25 そしてヨセフはファラオに向かって言った。「ファラオの夢は一つだ。神がなしつつあることを、彼がファラオのために告げた。 26 七頭の良い雌牛たちは七年だ。そして七本の良い穂は七年だ。夢は一つだ。 27 そして彼女たちの後から上っている、貧弱で悪い雌牛たちは七年だ。そして七本の細くて東風で焼かれた穂は、七年の飢饉となる。 28 ファラオに向かって私が語った言葉は、『神がなしつつあることを、彼はファラオに見せた』だ。
ヘブライ語には、英語で言うBE動詞がありません。普通は「AはBだ」を表現するのに動詞を置きません。たとえば、詩編23編1節の口語訳は、「主はわたしの牧者であって、」ですが、ここには「であって」という言葉はありません。新共同訳は「主は羊飼い。」としています。「AはB」で止めて「だ」の部分がない。これで自然なヘブライ語です。こういった文に出くわした時に、今まで私はなるべく「だ」を付けないか、あるいは「(だ)」というようにカッコにくくるかして翻訳をしてきました。
今回の私訳は「だ」をあえて付けています。その理由は、「繋辞表現」という特別に強調する言い方をヨセフがしているからです。代名詞(彼は/彼女は/彼らは/彼女たちは)を用いて、AとBという二つの名詞を繋ぐので、繋辞と呼ばれます。強く翻訳するならば「AこそBなのだ」です。たとえば、列王記上18章39節「主こそ神です」(新共同訳)/「主が神である」(口語訳)に、繋辞表現が用いられています。今回は「だ」に統一して翻訳しました。25-28節に、この繋辞表現の「だ」が6回も使われています。この短い部分に6回の登場は、著しい特徴です。
聖書研究の基本は繰り返される単語や表現に注目することです。そこに著者の、あるいは話者の(この場合はヨセフ)強調があるからです。それを重視した読み解きが基本です。
ファラオの夢について、ファラオ自身の感想も入り混じった説明を聞いて、しばらくヨセフは考え込みました。ファラオの家臣たちも固唾を飲んで見守っています。その中にはもちろんポティファルも、献酌官たちの長もいます。そしてヨセフは口を開きます。その声は大きく、早口で一気にまくしたてます。非常に強い力を込めて、ファラオの夢を解釈していきます。第二言語を駆使して、渾身の力を振り絞って力説するヨセフ。私たちは、口角泡を飛ばして、一所懸命に大声を張り上げ身振り手振りを使って相手を説得しようとしているヨセフの姿を想像することができます。一世一代の大舞台です。
二つの夢は一つである。または別訳「同じである」。これは解釈の大きな方針です。ではなぜ二つあるのかについては、ヨセフは後で説明をしています(32節)。理由については明らかにしないまま、とりあえず話し始めています。この辺りにも、早口で話している感じが出ています。「七頭」と「七本」で七が共通しています。ここに着目してヨセフは一つのことだと考えたのでしょう。もし一つであるならば、二つそれぞれの解釈は不要となります。その代わりに、一つのことと考えるならば雌牛と麦の穂に共通することが何かを考える必要があります。
雌牛と麦の穂の共通することは収穫です。牛乳・チーズ・バターの象徴が雌牛です。パンやビールの象徴が麦の穂です。ヨセフは、二つは収穫のことを指すと解釈します。七は七年と解釈します。献酌官たちの長・調理官たちの長の夢でも数字は期間を示していました(三日)。こうして、良い七年は豊作の期間、悪い七年は飢饉の期間ということが導かれます。
27節までを一気に話した後、28節でヨセフは一息つきます。「ファラオに向かって私が語った言葉は、『神がなしつつあることを、彼はファラオに見せた』だ」(28節)。これは25節の言葉を繰り返しています。「神がなしつつあることを、彼がファラオのために告げた」(25節)。28節に新しい内容はありません。25-27節で夢解釈の大枠を語り、28節で息を整え、29節以降で細かい描写や語り漏らした部分を埋めていくのです。痩せた雌牛の体型はなぜ痩せたままなのか。なぜいつの間にか太った雌牛は消えたのか。なぜエジプト全土で見たこともないような外観なのか。なぜ一つの出来事について二つの夢を見たのか。これらの細かい疑問に、落ち着いた口調でヨセフは答えていきます。
29 見よ、七年が来つつある。大きな豊かさがエジプトの全ての地に(ある)。 30 そしてそれらの後に飢饉の七年が起こり、全ての豊かさはエジプトの地で忘れられ、かの飢饉がかの地を食い尽くす。 31 そしてかの豊かさはその後に続くかの飢饉のゆえにかの地で知られなくなる。なぜならそれが非常に重いから。 32 そしてかの夢がファラオに向かって二度繰り返されたことについては、かの出来事が神によって堅くされつつあることによる。そして、神はそれを実行することを急ぎつつある。
痩せた雌牛の体型が痩せたままの理由や、太った雌牛がいつの間にか消えた理由は、飢饉の方が豊作を上回るという意味に解釈されます。豊かさは忘れられ、知られなくなるのです。悪しき飢饉が、良きエジプトの地を完全に食い尽くします。ファラオは醜い雌牛を、「エジプト全土で今まで見たことがないほどの醜さ」と形容しました。それは、この飢饉の被害規模がエジプト全土に渡るということを意味します。飢饉はエジプトを食い尽くすのです。
一つの出来事を二回見た理由は、その出来事が神によって確実に起こされつつあるからだと説明されます(32節)。しかもその出来事を起こすことを、神は今急いでいるというのです。それはつまり、少年時代にヨセフが二回見た夢が示す出来事は、神によって確実に起こされるということでもあります。父母・兄弟姉妹が、ヨセフを拝む日が必ず来る、そのことの実行を神は今急いでいるのです。32節は神の行動について現在進行形を使っています。
「見よ、七年が来つつある」(29節)。29節も32節と対応して、同じ現在進行形が使われています。今、その七年は始まっています。次の収穫から豊作の七年が開始されます。それはすなわち七年後から飢饉の七年が始まるということです。準備の期間は6年ちょっとしかありません。
ファラオは、ヨセフの解釈の整合性、矛盾なく説明しきれていることに舌を巻きます。自分がうっすら考えていたことを、ヨセフは明確にして言葉にしました。そしてそれゆえに、ファラオは新たな疑問を抱きます。では飢饉の七年によってエジプト全土が食い尽くされた時に、どのように生きることができるのか。その災害を予防する手段はないのか。手をこまねいて被災するだけしかないならば、神はなぜファラオに夢を通して未来の災害を予告したのか。ファラオの不安を察しているヨセフは、すかさず新しい提案をします。「神はファラオに平和を告げた」とヨセフは予め言っています。ヨセフは、この状況から救いの福音を語らなくてはいけません。
33 そして今ファラオは明敏で知恵のある男性を見るように。またエジプトの地の上に彼を置くように。 34 ファラオは行うように。またかの地の上に管理官たちを任命し、かの豊かさの七年のうちにエジプトの地(の産物)を五分の一徴収するように。 35 そうすれば彼らは、これらの来つつある良い年々の全ての食糧を集め、ファラオの手の下に穀物――町々における食糧――を蓄え、保管し、 36 かの食料がかの地のための備蓄になる、エジプトの地に起こる飢饉の七年のための。そしてかの地はかの飢饉によって断たれない。」
ヨセフの提案は、新しくこの課題にとりくむ飢饉対応担当大臣を任命することに始まります。そして、大臣のもとに新しく行政組織(飢饉対応省)をつくり、エジプト全地に飢饉対応の行政官を張り付けます。この行政官たちによって増税と備蓄の実務を行わせるのです。全ての町に大きな倉庫を作ります。豊作の七年の間に、食べ物を無駄に捨ててはいけません。腐らない食べ物(穀物)を、その倉庫に蓄えておくのです。そうすれば、飢饉が来ても対応することができません。飢饉がエジプトの未来を断つことは避けられます。
最高権力者ファラオの前で、ヨセフは「指示形」という命令の一種を4回も用いています(33-34節。「~するように」)。これも著しい特徴です。自分の提案に強い自信をもって、力強い口調でヨセフは大胆に語っています。いつファラオに処刑されるか分からない「王の囚人」が、ファラオに説教をしています。神の霊がヨセフを強め大胆な態度を授けているのです。こんな言葉をこんな口調で語れば殺されるかもしれません。しかしヨセフは語らずにいられません。これは神が与えた最後の好機だからです。
国家権力というものは使うためにあります。もちろん権力は濫用されてはいけません。濫用されがちなので現代においては憲法という縛りがあることは今や人間社会の常識となりました。古代社会において、権力が適切に使われるか否かは専ら権力者の資質によりました。ヨセフは「明敏で知恵のある男性」を見なさいと言っています。これはどう考えても自己推薦です。「見る」(ラー)は、「理解する」「認める」という意味で、「見つけ出す」という意味ではありません。ファラオは新たに優れた人物を探し出す必要はない。ヨセフはファラオの面前で、「目の前にいる自分が、今求められている明敏で知恵のある男性であることを、あなたは見て取り・理解し・認めよ」と迫っています。
「私こそ、この飢饉対応ができる男性だ。全国に配置された管理官を統括・指揮して、景気の良い時に増税をし人件費と公共事業にあて、倉庫を全ての町に建設させ、一年の穀物消費量を把握し、毎年必要な分を倉庫に備蓄し在庫管理をすることができる。そのために王が持っている国家権力を、私に一部預けてほしい。国家の中にいる人を助けるために、ふさわしい人の手によって国家権力は用いられるべきだ。私をエジプトの地の上に置いてほしい。そうでなければこの世界最強のエジプト国家も、飢饉によって切り落とされるに違いない。それは常に列強でありたいファラオにとって外交的にも不幸だ。私を任命し私の提案を実際の政策として実行すれば、ファラオに平和が訪れる」。
今日の小さな生き方の提案は、大胆に生きるということです。「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」(フィリピの信徒への手紙4章13節)。ヨセフは初めて聞く他人の夢を解釈し、その場で新たに提案を付け加え、ぬけぬけと自己推薦して人生を切り開きました。よくもそんなことができるものだと感嘆します。頭が真っ白になってしどろもどろになって、再び囚人になるか、あるいは処刑されるかもしれない状況です。彼はファラオの前で腹をくくりました。結果については神に委ねながら、自分の持てる力を最大限に発揮しました。神に委ねるとは何もしないということではありません。腹をくくる場面は人生にたくさんあります。大胆に何かをなしつつ、結果を神に委ねる。そういう人を神は強めてくださいます。Empowerする神によって、わたしたちは何でもできます。