「そして人々・ミディアン人・商人が渡った。そして彼ら(兄弟たち)は引っ張り、ヨセフをその穴から上げ、ヨセフをイシュマエル人に銀二十枚で売った。そして彼ら(ミディアン人≒イシュマエル人)はヨセフをエジプトへ持って行った」(28節)。
この物語には困難があります。誰がヨセフを穴から引き上げ売ったのか。ヨセフを買ったのは誰か。ヨセフはミディアン人からイシュマエル人に転売されたのか。最後に登場するメダン人とは誰か(36節)。結論から言えば、ミディアン人とイシュマエル人とメダン人はすべて同じ人々を指すと考えます。
まず、ミディアン(MDYN)とメダン(MDN)は一文字だけの違い、それもヘブライ文字で最小の文字の有無です。ギリシャ語訳やラテン語訳はどちらもミディアンとしているので、メダンという綴りが書き間違え・書き落としであったと考えます。次に、イシュマエル人とミディアン人を同じ人々と考える理由です。これは36章の「エサウの系図」がなぜ必要だったのかをも説明することにもなります。36章と38章は、古来なぜこの文脈に置かれているのか不思議とされていました。しかし、物語に一貫して流れる地下水脈を掘り当てれば、理解できるようになります。
エサウの三人目の妻はイシュマエルの娘バセマトでした(36章3節)。バセマトは息子レウエルを生んでいます(同4節)。このレウエルは、ミディアン人に伝わる名前です。モーセの舅ミディアン人エトロの別名がレウエルです(出エジプト記2章18節)。エサウを間に立てて、イシュマエル人とミディアン人は親戚です。聖書を編んでいった人々にとって、ミディアン人とイシュマエル人は交代可能な民であり、ほぼ同じ人々なのです。だからミディアン人(=メダン人)≒イシュマエル人と考えます。両者はほぼ同じ人であると36章で読者は理解し、それを前提にして37章で両者が混在して登場しているのです。
そう考えるならば、ヨセフを穴から引き上げたのはルベンを除く10人の兄弟たちです。原文で28節の一回目に登場する「彼ら」を「ミディアン人」(新共同訳)ではなく、「兄弟たち」と解します。27節でユダの提案に聞き従った兄弟たちが、28節でその提案を実行したという理解です。兄弟たちは遠くで見かけたミディアン人(イシュマエル人)が予測通り遠くから近くに渡ってきたので、ヨセフを銀20枚で売りました。ヨセフの穴は、兄弟たちが座って食事をしている場所よりも少し離れていました。彼らは、ルベンが戻る前にあわてて穴に向かい、助けを乞うヨセフの叫びを無視して売り飛ばしたのです。17歳男性であるヨセフの値段として銀20枚は適正です(レビ記27章5節。イエスが弟子のユダに銀30枚で売られていることも参照)。ヨセフを買ったミディアン人は、彼にさらに高い値段を付けてエジプト人ポティファルに転売したのでしょう(36節)。王の側近であるポティファルには財力があります。
「そしてルベンがその穴のもとに戻った。そして見よ、ヨセフがその穴の中にいない。そして彼は彼の服を裂き、彼の兄弟のもとに戻り、言った。『あの子どもがいない。そしてどこへ私は、私は行きつつあるのか』(29-30節)。
10人がヨセフを売り飛ばした後に、ルベンも穴に戻ってきます。一人だけ良い格好をしてヨセフを救い出しヤコブのもとに戻すためです。ところがヨセフがいません。途方に暮れるルベン。服を裂くのは激しい感情を示す表現です。ここでは怒りでしょう。ルベンは「なぜ自分の言葉に聞き従わなかったのか」と弟たちをなじります。ユダを中心に10人の弟たちが、怒る長兄ルベンを宥めて説得します。そしてルベンも共犯者にしていきます。
なお、先週からベニヤミンもこの暗殺計画に加わる共犯者だったと想定しています。その理由は、ヨセフがいなくなった後にベニヤミンがヨセフのように兄たちから苛められていないからです。父の愛情はベニヤミン一人に集中していたにもかかわらず、ベニヤミンは兄たちから憎まれていません。共犯関係にあったからだと推測します。
「そして彼ら(11人の兄弟)はヨセフの外套を取り、雄の山羊を殺し、その外套を血の中に浸し、その様々な色の外套を切り裂き、彼らの父のもとに持って行って、言った。『私たちはこれを見つけました。どうか、それがあなたの息子の外套か、それともそうでないか、認識してください』。そして彼はそれを認識し、言った。『私の息子の外套…。悪い獣が彼を食べた。ヨセフはさんざんに引き裂かれたのだ』」(31-33節)。
兄弟たちの手元には憎いヨセフの外套があります。20節の最初の暗殺計画どおり、「悪い獣に食われた」という言い訳を使える状況にあります。ルベンは不承不承、その言い訳を使うことを了承しました。11人の兄弟たちは、雄山羊を一頭殺して、その血にヨセフの外套を浸します。雄山羊は礼拝の犠牲獣でもあります。
ヨセフの外套を召使い等他の人によってヤコブに送り届けたとすると(新共同訳)秘密が守られにくくなります。今まで兄弟だけしか登場していないので不自然でもあります。ここでは「送った」ではなく「切り裂いた」(「投げる」の強意)と翻訳します。血に浸した後に、切り裂き、地面に、恨みも込めて投げつけ汚したと解します。びりびりに裂きながら、投げつけ踏みつけたのでしょう。獣の仕業を装うためです。そして、そのボロボロになった外套を、11人がヤコブのもとに持って行く。イシュマエル人はヨセフ自身をエジプトへ持って行きましたが(28節)、それに対応して兄弟たちはヨセフの外套を父ヤコブのもとに持って行きます(32節)。どちらも全く同じ単語・同じ表現です。
「あなたの息子の外套か」。放蕩息子の例え話に登場する兄息子のせりふは、ここからヒントを得ているのでしょう。「わたしたちの兄弟」ではなく、「あなたの息子」という言い方に、兄弟たちの心情が表れています。「わたしたちもあなたの息子たちです。わたしたちのことも公平に愛してください」。これが彼らの本心です。しかし父ヤコブは11人の息子たちの本心に気づきません。「私の息子の外套…」。この呟きに兄弟たちは失望を深めます。ヤコブにとって「私の息子」と呼べるのはヨセフただ一人なのです。
服も服の持ち主もズタボロに引き裂かれています。兄弟から裸にされて、穴に突き落とされ、嘲られ、無視され、外国に売り飛ばされたのです。ヨセフの心は、人を信じることも神を信じることもできないほど痛手を受けています。ヤコブの手にしている外套も同じです。「完璧な人」ヤコブが自分の手で裁縫して作った服は、もはや原型をとどめていません。獣がヨセフを襲った時のヨセフの恐怖・痛みを想像し、ヤコブの胸はつぶれそうになります。外套はヨセフを象徴しています。
息子たちにつきつけられ、ヤコブはこの汚い布がヨセフの外套だったと認識しました(ナカル)。しかし、認識できなかったことがあります。ヨセフを噛み殺した悪い獣(「かみ裂く狼」49章27節)というのは、自分の息子たちだったということを、ヤコブは認識していません。息子たちの本心をまったく認識していないからです。
同じナカルは父イサクにも用いられています(27章23節)。イサクは、エサウかヤコブか認識できません。愛妻リベカの策略も認識できないのです。またナカルは、伯父であり舅でもあるラバンに対するヤコブの言葉としても用いられています(31章32節)。ヤコブは「神像を盗んだかどうかを認識せよ」と迫ります。しかしこの言葉は、ラケルが盗んだことをヤコブが認識していなかったから言ったのでした。この「認識」(ナカル)は38章においても42章においても登場する鍵語です。ヤコブと妻たちの物語の地下水脈です。主人公たちは、重要な事柄を認識できないのです。ヤコブはヨセフが生きていることを認識できず、兄弟たちはヨセフがエジプトで出世する姿を認識できません。
人が認識できないところで神の計画が進んで行きます。悪巧みを働く者は自分たちだけが認識できていると考えます。神はその悪巧みすら用いて、救いの計画を起こします。その時わたしたちは、自分たちの小ささと神の大きさを知ります。イスカリオテのユダの裏切りも権力者たちの陰謀も、十字架と復活の救いを用意したに過ぎません。
「そしてヤコブは彼の衣服を引き裂き、粗布(を)彼の腰につけ、彼の息子について多くの日々嘆いた。そして全ての彼の息子たちと全ての彼の娘たちが彼を慰めるために奮起した。そして彼は慰められることを拒み、『私は私の息子のもとに降る。嘆かわしい。陰府へと』と言い、彼の父は彼を(悼み)泣いた。そしてメダン人たちは彼をエジプトへと売った。ファラオの宦官・死刑執行者たちの長であるポティファルのために」(34-36節)。
ヤコブにはディナ以外にも娘たちがいたことが初めて明かされます。ビルハやジルパが生んだ娘たちかもしれません。それらの娘たちも総出でヤコブを慰めます。彼ら彼女たちは全員ヤコブからの愛情に飢えていました。愛を得ることが動機でヨセフを亡き者にしようとしていたのです。ところが、その目的は果たされませんでした。父ヤコブは「唯一の息子ヨセフ」にしか関心がないので、一切の慰めを拒否します(エレミヤ書31章15節参照)。衣服を引き裂き、激しい悲しみを表し、粗布を身にまとって嘆くヤコブ。彼は毎日ヨセフを悼むだけであり、その他の息子や娘を顧みることはなかったのです。「死んだほうがましだ」とため息をつきながら、ヤコブは立ち直ることができません。
兄弟姉妹たちもこの結末にがっかりします。憎らしいヨセフがいなくなることは真の解決にはならなかったからです。父の愛情は公平に分配されず、かえって父に大きな打撃を与えてしまいました。誰かを愛する気力を父から奪ってしまったのです。しかも兄弟への殺人未遂と売り飛ばしという共犯の秘密をずっと抱え込む羽目にもなりました。排除の論理は誰も幸せにしません。
この時点で最も不幸な人物はヨセフです。ヨセフは王の最側近である宦官・死刑執行人の長ポティファルに売られます。17歳のヘブライ人ヨセフはエジプトの高級官僚の奴隷となりました。宦官は自ら生殖器を切り落とし、それゆえにファラオからの厚い信頼を得ている家臣です。当時の最強国家がヨセフを買ったのです。どん底からヨセフの出世物語が始まります。
今日の小さな生き方の提案は、人との比較をやめることです。ヨセフの兄弟姉妹たちは、常にヨセフと自分たちの比較をしていました。ヤコブが四人の妻を比較し、ただ一人を選んだからです。比較が競合を生み、競合が葛藤を生み、葛藤が憎悪を生み、憎悪が人権侵害を生みました。信仰によってわたしたちは人との比較をやめることができます。神は異なる人格として個々人を創られました。すべての人は「神の像」として尊重され愛されています。わたしたちはそのことを認識すべきです。あえて言えば、その他のことはそんなに認識・把握しなくてもよい。というのも「分かった」と思っても、神の計画への誤解であったり、理解不足であったりするからです。キリスト信仰は、「自分が何をしているのかわからずにした罪すらも一方的に赦されている」ということを、アーメンその通りと受け入れることです。