イサクの死 創世記35章22節b-29節 2019年10月6日礼拝説教

本日の箇所は、二つに分けられます。一つは、ヤコブの12人の息子たちの一覧です(22-26節)。もう一つは、エサウとヤコブの父親イサクの死です(27-29節)。先週のベニヤミンの誕生と、ラケルの死がひと組で物語られたのと物語の鎖は繋がっています。族長ラケルは死にますが、十二部族の始祖たちが出揃います。しかしその一方で族長イサクが死にます。その葬儀は兄弟の仲直りの協働事業となります。聖書の物語は、否定的な出来事と肯定的な出来事が、鎖のように繋がっています。例えば、イサクの母親サラが死んだことと、イサクとリベカの結婚はひと組で物語られることも、その一環です(23章・24章)。特に、否定的な出来事をくぐり抜けて、新しい歴史が切り開かれていくことに注目すべきです。十字架なしに復活はないのです。

このような大きな原則を踏まえながら、細かく聖書本文について考えていき、人生の示唆を与えられたいと願います。

「そしてヤコブの息子たちは12人となった。レアの息子たちは、ヤコブの長男ルベンとシメオンとレビとユダとイサカルとゼブルン。ラケルの息子たちはヨセフとベニヤミン。そしてビルハ・ラケルの侍女の息子たちはダンとナフタリ。そしてジルパ・レアの侍女の息子たちはガドとアシェル。これらが、パダン・アラムで彼のために生まれた、ヤコブの息子たち。」(22-26節)

 一見肯定的な内容に見える、この12人の息子一覧表には問題が多くあります。現代に生きるわたしたちはきちんと批判をしなくてはいけません。信仰が知性や理性、現代の人権思想や良識を犠牲にしてはいけないからです。

問題の第一は、一夫多妻制度を黙認していることです。ヤコブには4人も妻がいます。その原因は女性差別にあります。女性には職業(経済力)を持つことが許されませんでした。単純な差別です。そのために女性たちは男性たちの扶養家族にならざるを得なかったのです。

 第二に非嫡出子差別です。ヤコブの「正妻」はレアとラケル。それぞれの召使だったジルパとビルハは「側妻」です。この母親間の上下関係が、子どもたちにも反映されます。レアとラケルの子どもたちは嫡出子であり、ジルパとビルハの子どもたちは非嫡出子とされます。だから、一覧表で非嫡出子たちは後に紹介されます。特にイサカル、ゼブルン、ベニヤミンなどの順番が、かなり前になっています。非嫡出子のみにある「そして」には、「付け加えて」「おまけに」の含意が見え隠れします。

 第三に家父長制です。「ヤコブの長男ルベン」を産んだレアがラケルよりも先に紹介されます。ビルハとジルパの順番も、ビルハが先に産んだという理由からでしょう。姉レアの侍女であるにもかかわらず、ジルパがビルハよりも後になっているのは、生まれた子どもの順番に従うのでしょう。母親よりも息子が偉い。この一覧表はジルパにとって最も不本意な並びです。

 第四にこの一覧表にはレアの娘ディナが紹介されていません。これは最大の欠陥です。女性は数に入れられないというのです。「十二部族」という言葉を用いるときに、わたしたちは常にディナのことを思い出さなくてはいけません。ヤコブには13人の子どもたちが与えられたということが歴史の事実です。その事実に反して12人を重視することは、男性中心の歴史修正主義です。このことは、「十二弟子」「十二使徒」にもあてはまります。十二という数字は明確に十二部族に由来するからです。指導者である女性の弟子や使徒がいたことは新約聖書が証言しています。たとえばマグダラのマリアや、ユニア(ローマ16章7節)など、数多くの「13人目」を銘記し続けるべきです。

 第五に、単純な事実誤認です。ベニヤミンはパダン・アラムではなくカナンの地で生まれています。先週申し上げたとおりです。この辺りにもこの聖句を書いた人の、事実を重んじない態度が出ています。余談ですが、「聖書が歴史記述としても一言一句誤りない」という立場は、ベニヤミンの出生地に関する相矛盾した記事(16節と26節)の前に破綻します。

 この一覧表は反面教師です。教会が自らを点検するために用いるべきです。新しいイスラエルと呼ばれる教会の内部には、まだ性別役割の押し付けや、男性が威張ることや、人と人を比べて序列を付けることや、事実の誤認や、誰かを数に入れないことがあるのではないか。教会は人を幸せにする場所でなくてはいけません。現代社会の当たり前の幸せをまずは満たしている必要があります。この世的に安全な場となることが求められます。その上で教会は一人一人の日常生活の幸せを邪魔してはいけません。縛らないで自由にするのです。わたしたちは自分と隣人の幸せの総量を増やすために教会に通いましょう。

「そしてヤコブは、イサク・彼の父のもとに来た。(すなわち)キルヤト・アルバのマムレ(に)、それ(キルヤト・アルバ)はアブラハムとイサクが寄留したヘブロン。」(27節)。

ヤコブがベテルを旅立った理由は父の最後を看取るためだったかもしれません。すでにヤコブはイサクの全財産を相続する「長子の権利」を得ています(25章27-34節)。エサウからだまし取ったこの権利を生かすために、イサクの住んでいる場所に移住したのでしょう。ヤコブのアラム滞在期間は20年(31章41節)。実に久しぶりの親子対面です。ヘブロンという祖父アブラハムゆかりの町で(13章18節)、ヤコブは父イサクと再会します。こうしてヘブロンでアブラハム、イサク、ヤコブの三代が直結します。このヘブロンが、ダビデ王朝の最初の首都となります(サムエル記下2章1-4節)。

イサクに目を転じると、彼はヤコブが家を出た時にはベエル・シェバに住んでいました(28章10節)。元々いたベエル・シェバから北方のヘブロンという町に移住した理由は、妻リベカの葬儀と自分自身の死の準備だったと思います。

ヘブロンとキルヤト・アルバという町の名前は、ほぼ同義語として登場します(23章2節)。マムレはヘブロンという町の中にある、より小さな場所の名前です。世田谷区に対する下馬みたいな感覚です。マムレにアブラハムは妻サラのための墓地を買い、彼女を葬りました。マクペラの洞穴です(23章17-20節)。そこにアブラハム自身も葬られました(25章7-10節)。息子イシュマエルとイサクが協力して葬儀をあげています。マクペラの洞穴は「家の墓」です。「彼の民に加えられた」(29節)という表現は、死んだ人が先祖の眠る家の墓に入れられたことを指しています。先にイサクの妻リベカも家の墓に入っています(49章31節)。だから、イサクはリベカの葬儀をした時に、ヘブロンに移住し定住したのだと推測します。妻を家の墓に加え入れ、次に自分自身の死に備えるためです。

「そしてイサクの日々は180年となった」(28節)。

ここでイサクの180年に渡る生涯を振り返ってみましょう。彼は父アブラハム100歳、母サラ90歳の時の子どもです(21章)。神が夫妻に約束してから25年後にやっと与えられた子どもでした。とても可愛がられたと思います。小さい時に母親の違う兄イシュマエル(非嫡出子)とその母ハガルが家を出ていきました。また少年時代に、父アブラハムに殺されかけました(22章)。これらの辛い体験を通してイサクは忍耐を学びます。

37歳の時に母サラが亡くなります(23章)。そして40歳の時にリベカと結婚します(24章、25章20節)。60歳の時にエサウとヤコブという双子の父親になります(25章26節)。75歳の時に父アブラハムが死にます(25章7節)。ここでイサクは名実ともに族長となり、嫡出子として全てを相続します(25章5節)。飢饉の時には一族を率いてゲラルへの移住、そして井戸を掘り当ててはペリシテ人に奪われ、最後にベエル・シェバに定住します(26章)。このあたりがイサクの働き盛りの時代です。イサクには柔和な人柄と、平和を創り出す知恵があります。

100歳を超えたころに長男エサウの結婚(26章34節)、次男ヤコブの出奔(結婚相手を見つけるという名目の逃亡)が起こります(27章)。この頃イサクは目が見えなくなりました。目が見えないことを、妻リベカとヤコブに悪用されて騙され、エサウに相続させることに失敗します。ここから彼の家族は減って行きます。エサウがその妻たちと共にセイルの地に行き独立し、ヤコブはアラムに行きます。そして最愛かつ唯一の妻リベカも先立ちます。またリベカの乳母デボラも、ヤコブに会うために去り、ベテルで死にました。騙すよりも騙される。妻も子どもも自由にさせる。去る者は追わない。ここにイサクの本領があります。もうイサクは120歳を超えました。心身ともに衰えています。

寂しく暮らすイサクのもとにヤコブが帰ってきました。13人の孫たちを連れて帰ってきたのです。一番下の孫ベニヤミンはまだ赤ん坊です。イサクは大喜びしたことでしょう。義理の娘となったレアも目が弱い女性でした。イサクとレアは同じ弱さで結びつきます。柔和なイサクは孫ディナの負った痛みを傾聴することができたかもしれません。特に同じ少年少女時代に過酷な経験を生き延びたサバイバーとして、二人は共感することができたはずです。おそらくレアの諸天幕の中でイサクは晩年幸せに暮らしたことでしょう。死ぬまでの約60年、イサクは孫やさらに曾孫たちと一緒に暮らすことになります。

「そしてイサクは息絶え、死に、彼の民に加えられた。(彼は)年老いまた日々の満足(を得た)。そして彼を、エサウとヤコブ、彼の息子たちが葬った」(29節)。

イサクの人生は比較的穏やかです。アブラハムとヤコブという派手な父親と息子に挟まれた、平凡な生涯です。生涯の移動距離も、アブラハムやヤコブよりも断然少ないものです。アブラハムは12-25章、ヤコブは25-35章、イサクは26章のみの主人公です。そのイサクのみが約束の地で生まれ、そこから生涯一歩もはみ出さず、約束の地で死にました。イサクはサラ、ハガル、リベカたちのように際立った女性たちの個性に埋没しがちな地味な人生です。しかし彼の「この世的に幸せな人生」を、聖書は大いに評価しています。

両親に愛され、良い結婚にも恵まれ、二人の子どもが与えられる。その二人共に自立・独立し、家を継いだ子ども家族と同居し、その子どもや孫や曾孫に世話をされ看取られながら死んでいく。年老い、日々の満足をいただきながら、息を引き取ることに勝る幸せがあるのでしょうか。さらに、あの対立していたエサウとヤコブが協力して、イサクの葬儀をあげるのです。イサクにとっての唯一の不幸は息子たちの葛藤でした。しかしエサウの赦しによって、それは解決しています。聖書は注意深く「エサウとヤコブ」という順番で記し、エサウの貢献を讃えています。さらに新約聖書はエサウの赦しの背後に、エサウもヤコブも祝福する父イサクがいたことを記します(ヘブライ11章20節)。イサクの祈りが聞かれ、彼の葬儀にはエサウの妻、子、孫も多く参列したのです。

今日の小さな生き方の提案は、平凡な幸せをいただくということです。この世界での幸せを犠牲にしてはいけません。もちろん様々な人は自分の幸せを自分自身で決めることができます。その自分の決めた自分らしい幸せを生き、死ぬまで幸せに取り囲まれて、周囲の幸せを祈って日々を満足することです。イサクのように、自分の望む幸せな老後を過ごしたいと思います。