2019/09/15青野太潮西南大名誉教授講演

信仰告白の言語について

遅れてやってくる「認識」を冒頭にもってくることの問題性について

創世記1章1節は、「初めに、神は天地を創造された」と語ります。また、ヨハネ福音書1章1節は、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と語ります。まだ誰も見てはいないはずの天地創造の太初の昔について、このように語ります。もちろんその記述は、神の「啓示」が、あるいは神の「霊感」が与えられた(と思った)者(たち)が、自ら見てはいない天地創造の初めについての洞察を、このように記したものなのだろう、ということは、ほとんど疑う余地がないでしょう。つまりこのような「認識」は、時間的に見れば、天地創造のときからは遥かに「遅れて」与えられたものであり、それが後付けされる形で、その記述の「冒頭」に置かれ、創世記の場合で言えば、旧約聖書の編集過程のなかで、聖書全体の冒頭にそれは置かれた、ということでしょう。

そしてヨハネ福音書はさらに、1章14節で、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と語ります。そこでは明らかにイエス・キリストのことが意味されており、そのキリストは、「父(なる神)の独り子」なのだと宣言されます。しかも「わたしたちはその栄光を見た」と言われることによって、「わたしたち」自身がその証人なのだ、ということが強調されます。しかしこの言葉は、「わたしたち」があのナザレのイエスをイエス・キリスト、神の独り子だと「初めて」「認識」したということを、必ずしも意味するわけではないでしょう。なぜならば、ほとんど間違いなく紀元後30年に、ということはすなわち、その年の4月7日の金曜日に、十字架刑によって殺害されたイエスを、ほぼ確実に90年代以降にヨハネ福音書を書いている「わたしたち」が目撃したという可能性は、皆無とは言えないまでも、しかしほとんどまったくないであろうと思われるからです。ですから、そこでもやはり、「遅れてやってきた認識」が、歴史のイエスについての叙述の冒頭に置かれたということが、妥当していると思われます。

そしてこのような「遅れてやってきた認識を冒頭にもってくる」という性格を持った文章は、実は、以下にも見ますように、「信仰告白の言語」に特徴的なものである、と言うことがゆるされるでしょう。しかしそのような「信仰告白の言語」の持つ特徴は、同時に大きな「問題性」をも孕んだものであると思われますので、その問題について、以下、しばらくの間ともに考えてみたいと思います。その際、聖書の文言のほとんどすべてはこの種の「信仰告白の言語」によって書かれていると思われますが、しかし、以下にも見ますように、そのような特徴を「破っている」文章もまた稀に聖書のなかには見出されますので、それらを手掛かりにして、この問題について考えてみたいと思います。

さて、「信仰告白の言語」について考える際に、どうしても最初にふれておかなくてはならない聖書学上の問題があります。それは、二〇世紀最大の新約聖書学者と呼ばれるドイツのルドルフ・ブルトマン(1884-1976)が、「史的イエス」の再構成に関して展開した見解のなかで、実は今回のわれわれのテーマである「信仰告白の言語」についての問いをめぐる問題を扱うに際して、どうしても避けて通ることのできない重要な点に言及しているからです。

そこでブルトマンの中心的な主張はどのようなものであったのか、それをまずは見ておきたいと思います。彼は以下のように主張します。(以下、引用箇所については、拙著『最初期キリスト教思想の軌跡―イエス・パウロ・その後―』、新教出版社、2013年、20-58頁、を参照してください。)

 ≪イエスに関してわれわれが歴史的に遡り得る限界点は、「神の子」として地上に生き、「苦難」を受け、「死」に、そして「復活」し、天的な「栄光」へと挙げられたナザレのイエスについて語る「ケーリュグマ」(原始キリスト教会がなした宣教の内容)なのであり、それを超えてその背後にまで達して、「ケーリュグマの内容」と「イエスについての歴史的事実」との間の連続性を確証することは不可能である。そしてそれが不可能であるということ自体が、実は神学的な意味でも正当性を持っている。なぜならば、神に対する真の「信仰」とは、いかなる意味においても何らかの「保証」に基づくというような類のものではないからである。別の言い方をすれば、史的イエスの人格(Person)が信仰の対象なのではなくて、むしろ「ケーリュグマのキリスト」(つまり原始キリスト教会が宣教したキリスト)こそがその対象なのであり、それゆえに、信仰にとってはそのイエスが地上に到来したという歴史的な「事実」(ドイツ語のDaß)だけで十分なのである。もしもそれにもかかわらず信仰は歴史学的に再構成された「史的イエス」を基盤として成立するのだと捉えるとすれば、それはまさに反ルター的な「わざによる義認」にほかならない。それゆえに、真の信仰とは、原始教会の宣教内容である「ケーリュグマ」を「受容」するという「決断」なのであり、それはルターが主張した「信仰によってのみ(sola fide)」の伝統の徹底化にほかならないのである。≫

 まず、私たちのテーマに即して言えば、「信仰告白の言語」とは、まさにここでブルトマンが強調している「ケーリュグマのキリスト」、すなわち原始キリスト教会が宣教したキリスト、を「受容」する「信仰」を表明する言語のことだと言って構わないであろう、ということを確認しておきたいと思います。なぜならば、そこで言われている「信仰」とは、「情報伝達の言葉」によってなされる「歴史学的探求」によって成立するようなものではまったくない「言語」なのだ、つまり「信仰告白の言語」なのだ、ということが明確に主張されているからです。

 さて、ブルトマンのこのような主張に対しては、それでは「史的イエス」と「ケーリュグマのキリスト」との間の連続性はずたずたに引き裂かれてしまうことになるのではないか、との批判がしばしば展開されてきました。それに対して、ブルトマンは次のように反論します。

 ≪そのような見解に対しては、簡単に次のように言えばよい。すなわち、私(ブルトマン)も承認する<「史的イエス」と「ケーリュグマのキリスト」との間>に大きな相違が存在するという事実からは、いかなる仕方においても、<「史的イエス」と「ケーリュグマ」との間>の連続性を引き裂くというようなことが帰結したりはしない。(青野注:ブルトマンが「ケーリュグマ」と「ケーリュグマのキリスト」とを厳しく区別していることに注目してください。)なぜならば、私は明確に、<「史的イエス」と「ケーリュグマ」との間>の連続性について言っているのであって、決して、<「史的イエス」と「ケーリュグマのキリスト」との間>の連続性について語ってなどいないからである。「ケーリュグマのキリスト」はむしろ、決して「史的イエス」との連続性のうちに立ち得るような史的な形姿ではないからである(以下傍点は断りがない限り私青野のものです)。しかし「キリスト」を宣教する「ケーリュグマ」は、これは「ひとつの史的現象」であるから、<「ケーリュグマ」と「史的イエス」との間>の連続性の問題ならば、それは歴史学的な考察の対象とされ得るのである。≫

それゆえにブルトマンは、自らは新約聖書学者として誰よりも以上に「史的イエス」についての「歴史学的な探求」を鋭く深く遂行しながらも、彼の「信仰」的な「決断」においては、それらすべての歴史的な探求の成果を放棄してしまうのです。否、そればかりか、彼の実存論的な、巨大な影響をもたらしたあの「非神話化」(Entmythologisierung)の提唱や、信仰とは決して「知性の犠牲」(sacrificium intellectus)を強要するものなどではない、という重要な主張をも含む驚くべく豊かな自らの知見をも、「信仰的な決断」をなす際には、スパッと切って捨てる潔さが彼にはあります。その決断は、彼に賛同するか否かに関わらず(以下で私自身はブルトマンに対して批判的であることを展開しますが)、感動的ですらあり、そしてそれは、時に彼を評して人が口にするような「悪魔的」なものなどではまったくなくて、むしろ全く正反対に、ほとんど「天使的」とも言うべき純粋で素直な決断だと言ってよいでしょう。

 そのブルトマンによれば、「ケーリュグマ」(原始教会の宣教内容)は、この「史的イエス」をこそ神は「キリスト」そして「主」(キュリオス)となし給うたのだ、と主張します(使徒行伝2章36節)。あるいは、パウロやヨハネの定式を用いて言えば、ケーリュグマは「史的イエスとその歴史」とが、決定的な「終末論的な出来事」だったのだ、すなわち「まったく新たな時代(アイオーン)への転換」と「それによって生じたことがら」だったのだ、という主張を含んでいます。それゆえにケーリュグマは、たとえそれがイエスの形姿をいかにはなはだしく神話化していようとも、史的イエスを「前提」しているのだ、ということが自ずから明らかになる、というのです。「史的イエスなしにはケーリュグマは存在しない。その限り、両者の間に連続性があることは、自ずから明らかである。」そうブルトマンは主張します。

 たしかに、「ケーリュグマのキリスト」を信じるという、われわれが言うところの「信仰告白の言語」が、決して「情報伝達の言葉」によって歴史学的に再構成された「史的イエス」を基盤として成立するわけではなくて、むしろ「史実」を超えた「啓示」的側面との関わりにおいて成立している、ということは、誰も否定できないでしょう。しかし、上述のブルトマンの主張が、全体として説得的であるかどうかは、極めて微妙であるように私には思われます。なぜならば、「決して史的イエスとの連続性のうちに立ち得るような史的な形姿ではない」とされる「ケーリュグマのキリスト」は、まさに上でブルトマン自身も認めているように「ひとつの史的現象である」ところの「ケーリュグマ」によって宣教されたもの、つまりそのケーリュグマの「具体的な内容」以外ではあり得ないからです。そしてその内容は、決してブルトマンが尖鋭化して言うような、単に「イエスが地上に到来したという事実(Daß)だけ」であるわけではなくて、「神の子として地上に生き、苦難を受け、死に、そして復活し、天的な栄光へと(主〔キュリオス〕として)挙げられたナザレのイエスについて」語り、さらにそれら個々の事実の持つ意味についての解釈をも内に含んだものです。だからこそブルトマンも、「たとえそれ(ケーリュグマ)がイエスの形姿をいかにはなはだしく神話化していようとも」と言うわけです。

しかしそれにしても、たとえはなはだしく神話化されたものであったとしても、そのような「ケーリュグマのキリスト」こそが、ただただ信じられなければならない類のものなのでしょうか。答えは否ではないか、と私は考えています。

 ここで私たちは、ブルトマンの弟子たちの何人か(とくにG・ボルンカム、E・シュヴァイツァー、E・ケーゼマン)が、ブルトマンの基本的な主張には同意しながらも、やはり「ケーリュグマのキリスト」の具体的な内容のなかには、「歴史学的な再構成」の作業の成果を幾分なりとも反映させるべきだ、と主張したという事実を想起させられます。つまり、たしかに信仰が史的研究によって基礎づけられることは決してないとしても、しかし信仰の内容が史的研究によって影響されないままでいるということもまたないでしょう。なぜならば、たとえ史的研究の成果があくまでも相対的なものでしかあり得ないとしても、その成果の是非は真摯な討論の対象とされなくてはならないでしょうし、そこから一人ひとりが選びとっていく結論は、信仰そのものの内容に深く関わりを持たざるを得ないでしょうから、というわけです。それは、「啓示」としての性格を持っている「ケーリュグマのキリスト」理解のなかに、それとは位相の違う「歴史学的な再構成」の結果を導入しようとする「わざ」なのでしょうか。そうではないだろう、と私も考えますし、逆にブルトマンの「ケーリュグマのキリスト」理解のなかには、ケーリュグマの持つ「啓示」としての性格の過度の尊重の姿勢が見られるのではないか、と判断せざるを得ません。

 ケーリュグマの「啓示」的な側面に対して、歴史学的な知見がさらに採り入れられなくてはならないのではないか、と私は主張しました。しかし、それに勝るとも劣らないほどに、その「啓示」的な側面それ自体もまた、私たちとの関わりのなかにそれが置かれた瞬間には、神の100%の「啓示」そのものではなくなって、むしろ私たち自身がなす「解釈」と密接不可分のものとなる他ないのだ、ということが強調されなくてはならないのではないか、と私は考えています。

 そしてその根拠は、第一コリント14章32節のパウロの言葉、すなわち、「(啓示をとおして)預言者に働きかける霊は、預言者の意に服するはずです」(新共同訳)というパウロの言葉です。この点は、最近の私の岩波新書『パウロ 十字架の使徒』(2016年12月)において、私が最も強く強調したかったことのひとつです。なぜならば、最初期キリスト教会においても存在していた「預言者たち」の言葉が「啓示」に基づくものであること(14章30節)を私たちが承認するとしても、しかしそれでもって直ちに問題がすべて解決するわけではないことを、この言葉は明確に示しているからです。というのも、その「啓示」に基づいて語られる具体的な「預言」の内容のなかには、その「預言者」自身の「意向」が、すなわち「自我(エゴ)」(コンツェルマン)が、「祈り」が、「願い」が、さまざまな「思い」が、不可避的に反映されてきますので、それを踏まえた上での相互の厳しい「吟味」(14章29節)が必要となる、とこの言葉は語っているからです。そしてそのことは同時に、私たちが遂行するその「相互吟味」のなかにもまた、私たち自身の「意向」が、つまり「解釈」(14章26節のhermeneia)が、避けがたい形で入り込んでいるということをも明示しています。それゆえに、以上のことをしっかりと押さえながら、「啓示」に基づいて預言をする者も、それを「吟味」する者も、自らのなす「解釈」が決して絶対的なものではなくて、むしろまったく相対的なものでしかない、ということを深く認識しながら、相互の「解釈」を尊重し合うという姿勢が与えられていくようにしなくてはなりません。

さらに、当時のコリント教会においては、その異様さのゆえに、まさに「神から」の「啓示」に基づくものだと理解されていたと思われる「異言」を、パウロは「自分自身に対して」のものとして(つまり何と「独り言」として!)、あるいはまた「神に対して」のものとして(つまり「祈り」と同類のものとして!)相対化しているという事実(14章28節)にも、深く注目されなくてはならないでしょう。神からの「啓示」と人間のなす「解釈」との間の緊張に満ちた関係についての、この驚くべく現代的なパウロの主張の持つ重要性は、どんなに強調されてもされすぎるということはないであろうと私は考えています。

 そしてこのような理解は、パウロの他の箇所に見られる「啓示」についての理解とも合致しています。すなわち、まず、ガラテア1章16節において、パウロが自らの回心について述べる際に、「神は御子を私のうちにおいて(ギリシア語はen emoi)啓示された」(私訳)と語っていることが挙げられます。なぜならば、「超越」としての御子の「啓示」が、実にパウロに「内在」しているのだと彼は語っているからです。またパウロは、エルサレム会議にバルナバとともに自分が出席することになったという人間的な決定を、まさに神の「啓示」に基づくものだと判断していますが(ガラテア2章2節)、そこにも同様の理解があります。「超越」が「内在」することについては、後続のガラテア2章20節の、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちにおいて(ギリシア語はやはりen emoi)生きておられるのである」(私訳)もまた明示しているところです。

ガラテア1章8節の、「たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい」(新共同訳)という、あたかも自らの福音理解を、すなわち自らの「解釈」を、それこそ絶対化しているかのように思われるパウロの「排他的」な発言もまた、決して何の具体的状況もない真空状態のなかで自己を絶対化する形で発せられた言葉ではありません。そうではなくて、むしろ具体的な状況としては、パウロの論敵たちがパウロたちに向かって、<あなたがたが宣べ伝えている「木に(すなわち十字架に)かけられたイエス」、さらにそれに基づく「信仰義認論」は、「神によって呪われている」>と断罪していた(ガラテア3章10-14節のパウロの議論からそう推論できることを参照)という状況があったのでした。そしてパウロは、彼らのその断罪を受けて、上のように反論しているのでありまして、そこでは、「あなたがたは自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」(マタイ7章2節、並行箇所のルカ6章38節)とのイエスの周知の言葉が現実となっていたのだ、ということを見逃してはならないでしょう。

 それゆえに、「信仰告白の言語」とは、もしもそれが「幻想」でないとしたら、神の「啓示」を中核に持っているにちがいないと自らが判断した「ケーリュグマ」に対して、一定の信頼をおくことを表明している言語以外の何物でもないということになるでしょう。しかし同時に、その言語の内容は、「啓示」としての「超越」は人間の内に「内在」する、という「逆説的な事実」によってしか言語化されることはない、という事実にもまた、常に留意されなくてはならないでしょう。なぜならば、「超越」が「内在」するという「逆説的な事実」によってそれが言語化されるものであるのならば、それはその「内在」ゆえに、当然のことながら自らの「信仰告白の言語」を「相対化」する視座をも、常に保持していなくてはならない、ということになるからです。(なぜその事実が「逆説的」かと言えば、「超越」とは「内在」を超越しているからこそ「超越」であると言えるはずなのに、いやその「超越」は「内在」しているのだなどと言われるということは、まさにそれが「逆説的な事実」でしかないからです。)

そしてまさにその点において、上でふれた「認識は遅れてやってくる」という事実について、私たちはさらに熟考するようにと促されているのだと思います。

 なぜならば、ケーリュグマのなかには確かに「神話的」キリスト理解が存在しているからこそ、ブルトマンはイエスの形姿が「はなはだしく神話化」されている可能性にふれているのだとしか考えられませんが、この「遅れてやってくる認識」についての考察こそは、その「神話的」キリスト理解が、いったいいかにして成立したのか、またいかにしてそれがケーリュグマの冒頭に置かれるに至ったのか、という「プロセス」を解明するための手掛かりを与えてくれると思われるからです。

 例えば、「神の子」告白との関連で言えば、頌栄とか讃美歌などパウロ以前にすでに成立していた「伝承」をパウロが引用する際には、パウロは大部分キリストの神話的な「先在」を認める言い方をなし、彼自身もそのように信じていると思われます。フィリピ2章6節以下の、いわゆる「キリスト讃歌」のなかの「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました……」、および、第一コリント8章6節bの「唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです」などの文章がそのことを示しています。しかし、それにもかかわらず、それらよりも早い段階で成立していたにちがいないと思われる伝承をパウロが引用しているローマ1章3-4節においては、パウロは「御子は、…… 死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです」(新共同訳)と語ることによって、「神の子」告白が成立したのはキリストの「復活」以後だったのだ、という捉え方をも採用しているのです。つまり後者がおそらく「神の子」告白の成立のプロセスにおける最初期の段階のものであったのに対して、地上のイエスをまるで「先在」の「神の子」であるかのごとくに描く描き方は、それよりも「遅れて」やって来た「認識」であったにちがいないと思われるのです。

 そしてその「復活」についてもまた、与えられた「認識」の差によって、その描き方に同様の相違が見出されます。例えば、復活について物語的に記しているどの福音書よりも先に、つまり確実に紀元後50年代に書かれたことが明らかであるパウロの手紙においては、「十字架につけられたキリスト」が現在完了形の分詞によって「十字架につけられ給ひしままなるイエス・キリスト」(ガラテア3章1節の文語訳)として言表されることによって、歴史的な出来事の経過を示す時系列のなかではまさになくて、つまり「十字架刑によって殺害されたが、しかしその十字架から降ろされ、そして埋葬された」という時系列のなかではまさになくて、むしろその時系列に逆らってまでも、「今なお十字架につけられたままでおられるキリスト」としてそのキリストを描き、その上で、そのようなキリストこそが「生ける復活のキリスト」その方なのだ、と逆説的に語られています。しかもそのキリストは、歴史的な時系列のなかの存在ではありませんから、明らかに「幻」(Vision)の類であった、ということが言えるでしょう。「幻」については以下でもふれますが、それは決して「非現実」ではありません。その点では、アウシュヴィッツの強制収容所を生き抜いた冷静沈着な精神科医のヴィクトール・フランクルが、収容所において、その時点で生きていたのか亡くなっていたのか不明だった彼の妻の「幻」と、静かに、それもかなりの時間「対話」をしたという実例が、重要な参考資料となるであろうと思われます(新版『夜と霧』、池田香代子訳、みすず書房、2002年、60-63頁)。

そして紀元後70年前後になって初めて書かれた福音書である「マルコ福音書」は、「復活者イエス」その人を描くことはまったくしないままに、16章8節で、あまりにも唐突に、「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」(新共同訳)という、福音書の締め括りの言葉とは到底思えないような驚くべき言葉でもって自らの福音書を閉じています。それによって福音書記者マルコは、おそらく読者に向かって、天使の言葉をとおして期待されることとなったガリラヤにおける復活者イエスとの邂逅(16章7節)について、彼の読者への懇願ともいうべき促しを鮮明にします。すなわち、まさに自らが世界の文学史上初めて生み出したところの、「伝記」ではない「福音書」という文学ジャンルを駆使することによって書き記したこの「マルコ福音書」を、読者はもう一度読み直すことによって、地上のイエスに出会い、それによって今もなおかつてと同じように生きてくれている「復活」のイエスと出会っていってはくれないだろうか、という、「マルコ福音書」の再読へのマルコの懇願ともいうべき促しを鮮明にします。つまりこのマルコは、イエスの「復活」について直接的にはまったく語らないという仕方で、つまり「復活者イエス」をまったく登場させないことによって、復活者について語る、という逆説的な手法をとっているのです。

90年代になって書かれたことがほぼ確実であるマタイ福音書が、マルコ福音書を下敷きにしながら、それに接続する形で執筆されたということにはほとんど疑問の余地はないのですが、そこでは、「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走っていった。すると、イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した」(28章8-9節、新共同訳)という具合に、マルコ福音書の逆説的な手法はまったく修正されてしまっています。そしてさらに、マタイ福音書ではそののちに、復活したイエスがガリラヤの山の上で、弟子たちに対していわゆる「大宣教命令」を発する場面が記されていきます(28章16-20節)。

マルコの逆説的な手法のマタイによる修正は、イエスの十字架の場面の描写において、すでにあまりにも明確になされています。つまり、マルコではローマの百人隊長は、何の奇跡も起こらないでイエスが絶叫して息絶えていくのを見て、イエスに対する「神の子告白」をしています。すなわち、「イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子だった』と言った」(15章39節)と記されています。ところがマタイにおいては、百人隊長のその告白は、「地震や(死人が墓のなかで甦るというような)いろいろの出来事を見て、非常に恐れ」てなされたものとされています(27章54節)。つまり、逆説的信仰から、奇跡信仰へとマタイは完全に移行してしまっています。

研究者のなかには、マルコ福音書の現在の終わり方が元来のものではなくて、元々あった短い終結部は何らかの理由で失なわれてしまったのではないか、と想定する者もいます。しかし私は、大多数の研究者とともに、その必要はないと考えています。なぜならば、今のままの、読者の困惑を惹起せざるをえない「過激な」構造こそ、上述したように、マルコが意図したものだと私には思えるからです。そして、マタイが自らの福音書を執筆したのは、マルコ福音書成立後少なくとも20年は経過していたときのことであろうと思われるのに、そのマタイは、失なわれたとされるマルコ福音書のほんとうの末尾の部分を入手していなかったということだけは確かだと思われます。なぜならば、「婦人たちは、墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」のあとに続く文章が「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」というような文章であるはずはないからです。もしもあり得るとするならば、「婦人たちはだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。しかしその婦人たちは、しばらくの間、沈思黙考した後に、やはり弟子たちには知らせるべきだと考え直して、弟子たちのところに向かった」という類の文章であったはずだと思われます。つまり「恐れながらも大いに喜び」というマタイの叙述のなかには、失なわれたとされるマルコの終結部の反映は、まったく見出すことができないのです。現在のマタイの文章には、マタイの、あるいはマタイ共同体の信仰が見出されるのみです。多くの資料を渉猟して自らの福音書を書いたマタイでさえも、失なわれたマルコ福音書の末尾の部分を手にしてはいなかったとなると、私にはそのような末尾が現実に存在したということ自体が、極めて疑わしいように思われるのです。

マタイと同じく90年以降に、同様にマルコ福音書を下敷きにして福音書を書いたルカ福音書の記者や、マルコ、マタイ、ルカの、いわゆる「共観福音書」とはまったく違う趣きを持った福音書を著したヨハネ福音書の記者は、ともに「復活」のイエスをさらに、この目で見、この手でさわり得る存在として詳細に描くことによって、「復活」物語のさらに発展した段階を明白に示しています。もっともルカ24章13-35節の「エマオ途上のイエス」の物語のなかで描かれている、「地上のイエス」に特徴的だった「パンさき」の行為に弟子たちがふれた瞬間に「復活のイエス」は突然姿を消したという描写(31節)や、「天使たちの幻(optasia)」に言及する23節<口語訳、新共同訳は「幻」という単語を訳していませんが>からすると、必ずしもまったく「復活」のイエスが、この目で見、この手でさわり得る「実体的な存在」としてだけ描かれている、とは言えないでしょう。いずれにしても、こうして、「復活」物語に関しても、「復活」を、まるで「史実」であるかのごとくに神話的に描く手法は、パウロやマルコのあとになって、遅れてやって来た「認識」なのです。

処女マリアからのイエスの誕生について語るいわゆる「処女降誕」物語に関しても、まったく同様のことが言えるでしょう。それについての新約聖書の証言もまた、同様の「信仰告白」の成立のプロセスを反映したものとなっているからです。つまり、新約聖書のなかの最古の文書であるパウロ書簡は、「処女降誕」物語をまったく知らず、むしろローマ書では、神は「御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送った」(8章3節、新共同訳)と語り、ガラテア書においては、「神は御子を、女から生まれた者として、しかも律法の下に生まれた者として、送ってくださった」(4章4節、私訳)としか語りません。恩師E・シュヴァイツァーは、この「女から生まれた」という言い回しは、「人間の貧しさと弱さとを強調するユダヤの表現であって、それゆえそれは、イエスを他の人から際立たせるものではまさになかったのである」と語っています。母マリアの純潔性、そしてイエスの純粋性の強調に対して、パウロが強調したい「信仰義認論」は、神なき「不敬虔な者」を、たとえ働きがなくても行ないがなくても義とされる神の意志に基づいているのであって、信仰とはただその神の意志を「受容する」ことを意味していました(ローマ4章3節以下)。つまり神が義と認められるのは、その弱さと罪深さ、足りなさのすべてを内に含んだままの人間そのものなのであって、そのいわば陰の部分を取り除いた「良質」の部分だけを義と認められるわけではないということが、そこでは意味されているのです。そのような信仰にとって本質的で本来的な福音が、遅れてやってきて冒頭に置かれた「認識」としての「処女降誕」物語によって十分に展開され得るかどうかは、はなはだ疑問であると私は思います。

 最古の福音書であるマルコ福音書も、「処女降誕」物語をまったく知らず、むしろ母マリアを、無条件で徹底的な神のゆるしの福音を語るイエス(3章28節)は「気が狂ったのではないか」と思うほかなかった女性として描いています(3章21節、口語訳)。ようやく、ほぼ確実に90年代になって初めて、マタイ福音書とルカ福音書において、「処女降誕」物語が採用されました。それはおそらく80年代に、ローマ皇帝アウグストゥスはアポロン神を父親として誕生したのだとのローマ皇帝神格化の伝説が流布していたことを受けて、「否、ナザレのイエスこそがほんとうに神を父親として生まれた存在なのだ」、ということを論争的に言わんがために成立したものではないかと私には思われます。ルカ2章1節の「キリニウスによる住民登録」が、実はイエス誕生の時ではなくて紀元後8年に行なわれたものであったという明らかな「誤り」は、ただただイエスの誕生を皇帝アウグストゥスの勅令との関連のなかにおくために生じたものであったのか、あるいは「アウグストゥスではなくて、イエスこそが神の子なのだ」ということを言うための意図的な混同であったのか、そのどちらかだろうと私には思われます。現在の私は、後者の可能性のほうが大であろうと考えています。

いずれにしても、「処女降誕」を認めるという「信仰告白」は、新約聖書のなかでも遅れてやっと最後にやって来た「認識」であったのです。そして新約聖書においては、マタイとルカの福音書においてしか言及されないその「処女降誕」物語は、それら二つの福音書のなかでさえも、それ以後の描写に決定的な影響を及ぼすような仕方ではまったく統合されていません。それにもかかわらず、例えば映画「ベン・ハー」のなかの、イエスの誕生時にイエスを訪れたかの博士たちのうちの一人バルタザールがイエスについて語る次のような科白のなかには、すなわち、「この方は、この世のあらゆる罪を一身に担われたのだ。そのために生を受けたとおっしゃった。馬小屋で見たあの御子が、その目的でこの世に現れたお方なのだ」という科白のなかには、遅れてやって来たその「認識」が、あたかも最初から存在したかのごとくに描き出され、そしてそのようにナイーブに信じられてしまうという私たちの一般的な傾向が見出されます。もちろん、「この方は……とおっしゃった」という点もまた、この観点からの厳しい吟味を必要とすることは言うまでもないでしょう。そのような「証言」の語り口と、皇帝アウグストゥスがアポロン神を父親として誕生したことについて語る物語のなかで採用されている「証言」の語り口との間の類似性は、極めて顕著です(拙著『最初期キリスト教思想の軌跡』、新教出版社、2013年、70頁参照)。しかし「認識」の順序は、決して逆さまにされてはなりません。

 すでに申し上げましたように、ブルトマンのケーリュグマへの「決断」、彼の歴史学的、そして実存論的な、あの巨大な影響をもたらした「非神話化」の提唱や、信仰とは決して「知性の犠牲」を強要するものなどではない、との主張をも含む驚くべく豊かな自らの知見をさえも、スパッと切って捨てる潔さゆえに、感動的ですらある彼の「信仰的な決断」は、時に彼を評して人が口にするような「悪魔的」なものなどではまったくなくて、むしろほとんど「天使的」とも言うべき決断なのですが、しかしそれは決してキリスト教原理主義者の言う「逐語霊感説」に基づく「聖書無謬説」のようなものを肯定している姿勢ではない、ということは常に銘記されなくてはなりません。なぜならば、「聖書無謬説」の信奉者が、「信仰告白の言語」と「史実的という意味で歴史的な経過」について語る「情報伝達の言葉」との間に横たわっている位相の違いをまったく無視して、二つを単純に同一視するのに対して、ブルトマンは決して二つを混同したりはしていないからです。だからこそ彼は、「情報伝達の言葉」によって「保証づけられた」「史実」ではなくて、「信仰告白の言語」である「ケーリュグマ」の言語に「決断」しているのです。どこで二つの言語の間の線引きをするのかについて、私たちは上に述べたようなブルトマンの主張に対する「修正」を試みましたが、しかし基本的には正しいと言わざるを得ない二つの言語の間の区別が、二つを混同することから生ずる「いたずらな懐疑」から、他方で同じ混同から生ずる「おぞましい狂信」から、私たちを「解放」してくれるであろうことを私は心から願っています。恩師E・シュヴァイツァーも言われるように、「信仰告白の言語」でもって記されている多くの「頌栄」や「讃美歌」の内容も、直ちに「情報伝達の言葉」で語られている「史実」であるかのごとくに理解されては、決してならないのです。

これら二つの言語のその区別は、今60周年を記念している泉バプテスト教会においても、70周年を記念しているいづみ幼稚園においても、その営為の根底にある根本的な問題であると思います。「冷静」ではあるけれども、決して「懐疑的」ではない、そして「熱心」ではあるけれども、決して「狂信的」ではない宣教と教育が、ここ下馬の地においてさらに展開されていきますように、心からお祈りさせていただきます。ご清聴、どうもありがとうございました。