「そしてラバンはヤコブの天幕とレアの天幕と二人の召使の天幕の中に来た。そして彼は見つけなかった。そして彼はレアの天幕から出、ラケルの天幕の中に来た」(33節)。
一人で捜すようにと言われたラバンは、一つずつの天幕を訪れます。ヤコブ・レア・ビルハ・ジルパの天幕の中に入って、自分の神像(複数)があるかないかを探し回るのです。二人の召使の天幕の後に、「レアの天幕から出た」とあります。ということはつまり、レアの天幕を少なくとも二回調べた後でラケルの天幕に入ったということになります。ラバンが一番疑っていたのは目が悪いレアだったということです。なぜでしょうか。
レアの子どもたちが最も多いので(7人)、孫たちの仕業かと疑っていたのではと推測します。ラバンは孫たちにハランの神々を紹介し、その土着宗教を「伝道」していたかもしれません。それだから、孫がテラフィムを盗んだ(≒土着の神を大切にした)と疑った可能性もあります。こうして最も子どもが少ないラケルの天幕が最後に残ります。そこにはラケルとヨセフだけが居ます。
「そしてラケルはそのテラフィムを取った。そして彼女はそれらをラクダの鞍の中に置き、彼女はそれらの上に座った。そしてラバンはその天幕の全てを手探りした。そして彼は見つけなかった」(35節)。「鞍」は、枕やクッションのようなものです。ラケルがラクダを飛ばしてラバンの天幕からいくつかのテラフィムを盗み出していたことも伺えます。神像の一体ごとの大きさはそんなに大きくありません。クッションが袋状ならば、ラケルはその袋の中に神像を入れてから、クッションの上に座ったのでしょう。
「そして彼女は彼女の父に向かって言った。『私の主人の眼の中でそれが燃えないように。なぜなら私はあなたの面前で立つことができないから。なぜなら女性たちの道が私に属しているから。』そして彼は探した。そして彼はそのテラフィムを見つけなかった」(35節)。
ラバンの目が血走っていることが分かります。一般に「怒る」というヘブライ語表現は「鼻を燃やす」です。怒りで鼻が真っ赤になることを示しています。ここは、「眼の中で燃やす」と少しひねって、ラバンがイライラしている様子を伝えています。怒りで目が血走っていることを示しているのでしょう。苛立つ父ラバンをラケルは騙します。夫ヤコブは、大見得を切っています。盗んだ者は共同体から追放され、共に生きることができなくなります(32節)。もしヤコブがラケルと共謀していれば、彼がこんなに大きく出ることはなかったでしょう。ラケルにとっては命を賭けた大博打となりました。一世一代の演技をもって、彼女は「月経(女性たちの道)によって立てないのだ」と主張します。習慣的には目上の者が入ってきたら目下の者は起立して迎えなければならないのにもかかわらず(レビ19章32節)、狡猾な嘘でラケルは座り続けます。そしてラケルは完全に父ラバンを欺ききりました。ヤコブが父イサクを欺いたのと同じです。この夫婦は「リベカの忠実な弟子」です。
ラケルの言葉は意味深です。父親の大切にしているものを盗むこと、それによって酷い父親に報復すること、さらに父親を騙して自己保身を図ることは、「女性たちの道(生き方)」なのだとも言っているからです。現代にも通じる事柄です。酷い父親による娘に対する暴力被害などを見ても、あるいはいまだに続く家父長制度を見ても、「女性たちが幸せに生きるための方策」はきちんと保障されなくてはならないでしょう。意思決定機関(国会等)の中に女性たちが当然の割合でいることもその一つとなります。参院選が楽しみです。
ヤコブはラバンに随行して、一つ一つの天幕に入っていたと思います。全ての天幕からテラフィムを探し出せなかったことが分かった時、ヤコブの憤りが爆発し、ラバンに対する強烈な反論が始まります。
「そしてそれはヤコブにとって燃えた。そして彼はラバンと論争をし、答え、言った。『何が私の背反か。何が私の罪か。実際あなたは私の後ろを激しく追った。実際あなたは全ての私の器を手探りした。あなたの家の全器に由来する何かを、あなたは見つけたか。あなたはここに置け、私の兄弟たちとあなたの兄弟たちの前に。そうすれば彼らが私たち二人の間を裁く」(36-37節)。
ヘブライ語には罪を表す言葉は多くありますが、キリスト教教理の「原罪sin」にあたる言葉はありません。原罪はギリシャ思想に影響を受けた、抽象的であり普遍的な概念です。旧約聖書では具体的な状況に応じて、信義に反する「背反(ペシャア)」や、贖われ償われるべき宗教的な「罪(ハッター)」等が使われます。ヤコブの主張は、自分はラバンを裏切っていない(逃亡は背反ではない)ということ、そして、自分はラバンの信仰の自由を脅かしていないし賠償する理由もない(神像を盗んでいない)ということです。
ヤコブは裁判を要求します。これも旧約聖書の伝統です。論争が起こった場合、論争している者たちが住民たちに呼びかけ、住民の有志が集まって裁判が随時行われます(ルツ記4章等)。自治こそ民主政治の基礎です。裁判を要求するということは、ヤコブは自分の正義を確信しているということでもあります。何しろ、ラバンの主張する神像は一体も見つかっていないのですから。ヤコブは、神像だけではなく、「全器に由来する何か」まで広げています。何か一つでもあればという言い方で、自分の潔白を強調しています。その後で、ラバンの過去の非を咎めていくのです。自分は悪くない、むしろあなたの方が悪いという論法です。ヤコブは弁が立ちます。
「この二十年私はあなたと共に(いた)。あなたの雌羊とあなたの雌ヤギは流産しなかった。そしてあなたの群れの雄羊を私は食べなかった。裂かれた動物を私はあなたのもとに持ってこなかった。私こそが私の手によってそれを償った。あなたは昼の盗まれたものと夜の盗まれたものを求めた」(38-39節)。
「わたしのおかげで二十年間群れは増えたではないか」と、ヤコブは訴えます。ヤコブの隠し財産のことをひとまず置いておいて、純粋にラバンの群れの白い羊だけを数えてもそれは確実に増えています。だったら隠し財産を連れていなくなっても良いじゃないかとヤコブは言います。
雌羊はヘブライ語でラケルと同単語です。「ラケルもこうしてヨセフを生んだではないか」ともヤコブは同時に言っています。孫たちの前で恥ずかしくないのかと。今までヤコブは、ラバンを孫たちの前で批判したことはありません。ここは勝負どころです。この「裁判」の裁判官は、ヤコブの子どもたち(「私の兄弟たち」)と、ラバンの連れてきた「あなたの兄弟たち」です。同じ職業の羊飼いたちの前で、ヤコブはどちらが良心的な羊飼いであったかを論じます。雇われ羊飼いヤコブが、雇い主の羊飼いラバンを問い詰めていきます。
野獣に殺された羊は証拠を示せば償わなくても良いとされていましたが(出22章12節)、ヤコブは償いました(ハッター)。不可抗力によって夜盗まれたものもラバンは求めました。どちらが良い羊飼いなのでしょうか。良い羊飼いは羊のために命を賭けるものです。経営者ラバンは、自分は体を張らないまま賠償責任を求めることで、労働者ヤコブに命を賭けさせています。
「私は次のような状態となった。昼間に猛暑が、また夜間に極寒が私を食った。そして私の眠りは私の眼から逃げた」(40節)。ヤコブの労働条件は最悪でした。過労死寸前です。西アジアにおいて、朝晩の寒暖差は激しいものです。そこで羊を飼うということは過酷です。寝ずの番をしなくてはなりません。落ち度がなく羊を失っても、ラバンは責任を追求する厳しい雇い主なので、ヤコブは寝ないで仕事をしていました。おちおち眠れないほどの緊張感が、「眠りが眼から逃げた」という表現でよく現れています。
「これが私にとってのあなたの家における二十年。十四年あなたの娘たち二人において私はあなたに仕えた。そして六年あなたの群れにおいて。そしてあなたは私の賃金を十回変えた」(41節)。最初の十四年はただ働き、次の六年も元手なしの状況が設定されました。白くない羊は勝手に0頭にさせられたからです。そして昼夜を問わず一所懸命働いても、夜勤手当も残業代も出ません。さらには、勝手に経営者が労働者の賃金を十回変えたと言うのです。労働組合も労働基準局もなかった時代のことです。これは搾取です。ラバンは、自分の娘たちも利用しつつ、甥・婿ヤコブをなるべく安く働かせ、なるべく多くの富を生み出させ、独り占めしようとしました。
わたしたちはこのヤコブの言葉から、詩編23編・ルカ2章・ヨハネ10章を読み直さなくてはいけません。酷使され貧苦にあえぐ羊飼いたちに天使たちは救い主の誕生を教えました。本当の「良い羊飼い」がお生まれになりました。その方はあなたの人生の苦しみをよく知っている方です。そしてその方は良い経営者として責任を負い、命を賭けて労働者である羊飼いの毎日を養い、憩いの汀に伴う方です。その方はインマヌエルの神、イエス・キリストです。
「もし私の父の神・アブラハムの神、そしてイサクの畏れが私のために成らなければ、あなたは今必ず空手で私を投げ捨てただろう。私の貧苦と私の掌の苦労を神は見た。そして彼は昨夕裁いた」(42節)。ヤコブは、ここで裁判がすでに終わっていたことを告げます。神は昨夕夢でラバンに「ヤコブと共に何も話すな」と告げています。ヤコブが正しいから、論じ合ってほじくり返すとラバンに不利益が戻ってくると警告しています。
族長三代の神にはそれぞれふさわしいあだ名があります。「アブラハムの盾」(15章1節)、「イサクの畏れ」(31章53節)、「ヤコブの勇者」(49章24節)です。アブラハムを神は守り抜きます。アブラハムから見て神は盾です。イサクは柔和で敬虔な人物です。イサクから見て、神は畏敬されるべき方です。大胆な万能選手であるヤコブにとって神は勇者です。これらのあだ名をもつ神は、一つの神です。ヤコブはそのことを告白しています。この信仰告白をわたしたちはイエス・キリストにまで延すことができます。族長たちの神は、ナザレのイエスが啓示した神です。その特徴はインマヌエル。共にあって人生の苦労をつぶさに見る方です。「働けど働けど我が暮らし楽にならず」と呟いて掌を見つめ嘆く私たちをよく見て、必ず共にいて、私たちの側に立って、私たちに挑んでくる者を裁き、人生の重荷を軽くしてくださる方です。
神はヤコブの側に立ってヤコブの弁護士となりました。神は裁判官となりラバンとヤコブの間を裁きました。ラバンは間違っており、ヤコブの逃走は正しいので、これ以上ラバンは追ってはいけないのです。ラケルの報復をも用いて神はヤコブ・レア・ラケル・ビルハ・ジルパ、12人の子どもたちを救いました。
今日の小さな生き方の提案は、自分が不当に扱われていると思ったら怒ることです。正しい怒りである憤りをもつことです。憤りは正義の源です。その上で、正しくその憤りを表現することです。ラバンのように苛立つのではなくヤコブのように言葉をもって「私はこう思う」と主張することです。「今まで怖くて言えなかったけれど、私はこの時あなたによって苦しめられた」と告げることです。それは逃走の正当なる理由となります。共なる神はあなたを弁護します。このような、相手も認めざるを得ない逃走を、聖書は救いと呼びます。