「そして彼はその夜起き、二人の彼の妻と二人の彼の侍女たちと十一人の彼の子どもたちとを取り、ヤボクの渡しを渡った。そして彼は彼らを取り、彼らにその川を渡らせ、彼に属するものを渡らせた」(23-24節)。
ヤボク川はヨルダン川支流のワディです。乾期には枯れ、雨期にのみ水が流れる川です。昼間、エサウへの暗号を込めた贈り物を次々に渡らせたヤコブは、ヤボクの渡しの手前で宿営をします。その夜彼は仮眠を取った後に行動を開始します。神から祈りの答えは未だ与えられていないけれども、今夜ヤボクの渡しを渡って翌朝エサウに会う。エサウと顔を合わせ自分の本心を告げるのです。
23節はヤコブがヤボクの渡しを渡ったと記しています。24節はヤコブが家族を渡らせたと記しています。彼はヤボクの浅瀬を行ったり来たりしています。そのうちに迷いが生じます。家族は、そのようなヤコブの姿を見て、彼をヤボクの渡しの手前に残します。「そしてヤコブは彼一人で残された」(25節前半)。ここに受身形が使われているので、自分の意思ではなく家族の勧めで彼が一人だけ残されたことが伺われます。「自分ひとりでよく考えなさい」と放り出された状況です。こうして謎の人物の登場が用意されます。「そして男が彼と共に格闘した、暁の昇るまで」(25節後半)。ヤコブが独りにならないと登場しないことから、古代からヤコブと謎の人物の格闘は、イエスのゲツセマネの祈りと重ね合わせて解釈されてきました。それで良いと思います。格闘は祈りだという理解は、謎の人物が誰であるのかと結びつきます。物語自身が、この人物が神であることを暗示・明示しています(29・31節)。祈りは神と共に格闘することであるということから、わたしたちは「祈りとは何か」を学び、今まで続いていたヤコブの祈りに対する神の答えを知るのです。
「格闘する」という動詞アバクは、全聖書中この二回(25・26節)しか登場しません。特別な単語による特別な表現です。名詞の意味としては「塵」の同義語で、粉状の土です。つまり神と泥んこになるような一対一の組み打ちが示唆されます。勝つか負けるかが判然としない状態での格闘です。殴ったり蹴ったり絞めたりもしないで泥だらけになって上になったり下になったりするわけです。その中でヤコブがこだわったのは、神の顔を見ること・神の名を知ること・神から祝福を授かることです。
眠れない夜に、わたしたちは神と共に格闘します。それはエデンの園に戻り、自分が創られた時に戻ることでもあります。神は必死に「塵」をこねて泥まみれになりながら、最初の人間を造り、命の息を吹き込んで「生きる存在(ネフェシュ)」としました。祈りは神をも泥んこにします。私たちが神の前で裸になり素直に助けてほしいと叫ぶことは、神をも原点に返します。「創造主ならば必死にすがる被造物を、再び生きるネフェシュにしなくてはいけないのではないか。神よ、顔を再び私に向けよ、命の息を吹き込んでくれ。神よ、私の顔・私の全存在を喜んで、殺すのではなく生かしてくれ。神よ、あなたは父祖の神と同じ名を持つ神か。祝福し家族を救ってくれ」。
ヤコブは次のようにも考えていました。「ここで神の顔を見て死なないならば、明日エサウの顔を見ても死なない」。古代の人は、神の顔を見たら死ぬと信じていました(31節)。顔や名前を知ることは相手を支配することです。人間に支配されないために神は顔と名前を知らせないのです。神が自分より強い時、神の顔を見たものは死ななくてはなりません。あえて、その冒険を犯すのがヤコブ流です。ヤコブは神に挑戦し、暁の明けるまで粘り、夜明けの光で神の顔を見て、神の意思を変えようとします。それによって自分も、自分の家族も救われるためです。
「そして彼は、それが彼にはできないと見、彼は彼の股の関節を触った。そしてヤコブの股の関節が外れた、彼が彼と共に格闘をしている時に」(26節)。
この箇所をパウロの祈りに重ね合わせる人もいます(Ⅱコリント12章7-10節)。サタンがパウロの肉体に「とげ」を与えたという箇所です。パウロはとげの除去を祈りましたがそれは叶わず、むしろパウロは弱さの中にこそ神の力が現れるということに気づいたというのです。パウロの証言は美しいし、それ自体真理ですが、ヤコブの祈りとは異なります。元々あった股関節脱臼(とげ)を除去して欲しいとヤコブは祈っていません。そして病気や怪我、障がい等を、「弱さ」という否定的な言葉で表すことにも慎重であるべきでしょう。
26節の「勝てない」(新共同訳)は意訳です。直訳は「できない」。「彼(それ)」を誰のこととするか、「できない」とされる行為が何かが問題。以下は私の解釈です。「神は、神の顔を見ることがヤコブにはできない、と見た」。神は負けると思ったのではなく、勝てると思ったと理解します。そうであれば勝てると思った神の認識と、神がヤコブの股関節を触った結果脱臼してしまったこととは因果関係が切れます。ヤコブの怪我は事故です。
激痛がヤコブを襲います。事故がヤコブの闘志を奮い立たせます。「長い祈りに対する神の答えがこれか」と、憤激をするのです。自分の人生の最も厳しい場面で、神は顔をそむけて、信徒に危害を加えて、後ろ足で砂をかけて逃げようとするのか。冗談ではない。こうなれば神の踵を離すものか。何としてでもその顔を見る。「私はあなたと共に」と神は何度も約束したではないか。「共に」とは、顔と顔とを合わせるという意味ではないのか。名前と名前を呼び合うという意味ではないのか。創造主は被造物を担って救う責任を持つのではないか。私と共に生きよ。私の人生の葛藤を、共に葛藤してほしい。私の家族を死なせないでほしい。ヤコブは叫びます。
「そして彼(神)は言った。『私を投げよ。なぜなら暁が昇ったのだから』」(27節前半)。
神は力を抜き振り返って、踵を掴んで離さないヤコブの顔を見ます。徐々に夜が明けてきます。暁に神の顔が照らされ、ヤコブは神の顔を見ます。その顔は苦笑いです。「痛くしてごめん。わざとじゃなかったんだよ。顔も見られたことだしもう離してよ。何なら友情を打ち切っても良いんだよ」という表情。聖書の神は極めて人間くさく、自分の行為を後悔し、信者との対話の中で考えを変えることがあります(創世記6・18章)。神は顔を向き直し、ヤコブに顔を晒してしまいました。それは当初の意思を神が変えるという意味です。
「しかし彼(ヤコブ)は言った。『私はあなたを投げない。あなたが私を祝福するまでは』」(27節後半)。
20年前ヤコブは父の祝福をエサウから騙し取りました。その間違えにヤコブは気づきました。騙し取った祝福は、父からの祝福でした。家制度を存続させるための、家長から与えられた約束です。だから家父長制の理屈に生きるエサウがヤコブを恨むのも当たり前です。しかし今回、ヤコブは神に直接祝福を願っています。祝福は、そして信仰は、直接神からいただくものです。
かつてヤコブは神に条件をつけて、「もしあなたが私と共におられるなら・・・」と祈っていました。しかし今回は違う。「神が見棄てようとも、私が神の踵を離さない、神に共にいて、存在を祝福し続けてほしい」という信仰に変わっています。夜明けの光を横顔に受けてヤボク川を見ながら、泥まみれ汗まみれの二人は肩を並べて座り、息を整えて時々相手に顔を向けて話し込みます。
「そして彼は彼に向かって言った。『あなたの名前は何か』。そして彼は言った『ヤコブ(踵の派生語)』」(28節)。なるほど名は体を表す。それで踵を掴んで離さなかったわけだ。二人は笑います。
「そして彼は言った。『あなたの名前はヤコブともはや言われない。そうではなくイスラエル。なぜなら、あなたが神と共に、また人々と共にやり抜き、あなたが(神の顔を見ることが)できたからだ』」(29節)。もう神の顔を見るために踵を掴む必要はない。常に神はあなたと共に、あなたの人生の葛藤にとりくみ続けるから。それはあなただけではなく、あなたの関わる人々と共に課題をやり抜くということでもある。翌朝あなたの家族も救われる。「イスラエル」という名前は、「神はたたかう」という意味です。「あなたと、あなたを一人残した家族たちと共に、私は歴史を切り開いて、神の国をつくるためにとりくみ続ける」。新約にまで至る、歴史を貫く神の約束です。
「そしてヤコブは尋ね、言った。『どうかあなたの名前を告げてください』。彼は言った。『なぜそれを。(なぜ)あなたは私の名前を尋ねるのか』。そして彼は彼をそこで祝福した」(30節)。
自分の名前についての軽口から、ヤコブは相手の名前を聞き出そうとします。しかし、神は自分が神であることを29節で示しています。この「なぜ尋ねるのか」は、「尋ねるまでもなくあなたは知っているはずだ」という意味の修辞です。だから神は何の抵抗もなく、むしろ喜んでヤコブをすぐにその場で祝福します。神が顔を見せ、名前を示し、膝を屈めてヤコブに仕えます。
「そしてヤコブはその場所の名前をペニエル(私の顔は神)と呼んだ。『なぜなら私は顔と顔とで神を見、私のネフェシュ(全存在)が救われたからだ』」(31節)。ヤコブは神と間近で顔を合わせ、自分の鼻に神の息が入ってきて、自分の存在が神と一体化する経験をしました。顔は全存在の象徴です。祈りが神秘的一体感を与え、彼の全存在が霊である神と合致します。名付けにおいても神と一体化し、神に祝福され生きる力を与えられ、彼は救いを経験します。
「そして太陽が彼のために昇った、彼がペヌエル(あなたは神へと向かえ)を渡ると同時に。そして彼はその股のために足を引きずった」(32節)。ヤコブが名付けた地名ペニエルは、聖書記者によってペヌエルと変えられています。「私の顔は神」は、余りにも恐れ多いからでしょう。「あなたは神へと向かえ」。聖書記者は正確に物語を把握しています。「神の顔を見ようとし、名を知ろうとし、祝福を得ようとしたヤコブのように、あなたたちは神の方に顔を向けよ(ペヌエル)。それは隣におられる方に首を向けるだけの簡単な行為だ」。
さてこの後神はイスラエルから離れたのでしょうか。太陽が昇ると共に神も天に上がられたのでしょうか。あの梯子を用いて(28章)。本文は沈黙しています。おそらく神はその後ずっとイスラエルに分かる仕方で共におられたことでしょう。内側から命が充満している感覚です。どういう結末になるか分からない。しかし、何とかなるさという気構えです。祈りの答えはこれです。「聖霊の神が常に共にいる。神が私の人生にとりくむ。だから何とかなる。自分の思い描く最善かどうかは知らないが」。イスラエルは股関節が痛む度に、あの時神の踵を離さなくて良かったと思い起こしました。
今日の小さな生き方の提案は、神に祈ることです。祈りは神との格闘です。だから祈りの中で私たちは傷つくことがあります。その痛みの中で、私たちはかえって神の踵を掴むべきです。祝福されるまでは離さないという顔を神に見せ、神の顔を見ましょう。インマヌエルという名前に恥じないように神に訴えるのです。もちろん祈り次第で神が共に居たり離れたりするのではありません。そうではなく共なる神を身近に感じ神の呼気を吸い込むために私たちは祈るのです。一人で祈り、人々のために祈り、共に生きるネフェシュになりましょう。