「そしてヤコブは彼の父の寄留の地、カナンの地に住んだ。これらがヤコブの歴史」(1-2節)。「ヨセフ物語」の始まりです(37-50章)。しかし、それは広い意味のヤコブと4人の妻の物語に含まれます。聖書は「これらがヤコブの歴史(トーレドート)」と語っています。ヤコブが49章まで生きているからでしょう。25章で生まれたヤコブが、49章で死にます。50章ある創世記の約半分を、ヤコブ(イスラエル)は生きています。旧約聖書全体も、また創世記全体も、「イスラエルの歴史」というタイトルで言い表すことができます。ヨセフが主人公の物語も、イスラエルの歴史の一部です。3節でヤコブが「イスラエル」と呼ばれている理由もそこにあります。ヨセフ物語は、なぜイスラエルはエジプトに住むことになったのか、その経緯を説明する「短編小説」です。
「十七歳のヨセフは彼の兄弟と共に羊を飼う者となった。そして彼は彼の父の妻たちビルハの息子たちと共なる若者、またジルパの息子たちと共なる(若者)。そしてヨセフは彼らの悪い噂を彼らの父のもとに運んだ」(2節)。
ここで17歳までのヨセフが、どういう成長過程で羊飼いとなったかが明かされます。ヨセフはラケルの天幕に住んでいました。ラケルの天幕は、母ラケルの死後、ラケルの召使だったビルハの天幕と統合されました。母の死と同時に生まれた弟ベニヤミンと共に、ビルハにヨセフは引き取られたのでしょう。いわゆる「ラケル系(ラケルとビルハ)」の天幕は一つにまとまっていたのです。
ヨセフが、ジルパの息子たちよりも先に「ビルハの息子たちと共」にいたと書いている2節は、ヨセフが子どもの頃からダンとナフタリと共に遊び、仕事について学んでいたことを伺わせます。この時点ではダンもナフタリも大人になり結婚をし、自分の天幕を持っていたかもしれませんが、近い関係は続いていたと思います。ベニヤミンに次いで親しかったのはダンとナフタリです。
そして、その次にヨセフが仲良くしていたのは、レアの召使だったジルパの息子たちでした。ガドとアシェルです。この兄たちは「レア系」(レアとジルパ)ではあります。しかし側妻の子どもたちという意味では、ダンとナフタリに似ています。つまりヨセフの交友関係はレアの天幕以外で培われたものです。
レアの天幕は、ヤコブ家においてあらゆる意味で最強です。レアはラケルと共に正妻です。ヤコブと最初に結婚した女性です。そしてレアはラケルの姉です。レアの天幕には、すべての子どものうちの初子、長男ルベンがいます。また、7人の子どもという最多数でもあります(ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イサカル、ゼブルン、ディナ)。ヨセフはこの最強・最大勢力との交友がもっとも薄かったようです。
ところが、ヨセフは比較的親しかったダン、ナフタリ、ガド、アシェルという四人の兄についての悪い噂を、わざわざヤコブに伝えたというのです。極めて不思議な行動です。もし、レアの天幕の一極支配に対抗したいのであれば、ビルハとジルパの天幕をまとめあげる必要があるからです。そうすれば7対6までは競り合えます。正妻ラケルの長男ヨセフこそ、非レア連立政権の長にふさわしいはずです。悪い噂を流すのならば、レアの子どもたちに関するものをヤコブに伝えるべきでしょう。この結果、ヨセフはビルハとジルパの息子たちからの信頼を失います。ヨセフは、いわゆる「普通」の損得感情を持ち合わせていません。自分にとってわざわざ損になることを選択するからです。
「そしてイスラエルはヨセフを彼の息子たちすべてよりも愛した。なぜなら、彼が彼に属する長老たちの息子だったから。そして彼は彼のために様々な色の外套を作った。そして彼の兄弟たちは、彼らの父が彼を彼の兄弟たちすべてよりも愛したのを見て、彼らは彼を憎んだ。そして彼らは彼とは挨拶することができなかった」(3-4節)。
ヤコブがヨセフだけを愛した理由は、今ひとつはっきりしません。新共同訳が訳す「年寄り子」だったことが理由ならば、末っ子のベニヤミンこそが最も愛されるはずです。「年寄り」という名詞は複数形です。この「年寄りたち」は個人を意味しえません。本日は、ヤコブの召使いたちの長老格である「年寄りたち」に、ヨセフが我が子のように可愛がられたと解釈します。特にハランに住んでいた時からラケルに属し、その後ラケルの長男ヨセフに属すことになった長老たちが、ヨセフを可愛がったと考えます。ラケルもヨセフも顔も姿かたちも美しかった(29章17節・39章6節)とありますから、二人はよく似ていたのでしょう。少なくともベニヤミンよりもヨセフの方がラケルに似ていた。だからラケルの小さい時から知り、彼女の苦労を知っている長老と共に、彼らの後押しを受けて、ヤコブもヨセフを愛したのです。
「様々な色の外套」(「裾の長い晴れ着」)は、サムエル記上13章18節にも登場します(「飾り付きの上着」)。ダビデ王の娘タマルが着ていた、結婚していない王女用の服です。ヤコブは、亡くなった愛妻ラケルを記念して、この女性向けのマントを作り、ヨセフにだけ与えます。
他の兄弟たちはおもしろくありません。ヤコブはヨセフだけを偏愛しました。この「兄弟たち」は兄たちだけではなく弟ベニヤミンも含んでいる表現です。ヘブライ語は英語と同じく兄と弟を区別しません。「十一の星」(9節)も、ディナを省いてベニヤミンを加えている数でしょう。十一人はヨセフをねたみ憎みます。かつて、イサクはエサウのみを愛し、ヤコブの妬みを買い、家に不和をもたらしました。同じことをヤコブはしてしまいます。ビルハの天幕(ベニヤミンを含む)・ジルパの天幕だけではなく、レアの天幕からもヨセフは憎まれます。この憎悪の広がりの責任は父ヤコブにあります。
すべての兄弟たちは、ヨセフに「シャローム」と挨拶することができなくなりました。無視です。しかしヨセフは無視されていることに気づきません。自分が嫉妬され憎まれていることに気づいていないのです。単にわがままなボンボンということではなく、他人の感情を推し量ったり、共感したりすることが生まれつき苦手なのでしょう。ヨセフは人間関係を築くことが難しいという生きづらさを抱えています。
「そしてヨセフは夢を見、彼の兄弟たちに告げ、彼らはさらに彼への憎悪を増した」(5節)。この状況でこの夢を告げることが何をもたらすのかヨセフだけが分かっていません。状況をますます悪化させることをヨセフは行います。「増した」(ヤサフ)と、ヨセフという名前は語根が同じです。「二度行う」「加える」という意味の動詞です。ここに語呂合わせがあることに注目すべきです。つまりヨセフは事態を悪化させる人物として描かれています。TPOが分からない、空気が読めないからです。
ヨセフは二つの夢を見ます。一つは「穂束の夢」(6-8節)、もう一つは「天体の夢」(9-10節)です。どちらの夢も言いたいことは一つです。家族はいつかヨセフにひれ伏すという未来の予告です。
「そして彼は彼らに向かって言った。『どうか、あなたたちは私が見たこの夢を聞いてくれ。そして見よ、私たちがかの畑の真ん中で穂束を束ねている。そして見よ、わたしの穂束が起き、そしてさらに立ち尽くした。そして見よ、あなたたちの穂束が囲み、私の穂束にひれ伏した』。そして彼の兄弟たちは彼に言った。『あなたが本当に私たちの上に王となるのか。あるいは、あなたが本当に私たちを支配するのか』。そして彼らは、彼の夢に接して、また彼の事柄に接して、彼を憎むことをさらに増した(ヤサフ)」(6-8節)。
夢の中、十二人の兄弟は畑で穂を束ねる作業をしています。兄たちがヨセフとベニヤミンにそれを教えている最中です。するとヨセフが束ねた束だけが立ったというのです。そして他の兄弟たちの束ねた束が周りを取り囲みヨセフの束に向かって礼拝しました。3回繰り返される「そして見よ」に語るヨセフの興奮が示されます。夢が潜在意識・深層心理を映し出すのならば、これはヨセフが兄弟を支配したいという欲望を持っているという意味でしょう。兄弟たちは正しく理解しています。長男の座に就きたいということか、兄弟の上の王になって君臨し、支配し、父ヤコブのすべてを相続する気かと。
夢の内容だけではなく、この失礼な内容を抜け抜けと語るヨセフの人格そのもの(かの事柄=人間関係を構築できないヨセフという人間)に直面し、兄弟たちはさらにヨセフを憎みます。ヨセフが悪感情を悪化させています。しかし、彼だけは兄弟の感情を理解しません。
「そして彼は別の夢をさらに見、それを彼の兄弟たちに説明し、言った。『見よ、私がさらに夢を見た。そして見よ、太陽と月と十一の星が私にひれ伏している』。そして彼は彼の父に向かって、また彼の兄弟たちに向かって説明し、彼の父は彼を叱り、言った。『あなたが見たこの夢は何か。私とあなたの母とあなたの兄弟たちが、あなたのために地にひれ伏すために、本当に来るのか。』 そして彼の兄弟たちは彼を妬み、彼の父は、かの事柄を守った」(9-11節)。
二度目の夢については「説明し」(サファル)が付け加わっています。数え上げて一々語るという意味です。ヨセフは一度目の夢を兄弟たちが理解できなかったから不機嫌になったと思ったのでしょう。二度目の夢で、わかりやすくくどくどと説明をしたのです。これまた逆なでする行動です。太陽と月、十一の星は、穂束より明確です。父と母、十一人の男兄弟です。ヨセフはこの夢の説明を、まず兄弟たちに、次にヤコブに、最後にまた兄弟たちに行っています。
ヤコブはたまらずヨセフを叱ります。「そんな失礼なことを当事者の前でくどくどと言うな。自分でも嫌な気持ちになる」と。しかしヨセフは何が問題なのかさっぱり分かりません。まったく謝らないし悔い改めません。それを見ても父はヨセフをそれ以上追求しない。父ヤコブが気づいたからです。息子ヨセフには「普通」の感情がない。人間の社会では生きづらい人格である。生きづらさを抱えているヨセフの人格(かの事柄)を守ろうとします。
父に叱られてもさらに同じ夢の説明を自分たちにするヨセフ。そのことについてはもはや叱ろうとしない父を見て、兄弟たちはうんざりし、ヨセフを妬みます。父親の愛情が不当に偏っているからです。しかもヨセフは「月=母」までひれ伏すと言います。この母はレアのことでしょう。ヨセフの母ラケルはすでに死んでいます。「家を代表する母」はレアだけです。こうしてある程度距離のあったレア系の兄6人も、完全にヨセフを憎みます。
今日の小さな生き方の提案は、ヤコブの態度に学ぶということです。昨今、発達障害についての研究が進んできました。以前なら「変わった人」「無礼な人」と決めつけて、その人を排除するだけで終わっていましたが、今や「独特の生きづらさを持つ人」という考え方で説明できるようになってきました。「一般的な理屈」や、「通常の感覚」「社会通念」を持つことができない人もいる。その人たちも含めて社会は成り立っています。どうすれば共に平和に生きられるのでしょう。固有の課題(かの事柄)について学ぶこと、適切な距離を取りながら付き合うこと、必要な時に(近づき過ぎの時など)その人に届く言い方で警告を発することです。「愛する」ことは近づくことではなく、理解し共に生きる道を探ることです。愛を社会的に形成していきましょう。