「そしてこれらがエサウの歴史、彼はエドム」(1節)。「そしてこれらがエサウの歴史、彼はセイルの山におけるエドム人の父祖」(9節)。
「歴史」と訳した言葉は、ヘブライ語でトーレドートと言います。「産む」という言葉から派生し、新共同訳聖書では「系図」(5章1節、10章1・32節、11章10・27節、25章12・13節、36章1・9節)や、「物語」(6章9節)、「由来」(2章4節)などとも翻訳されています。マタイ福音書の冒頭にも系図が登場します。節目・転換点に系図が登場するのは聖書の特徴です。創世記において特にそのことが当てはまります。天地創造からアダム・エバ物語への転換点(2章)、アダム・エバ物語からノア物語の転換点(5-6章)、ノア物語からアブラハム・サラ物語への転換点(10-11章)、アブラハム・サラ物語からヤコブ・レア・ラケル物語への転換点(25章)、そしてヤコブ・レア・ラケル物語からヨセフ物語への転換点の36章です。系図が歴史を区切ります。
そして系図はユダヤ人にとって歴史そのものです(2章4節、6章9節)。わたしたちにとって系図は「煩雑で重要性の低い記事」のように思えます。または、皇統譜や戸籍法などについて批判的な立場からは、系図にこだわる「血統主義」も批判されるべきでしょう。それにもかかわらず、ここで重要なことはエサウが肯定的に評価されているということです。エサウの系図に36章全体が費やされていることはエサウに対する尊重を示しています。創世記全体の祝福の歴史が、エサウにも確実に及んでいるのです。今までの物語でも、先入観を除けて考えればエサウは決して否定的に描かれていません。「詐欺師的英雄」ヤコブを一方的に赦し、父イサクとの共同の葬儀を行ったエサウ。その葬儀に参列したエサウの妻、子ども、孫に誰がいるのかを36章は紹介しています。
聖書はヤコブを選ぶ神を物語ります。イスラエルや教会という小さい群れを狭く深く選ぶ神です(救済論)。その一方で聖書は、命の全体、すべての人種・民族・国についての祝福をも語ります。誰をも選り好みせず、広く高く全世界を丸ごと肯定する神です(創造論)。この普遍的な視点は、今日の世界にとって重要です。世界が、文化の違いを差別や戦争の理由にしない知恵を必要としているからです。パレスチナ問題、東北アジアの平和と共存の問題など、わたしたちはさまざまな民の固有のトーレドート(系図・由来・物語・歴史)を大切にしながら、一つの地球のトーレドートを形づくらなくてはいけません。「世界」「歴史」が鍵語となります。世界連邦へと向かう歴史構想が必要です。
「エサウはカナンの娘たちから彼の妻たちを娶った。ヘト人エロンの娘のアダを、またヒビ人ツィブオンの娘のアナの娘オホリバマを、またネバヨトの姉妹、イシュマエルの娘バセマトを(娶った)(2-3節)。
この記事には他の記事との矛盾があります。エサウの妻の名前は、「ヘト人ユディト」「ヘト人バセマト」「イシュマエルの娘マハラト」の三人のはずです(26章34節・28章9節)。しかし、ここでは「ヘト人アダ」「ヒビ人オホリバマ」「イシュマエルの娘バセマト」となっています。こういった矛盾した記事の原因は、異なる言い伝えが存在したことと、そのことにあまり注意しないで編集したということにあります。聖書はこの意味で大らかな本です。
ここから与えられるメッセージは、細かい違いに目くじらを立てるなということです。むしろ、大枠で捉えるべきです。約束の地カナンで生まれたエサウは広い意味の「カナン人(ヘト人やヒビ人を含む意味)」女性2人と結婚をし、さらに父方の従姉妹の1人とも結婚をしました。結婚に関して双子の弟ヤコブと似ています。一夫多妻であり、従姉妹であるからです。エサウとヤコブの相違ではなく類似に目を向けるように促されています。
エサウはイサクの兄イシュマエルの後継者の一人です。エサウとイシュマエルには共通点が多くあります。二人共二人兄弟のうちの「選ばれなかった兄」です。そして二人共「自分を選ばなかった父」の葬儀を弟と共に行います。二人共「選ばれた弟」に隣接しながらも距離をとって暮らします。実はこの世界は「選ばれなかった兄」たちの広い度量によって支えられています。寛容なエサウという像を描き直しましょう。
「そしてアダはエサウのためにエリファズを産み、バセマトはレウエルを産んだ。そしてオホリバマはエウシュとヤラムとコラとを産んだ。これらは、カナンの地で彼のために生まれたエサウの息子たち(4-5節)」。
ここではエリファズとレウエルが鍵です。エリファズという名前はヨブ記に登場します。「テマン人エリファズ」です(ヨブ記2章11節)。エリファズの息子にテマンがいます(11節)。預言者たちはエドム人とテマン人を同一視しています(エレミヤ書49章7節、オバデヤ書8-9節)。近い親戚であるテマン人はイスラエルにとって論敵・対話すべき知恵者です。粗暴なエサウという偏見を取り除きましょう。エリファズとヨブとの関係が示している通りです。それと同時にエドム人は軍事衝突の相手でもあります(オバデヤ書)。
レウエル(別名エトロ)はモーセの舅と同じ名前です(出2章18節)。モーセの舅は知恵あるミディアン人として、民主的な裁判員制度をモーセに伝授しました。ミディアン人も親戚・知者なのだという主張がここにあります。そしてテマン人と同じくイスラエルと敵対関係にありました(民数記25章)。士師ギデオンはミディアン人の侵略に対して軍事防衛にあたったのでした(士師記6-8章)。ミディアン人も軍事衝突の相手です。
「アマレク」(12節)に対しても事情は似ています。エサウの孫アマレクは後のアマレク人の先祖でしょう。アマレク人もミディアン人と同じくイスラエルの軍事衝突相手です(出エジプト記17章、サムエル記上15章)。いったん軍事衝突を起こすと憎しみは増幅します。旧約聖書の人々にとって親戚同士の戦争と「憎しみの連鎖」は日常的なものでした。
近い関係の親戚は教え合い争い合うということを聖書は伝えています。その理由は比べやすさにあると思います。学びやすいが負けたくもないという意識が強くなるのは、その近さのゆえではないでしょうか。朝鮮半島は日本住民のルーツの一つです。その他にもアイヌ民族やポリネシア系海洋民族もルーツでしょう。世界中の民族は「雑種」です。大陸系の人々とわたしたちは共通の先祖を持つ親戚です。文化を教えられてきたことに対して江戸政府の時代までは伝統的に敬意を払ってきました。現在蔓延している「嫌韓」は、明治以後の薩長中心政府によって作られた感情です。侵略戦争のために「親戚への差別」が教え込まれたのでした。頭を冷やし遡って考えて、きょうだい同士互いに知恵をこらして仲良くする方法を学び合いたいです。
「そしてエサウは取った。彼の息子たちと、彼の娘たちと、彼の家の命のすべてと、彼の持ち物と、彼の家畜のすべてと、彼がカナンの地で得た彼の財産の全てとを(取った)。そして彼の弟ヤコブの面前から地へと彼は行った。なぜなら彼らの所有物が一緒に住むよりも多くなったからだ。そして彼らの寄留している地は彼らの家畜のために彼らを担うことができなかった。そしてエサウはセイルの山に住んだ。エサウはエドム」(6-8節)。
エサウは、イシュマエルよりもさらに上の世代に遡ってロトにも似ています。ロトは祖父アブラハムの甥、アブラハム・サラ夫妻と共にハランから旅立った人物です。ロトもイスラエルの周辺民族の先祖。ロトの子孫モアブ人とアンモン人は、エドム人と同じくヨルダン川・死海の東側に位置する隣人です。創世記13章にはアブラハムとロトが別れる理由が書いてあります。それは、エサウの移住の理由とそっくりです(13章6節)。人口密度の問題として、また、家畜たちの牧草地の不足の問題として、共に大きな財産を持っている者は狭い土地に一緒には住めないのです。必ず争い合うことになるからです。
ヤコブがアラムから帰ってくる前からエサウはセイル山に移り住んでいました(32章4節)。「ヤコブの面前から」というのは、「将来帰ってきて父のすべてを相続するであろう、今ここにいないヤコブ」を想定しているのでしょう。エサウの移住の時期は、エサウがヤコブとの比較をやめ、ヤコブの顔を気にせず、ヤコブを赦して、自分の「長子の権利(長男総取り)」を完全に諦めた時点でしょう。ロトのように彼は自分の決断で約束の地から出て行きます。それは平和を創り出す、知恵であり、広い世界へと自由を得る行動でもありました。
「地へと」は、あまりにも短く意味不明なので古代の写本や翻訳家はさまざまに工夫をしています。たとえば、「カナンの地から」(サマリア五書、ギリシャ語訳)、「セイルの地へと」(シリア語訳)、さらに「別の地へと」(アラム語訳。新共同訳も)とする工夫です。しかし原文のままでも意味は通ります。「地」(エレツ)を「大地」や「世界」と翻訳すれば良いのです。エサウは、弟ヤコブを気にする生き方を止め、広い世界へと自由な歩みを始めます。人はどこでも生きていける。そこには全世界を創った神への信頼があります。
エサウの妻アダは1人の息子を産み、妻バセマトも1人、妻オホリバマは3人の息子を産みました。合計5人です。エサウの孫たちの数は、アダ系6人、バセマト系4人、オホリバマ系3人、合計13人です(10-14節)。3人の妻、5人の息子(と娘たち)、13人の男性の孫(と女性の孫たち)。エサウ自身も含め22-40人ほどが、イサクの葬儀に参列しています。そしてエサウの親族として伯父イシュマエルの家族も参列したことでしょう。ヤコブの側は、ヤコブの3人の妻、13人の子ども、70人の孫(出エジプト記1章5節)、合計87人が参列しています。子孫だけで130名以上の大葬儀です。
アブラハムとサラとロトが神の約束を信じてハランから旅立った時に、その25年後に生まれたイサクの葬儀に、これほど多くの子孫が参列することを誰が想像できたでしょうか。エサウの子孫の一覧は、神の祝福を立証するものです。「自由に生きよ。地に満ちよ」。
エサウの子や孫だけが特別に「首長」(アルフ)と呼ばれていることは重要です(15-19節。なお29-30節、40-43節も)。他の民族にはない指導者に対する呼び方です。「友」「配偶者」「隣人」の意味もあります(詩編55章14節、箴言2章17節、ミカ7章5節等)。この呼び名の由来は、おそらくエドム人独特の王制度にあります。垂直な世襲ではなく水平な関係の首長たちの持ち回り王政です。そのエドムの文化がヘブライ語に影響して、友・配偶者・隣人という単語が生み出されたのでしょう。繰り返される「首長」という言葉は、わたしたちが隣人の持つ水平文化を学んでいるのか、隣人と水平の友となっているのか、向き合うパートナーとなっているのかを問い続けています。
今日の小さな生き方の提案は、隣人の歴史を学び、隣人に対する偏見を取り除けることです。わたしたちは異なるけれども、ただ一人に遡ります。アダム(人類)であり、神です。そしてわたしたちは争い合っていますがただ一つの歴史の目標に向かっています。すべてのアルフが理事国を回り持ちする国際連合です。日本と朝鮮半島は双子のきょうだい。エサウの系図を大切にするキリスト教会から、「近い親戚の相互尊重」という福音を発していきましょう。