(12章1節)。12章で神は、故郷であり父の家であるハランからカナンの地へと行くようにアブラハムに命じました。それを裏返す形でリベカは、自分の故郷であり兄の家であるハランへと逃げるようにヤコブに命じています。「あなた自身のために」、「聞け、イスラエルよ」(申命記6章4節)。

リベカにとって兄ラバンの家はヤコブの一時避難先です。「そしてあなたは一日一日と、彼(ラバン)と共に住みなさい。あなたの兄弟の激怒が戻るまで、あなたに起因する、あなたの兄弟の怒りが戻るまで。そして彼は彼にあなたがしたことを忘れる。そしてわたしは遣わす。そして私はあなたをそこから取る。どうして私があなたたち二人も失うべきだろうか、一日に」(44-45節)。リベカもカインとアベルの物語を前提にしています。エサウがヤコブを殺した場合、リベカはエサウを追放しなくてはなりません。二人を一日に失うことをリベカは避けようとしています。それならば、ヤコブは兄ラバンと共に一日一日地道に暮らした方がましであるとリベカは考えていました。憎しみが残っている間は、適切な距離を取る方が良いからです。エサウは気の良い息子で、いつまでも憎しみ怒っているわけではない。エサウの激怒と殺意は、彼自身に戻るということも、リベカは推測しています。

リベカはヤコブのハラン行きについて夫イサクを説得する策も練っていました。エサウの結婚相手が自分たち夫婦に対して、ことごとく攻撃的で争ってくることを理由にするのです(26章34-35節)。「私は、ヘト人の娘たちに起因して、私の人生にうんざりしました。もしヤコブが(このようなヘト人の娘たちから)この地の娘たちから妻を娶るならば、私にとって人生は何のためなのでしょうか」(46節)。ただし外国人差別を助長する部分(このようなヘト人の娘たちから)は、ギリシャ語訳に無いので、後のユダヤ民族主義者たちの加筆でしょう。全体にリベカのヘイトスピーチは演技です。

リベカはイサクに向かって、自分たちの結婚について思い出させようとしています。舅アブラハムが、イサクの妻をカナンの地からではなく、ハラン周辺に住む親戚から選ぼうとしたこと。そして信頼できる僕を自分の弟ナホルの家に向かわせたこと。そうして、そこにいたナホルの孫娘リベカをイサクの妻としたという一連の出来事です(24章)。これは大事な前例として、ヤコブを旅に出させる口実となります。そのためにヘト人全般をけなしているのでしょう。リベカは、自分自身で結婚相手を選ばなかったイサクを批判しているのかもしれません。ヤコブには自分自身で結婚相手を選んで欲しい。さらにできれば、親戚の中から結婚相手を1名に絞って欲しいと願っていたのでしょう。

イサクはリベカに全面的に説得されます。来週のイサクの言葉はリベカの受け売りです(28章1-4節)。リベカの第二次計画も完全に成功に終わります。ヤコブはエサウに殺されずに済み、イサクの後継者としていつか妻を連れて帰ってくることが約束されました。

この後リベカの人生はどのようになっていったのでしょうか。リベカの乳母デボラの死亡と(35章8節)、リベカの埋葬場所は記されています(49章31節)。その一方リベカがいつ死んだのかを聖書は報告していません。アブラハムの妻サラの死去・埋葬とは対照的です(23章)。リベカはヤコブに、頃合を見計らって呼び寄せることを約束しています。読者はリベカがいつヤコブを呼び寄せるのかを期待しながら読み進めます。しかしリベカはいつまで経ってもヤコブを呼び寄せません。49章になって初めて読者はリベカの死を知ります。

リベカから呼ばれないままにヤコブはラバンのもとから逃げ出し、故郷に帰ってきます。それはこの時点から数えて20年後のことです(31章41節)。もしその時リベカが生きていたら、ヤコブを迎えたはずです。あの放蕩息子の父親のように。しかし彼女はそこにいませんでした。ということはつまり、リベカはこの後20年以内に、ヤコブが知らない間に亡くなっていたのです。エサウの怒りが収まっていない状態にある中、リベカは死んでいった。ひょっとするとヤコブが去った直後に、気力を失って死んだのかもしれません。ヤコブの旅立ちは、結果としてリベカとの永遠の別れになります。

では父親イサクとはどうなるのでしょうか。ヤコブの旅立ちの時点で、イサクは少なくとも100歳にはなっています(25章26節、26章34節)。自分でも死を覚悟し(2節)、エサウにもすぐにも死ぬかもしれないと思われている(41節)イサクは、180歳まで生きます。ヤコブの旅立ちから数えて長ければ80年ほどイサクは生きました。20年後ヤコブはイサクと再会を果たし、その60年後エサウとヤコブが共同で葬儀を執り行うこととなります(35章27-29節)。

当初エサウは父イサクの葬儀が終わった後にヤコブを殺そうと考えていましたが、ヤコブを殺しません。エサウの気が変わっています。父イサクよりも先に母リベカの死があったこと、そして彼女の葬儀と埋葬を父イサクと共にしたことが原因ではないかと推測します。

死ぬ前にリベカは、心根の優しいエサウを諭したのではないでしょうか。「もうヤコブへの憎悪と殺意を止めなさい。実は私がすべてを計画してヤコブはその通りに動いただけなのです。ヤコブを殺したいのなら、今すぐ自分を殺しなさい。最初からヤコブに対する呪いを引き受ける覚悟はしていました。私は双子に大小の差があって、兄だけが全部を相続するのはおかしいと思っています。ヤコブが帰ってきた時に温かく迎えてやりなさい。二つの民となるのは神の意思です。しかし支配を争うことはない。お互いに仕えなさい。そして距離を保って仲良く暮らしなさい。お父さんと、イシュマエル伯父さんのように」。

今日の小さな生き方の提案は、知恵の預言者である族長リベカに倣うということです。妊娠中に神の意思を告げられて以来、ずっとリベカは透明な目をもって将来を見渡していました。ヤコブがエサウを従えるという未来のために、あらゆる知恵を駆使して全力を尽くしました。彼女は神の僕です。神は、サラの神・ハガルの神・リベカの神と呼ばれることを恥となさいません。自分の人生は何のためにあるのか、神の意思はどこにあるのか。名もない一市民として、よく考え、小さくされている者への肩入れをしていきましょう。神の歴史は、私たちのような名もない一人一人の一日一日が形作るものだからです。