主が共におられ 創世記39章1-12節 2019年12月8日礼拝説教

「そしてヨセフはエジプトへと下らさせられた。そして、ファラオの宦官・死刑執行者たちの長・エジプトの男性ポティファルが彼を買った。彼をそこへと下らせたイシュマエル人の手から。そしてヤハウェがヨセフと共におり、彼は繁栄させる男性となり、彼は彼の主人・かのエジプト人の家にいた。そして彼の主人は、ヤハウェが彼と共にいることを見た。そして彼自身が行うこと全てを、ヤハウェは彼の手によって繁栄させる。そしてヨセフは彼の目の中に恵みを見出し、彼は彼に仕え、彼は彼の家について彼を任命した。そして彼に属する全てのものを彼は彼の手の中に与えた」(1-4節)。

 今日の箇所で「主(ヤハウェ)」という神が久しぶりに登場します(2節)。最後に神が登場したのは35章13節にまで遡ります。この間、ラケルの死、ルベンとビルハの性交渉(以上35章)、ヨセフへの暴行と人身売買(37章)、ユダとタマルの性交渉(38章)と暗い話題ばかりが続いていました。例外はエサウの子孫だけです(36章)。エサウの子孫の物語以外は、悲しい話題、悲惨な話題、目を背けたくなるような人間の現実が語られています。

聖書の真の主役は神です。聖書は神の歴史を綴っています。その主役をあえて登場させないことによって、世界の闇が語られます。闇の深い世界において、光は常に細い一条の線としてしか現れません。例えばラケルの死と引き換えに、ベニヤミンが生まれ、ヤコブの悔い改めが起こります。不祥事を起こしたルベンはヨセフの命を救う一助となります。罪深いユダもヨセフを救い、またタマルを保護し、悔い改めてペレツを育てます。神がいないように見える(暗示)、絶望が覆う現実世界にも、必ず希望の種や希望の芽はあります。

39章は絶望から希望が生まれることを明示しています。2節のヤハウェの登場がそのことを高らかに宣言しています。ヨセフが尊厳を剥ぎ取られ絶望の叫びを上げて、エジプトへと売り飛ばされた時、十字架の主もまた同じ叫びを上げて、共にエジプトへと下らさせられました。ヤハウェはヨセフと共にいたのです。「神が私と共にどこまでも歩まれる」という救いの出来事は、父ヤコブに約束されていました(28章15節)。父から遠く離されたヨセフが、ヤコブを継承しています。今日の鍵は、誰が誰と共にいるかということです。

エジプト人ポティファルはファラオの最側近の宦官です(新共同訳「宮廷の役人」)。出世のため、ファラオの信頼を得るため生殖器を切り落とした宦官は、優秀な能力をもった行政官です。新共同訳「侍従長」を、少し踏み込んで「死刑執行者たちの長」と訳しました。原意が「動物をほふり調理する人」だからです。他にも「料理長」「親衛隊長」などの翻訳可能性があります。いずれにせよ、ファラオの近くにいて、エジプトの治安に従事している行政官のトップ(大臣レベル)というイメージが大切です。なお、先週も申し上げましたが性的関係を持たない夫婦もありうると考えます。

自分自身優秀であるポティファルは、優秀な人を見抜く能力もありました。ヤハウェがヨセフと共にいることを見て取ったのです。慧眼です。後にエジプトのファラオは「ヤハウェとは誰か。なぜそのような神に従わなくてはいけないのか」と言いました(出エジプト記5章2節)。エジプト人にとってヤハウェは、眼中にない外国の神です。ポティファルにはそのような偏見はありません。透明な目で見て、ヨセフというヘブライ人奴隷がただ者ではないこと、その源にはヨセフのヤハウェ信仰があることを、見抜いたのでした。エジプトの言葉をヨセフは瞬く間に覚え、家の仕事もてきぱきとこなしたのでしょう。ポティファルはヨセフを「家の長」に任命します。筆頭執事、ポティファル家のナンバーツーです。ナンバーツーであることはヨセフの天職です。ヨセフは「(上司を)繁栄させる男性」だからです。

「そして、彼が彼の家の中および彼に属する全てのものについて彼を任命した時から、ヤハウェはかのエジプト人の家をヨセフのために祝福するようになった。そしてヤハウェの祝福がかの家と野における彼に属して存在する全てのものの中に起こり、彼は、彼に属するもの全てを、ヨセフの手の中に放置した。そして彼は――彼と共に――、彼が食べているパン以外は何も知らなかった。そして、ヨセフの姿は美しく、また見た目は美しくなった」(5-6節)。

新共同訳は6節「彼と共に」を訳しにくいので省きました。これはポティファルとヨセフの信頼関係を一言で示しています。新共同訳の8節「わたしを側に置き」も同じ表現なので、6節も訳出した方が良いでしょう。ヤハウェと共にいるヨセフと、ポティファルと共にいるヨセフ。どちらも一心同体です。ポティファルがヨセフを見る目はいつも温かく、ヨセフはヤハウェに仕えるようにポティファルに仕えていますし、ポティファルは自分所有の物も人もすべてヨセフに与えています。ポティファルは今食べているパンしか知らない。こういう形で主従相互の信頼が美しく描かれています。こうしてヨセフと共にいるヤハウェがポティファルとも共にいて家全体を祝福し繁栄させます。

「そしてこれらのことの後で、彼の主人の妻がヨセフに向かって彼女の目を上げ、言うということが起こった。『あなたは私と共に寝なさい』。そして彼は拒否し、彼の主人の妻に向かって言った。『見よ。私の主人は――私と共に――家の中のものを知らなかった。そして彼に属して存在する全てのものを彼は私の手の中に与えた。この家の中で私より大いなる者は誰もいない。そして彼には私より惜しむものは何もない。あなた以外は。あなたが彼の妻だから。そしてどうして、私がこの大きな悪を行うことができるか。また神に私が罪を犯すことができるか』。そして彼女が日々ヨセフに向かって語る時には、彼は、彼女のもとで寝ることや彼女と共にいることにつき、彼女に聞き従わないこととした」(8-10節)。

ヤハウェ・ヨセフ・ポティファルの三者が共にいる状況を苦々しく見ていたのが、ポティファルの妻でした。彼女は家の中のナンバーツーの地位を脅かされているように感じました。聖書には彼女がヨセフのことを好きだったとは書かれていません。愛情に基づく不倫や性欲に基づく誘惑ではなく、支配欲に基づくセクシュアル・ハラスメントが真の問題です。ここでは珍しく女性から男性へのセクシュアル・ハラスメントですが、ポティファルの妻は自分の地位を利用して、ヨセフを支配しようとしています。タマルがユダに仕掛けた策略のように、ポティファルの妻も策略をもってヨセフを陥れようとしています。彼女にはヨセフをナンバースリー以下に蹴落すという意図があります。

主人の妻に対する8-9節のヨセフの言葉は、興味深い事実を述べています。一つに、彼女がポティファルの唯一の妻であるということです。ヨセフの上にいるのはポティファルと彼女だけのようです。もう一つは、彼女が主人の所有物とは考えられていないということです。ポティファルは、ヨセフに自分の所有の人や物をすべて与えました。しかし、彼女だけは例外だとヨセフは言います。彼女が妻だからです。ここにポティファルの人物像が浮かび上がります。彼は、古代社会においては珍しく、妻を所有物とみなさない人物です。しかも一夫一婦制を採っているのです。自身が宦官という少数者であることから得られた平等思想であろうと推測します。もちろん二人の間には子どももいません。一対一で対等に向き合う夫妻のあり方をヨセフは尊敬していたと思います。父の妻たちの多さが兄弟間の葛藤の原因だったからです。

それだけにヨセフは大きな衝撃を受けます。なぜ尊敬する女性が、自分にこのような言葉を投げつけるのか。9節後半の言葉遣いにヨセフの混乱が見て取れます。ハラスメントを受ける者は意図的に混乱させられるのです。皮肉なことに、なぜ彼女がヨセフにひどい言葉を投げつけるのかの理由は、ヨセフ自身の言葉の中で明確に言われています。「この家の中で私より大いなる者は誰もいない」。ポティファル家に生じた、この新しい状況を、主人の妻は拒否して、ひっくり返そうとしているのです。

彼女は毎日「私と共に寝よ」とヨセフに言います。ヨセフとポティファルが共にいることを引き裂こうとしています。彼女と共にいることは、ポティファルと共にいるという信頼関係、また神と共にいるという信頼関係を破ることであるとヨセフは知っています。うんざりしながらヨセフは誰にも相談できずに彼女を無視することでしのいでいました。ポティファルに相談すべきか否か、ヨセフは悩みながらも日々の仕事に打ち込んでいました。

「このような日、彼が彼の仕事をするためにかの家へと来るということが起こった。そしてかの家の男性たちの一人も、そこに・かの家の中にいなかった。そして彼女は彼の服によって彼を捕まえた。曰く『あなたは私と共に寝なさい』。そして彼は彼の服を彼女の手の中に放置し、逃げ、外へと出た」(11-12節)。

誰も目撃者がいない日を狙って主人の妻は、ヨセフの服を掴みます。服が狙い目です。晴れ着が剥ぎ取られズタズタに引き裂かれた時も、また、ここで服がむしり取られた時も、ヨセフに不幸が訪れます。服を通じて37章と39章も鎖のように繋がっています。そして、主人の妻は自分がヨセフと共に寝たという決定的証拠を手にします。タマルと同じです。証拠を通じて38章と39章も鎖のように繋がっています。ヨセフは兄弟たちにも主人の妻にも裏切られます。ヨセフはユダと異なり、何も悪いことを行っていないのに、主人の妻に陥れられます。ポティファルとヨセフの強固な信頼関係は、この後崩れ去ります(19-20節)。ギリシャ語訳聖書は「主人」も「ヤハウェ」も同じキュリオスという言葉で訳します。この修辞もヨセフの悲劇性を深めています。主人ポティファルと共にという救いがなくなることは、主ヤハウェと共にという救いもなくなったのかと思わせるからです。

39章の悲劇は、読者に深刻な問いを突きつけます。やっと登場したヤハウェの神は、この時ヨセフと共にいなかったのだろうか。今までは、神なき世界の現実として割り切れたものが、39章2節以降はそのようにして諦めることができなくなります。神信仰を持ったあとの方が人生の不幸を受け止めにくくなるかもしれません。インマヌエルの神を知ったがゆえに、神が共にいないかのように感じられるのです。

しかし本末転倒してはいけません。ヤハウェが共にいたからヨセフはこの時罪を犯さないで神と主人と主人の妻に誠実な態度をとることができたのです。神と共に、神の前で誠実に生きる時にこそ冤罪を被ることがあります。そこで踏ん張って良心的に生き抜けるかが問われています。

今日の小さな生き方の提案は、ハラスメント体質という罪の誘惑から抜け出すことです。力を濫用して人を支配してはいけません。逆に自分自身がハラスメントを受けてしまったらどうでしょうか。ヨセフのように、自分は悪くないということを信じることです。自分にも非があったかもしれないと考えなくて良いのです。混乱させられてはいけません。相手の支配欲が真の問題です。わたしたちは神が共におられることを信じましょう。神信仰は、わたしたちに毅然とした態度を恵みとして与えます。そしてこの恵みが、わたしたちを悪から救い出します。陥れられた時も神の前で品位を保って生きましょう。