1 そしてヤコブは穀物がエジプトに存在することを見、ヤコブは彼の息子たちに向かって言った。「なぜあなたたちは互いを見ているのか」。 2 そして彼は言った。「見よ、私は聞いた、穀物がエジプトに存在することを。あなたたちはそこへと下れ。そしてあなたたちは私たちのためにそこから買え。そうすれば私たちは生きる。そうすれば私たちは死なない」。
飢饉はエジプトだけではなく、東地中海世界全域に広がりました。七年間もの長い期間、作物が取れなくなりました。ヤコブ一家が住んでいるカナンの地、現在のパレスチナ地域でも作物が取れません。羊を飼うヤコブ一家にとっても、一家存亡の危機です。羊毛を売ったお金で、小麦粉を買うことができなくなったからです。「このままでは家族全員が飢え死にする」と家長のヤコブは危機感を募らせていました。だから、必死に情報収集を図ります。取引先の商人、貿易商に、どの地域に食物が存在するのかを尋ねるのです。
「穀物がエジプトに存在するということを見た(1節)/聞いた(2節)」とあります。どちらも同じことがらです。ヤコブは、積極的にさまざまな地域を行き交う商人たちから聞き取り調査をしています。また、町中の噂話に耳をそばだてています。古代社会の噂は、かなりの速さで行き渡り、しかも情報として正確だったと言われます。ヤコブは、エジプトに穀物が存在することを聞きつけ、その情報の正しさを確信したのです。それが「聞いた」ということであり、現地に行っていないのにもかかわらず「見た」ということなのです。ヤコブは瞼の中で、穀物が溢れているエジプトを見ることができました。
ところが十一人の息子たちは、エジプトを見ようとしていません。彼らは互いを見合っているだけです。離れて暮らしているユダもこの中には入っています。息子たちは自分たちの狭い世界の中に解決を探しています。カナンの地で、どうにかして穀物や小麦粉を手に入れる算段や、いかに節約して生きるかについて話し合っているのです。ヤコブは息子たちを叱りつけます。「エジプトを見よ」。アラムへ独り旅をしたことがあるヤコブの真骨頂です。
エジプトには穀物が存在し、穀物を売っている。危険な長旅であっても、また、エジプト語ができなくても、初めて行く土地であっても、冒険してエジプトに行くべきだ。そしてエジプト産の穀物を買うべきだ。それが唯一の生き延びる道だ。座して死を待つべきではない。前へ進め。
32章以降、足を引きずるようになってからヤコブという人物が弱々しくなったと考える人もいますが、決してそんなことはありません。族長としてヤコブは大きな方針を指し示しています。
3 そしてヨセフの兄弟たち十人は、エジプトから穀物を買うために下った。 4 そしてヨセフの兄弟ベニヤミンを、ヤコブは派遣しなかった、彼の兄弟たちと共に。なぜなら彼が言ったからだ。「危害が彼に遭わないように」。 5 そしてイスラエルの息子たちは穀物を買うために来た、(エジプトに)来ている人々の真ん中で。というのも、かの飢饉がカナンの地で起こったからだ。
ここでヤコブは相変わらずの行動に出ます。まったく人間としての成長が見られない振る舞いです。それはベニヤミンへの依怙贔屓です。ヤコブは十一人の息子たち全員にハッパをかけて「エジプトへ行け」と言ったにもかかわらず、末息子のベニヤミンだけをエジプトに行かせないのです。
ヨセフが兄弟たちにエジプトに売り飛ばされた原因は、ヤコブからヨセフへの偏愛・依怙贔屓でした。ヨセフがいなくなれば父ヤコブの愛情は等しく他の兄弟姉妹に分配されると、彼ら彼女たちは考え、ヨセフを排除したのでした。ヨセフに暴行を加えた上でミディアン人に売り飛ばしたのです。しかし、それは問題解決になりませんでした。ヤコブはヨセフの不在(死んだという思い込み)を嘆くだけで、ヨセフへの愛情はその他の子どもたちへの愛情には変換されなかったからです(37章の結末)。
嘆くヤコブがその後どうなったかが、今日の箇所から推測されます。彼の愛情は、ベニヤミンという末息子に注がれることになりました。ベニヤミンがヨセフと同じ母親を持っているからでしょう。「ラケルの息子は偏愛される」という不公平なルールが一貫しています。ここでは十人の兄たちも、弟ベニヤミンも「ヨセフの兄弟」として紹介しています(3・4節)。物語作者は兄弟たちそれぞれの四人の母親について、また兄弟たちの生まれ順について無頓着です。神が等しく扱っている十一人の兄弟たちを、ヤコブだけが等しく扱いません。ここにヤコブが変わっていないということがあぶり出されています。
もう立派に成人しているベニヤミンに対しても全然ためにならないことをヤコブは行っています。十人の兄たちは、完全に諦めているのでいつものようにがっかりしながら、父ヤコブの指示に従い、十人だけでエジプトに向かいます。
ヤコブという人は、神が名前をイスラエルと変えた後も、あまりイスラエルと呼ばれない人です。アブラハムと比べると奇妙な現象です。アブラハムはアブラムから名前を変えられた後は一度も旧名アブラムと呼ばれません。珍しいことに5節でヤコブはイスラエルと呼ばれています。その理由はエジプトにあります。イスラエルという民が、後にモーセに率いられてエジプトから脱出するからです。ヨセフ物語は、イスラエルという民がなぜエジプトにいるのかを説明する、長大な原因譚です。読者に、そのことを気づかせようとするとき、物語作者はヤコブをイスラエルと呼びます。「イスラエルの息子たち」が、穀物を買うためにエジプトに来て、そのまま居着いてしまった。それが出エジプトの大前提となります。多くの民がエジプトに来ています。しかし、その真ん中・中心はイスラエルの息子たちです。なぜなら、後にその他の民の救いの先駆けとしてイスラエルが出エジプトを果たすからです。
6 そしてヨセフはかの地の上の統治者である。彼がかの地の民の全てのために穀物を売っている者(である)。そしてヨセフの兄弟たちは来、彼のためにひれ伏した、鼻を地面へと。 7 そしてヨセフは彼の兄弟たちを見、彼らを認識し、彼らに向かって外国人のふりをし、彼らに厳しく語り、彼らに向かって言った。「どこからあなたたちは来たのか」。そして彼らは言った。「カナンの地から。食物を買うために」。 8 そしてヨセフは彼の兄弟たちを認識した。そして彼らは彼を認識しなかった。 9 そしてヨセフは、彼の兄弟たちのために見た夢々を思い出し、彼らに向かって言った。「あなたたちは偵察(だ)。かの地の裸を見るためにあなたたちは来た」。
ヨセフはエジプト全土を統治する総理大臣です。そして、飢饉対応担当大臣も兼務しています。穀物の備蓄・流通・販売・管理の最高責任者です。奇妙なことに、カナン地方から来た十人の男性は、エジプトの最高権力者と直接会うことが許されます。こんなことがおよそありえるでしょうか。例えば日本に来た難民が、安倍晋三総理大臣に自分の要求を直接会って言うことができるでしょうか。不自然です。
飢饉がエジプトだけではなく広い地域で起こっていることをヨセフも知っています。カナン地方から自分の家族が穀物を買うためにエジプトに来るかもしれないということを、ヨセフは予測していたのではないでしょうか。「エジプト語のできないカナン人が穀物を買いに来たら、首都の飢饉対応省まで通すように。自分が直接売買をしたい」。ヨセフは各地の飢饉対応課に通達をしていたのかもしれません。この条件を満たす人々は大勢いたことでしょう。家族との再会を果たすために、ヨセフは飢饉対応のためのネットワークを用います。
案の定、十人の兄たちがこの網に引っかかります。「エジプト産の穀物をカナン人の私たちに売ってください」と、町役場に訴える人が中央政府に連れて行かれます。そうしてヨセフのもとに十人の兄たちがたどり着きます。ヨセフはエジプト人のふりをします。エジプトの髪型、エジプトの服装、エジプトの言葉を用いて、ヘブライ人要素を隠します。あえてエジプト語・ヘブライ語の通訳をつけて、自分の兄弟と話し合いを始めるのです。実に20年ぶりの再会です。いなくなった弟に、兄たちは探され、弟との再会を果たします。放蕩息子の例え話とまるで逆です。まさか弟がエジプトの総理大臣になっているとは思いません。ヨセフが復讐をするのかどうか、物語の緊張は高まります。
兄たちはヨセフであると認識できずにひれ伏します。土下座のポーズです。鼻を地面にこするようにして拝んでいます。ヨセフは兄たちを認識しています。探していたのですから当然です。ヨセフはあえてエジプト語で「どこから来たのか」と問います。通訳は、それをヘブライ語に直します。兄たちは「カナンから。食物を買うため」と答え、通訳はそれをエジプト語に直してヨセフに伝えます。以下そのようなまどろっこしい対話が続きます。
ヨセフは昔見た二つの夢を思い出します(37章)。夢は複数形で書かれています。十一の束が礼拝した夢、十一の星と太陽と月が礼拝した夢、どちらもヨセフは思い出しました。そこでヨセフは「おや」と思うのです。ここにはルベン以下の十人の兄たちしかいません。最初の夢によれば、十一人の男兄弟全員が土下座して自分を拝むはずです。また次の夢によれば、十一人の男兄弟全員と父ヤコブと、三人の母親を代表するレアが自分を拝むはずです。この二つの夢/預言の実現は完了していないということにヨセフは気づきます。
もしかすると父ヤコブはすでに死んでいるのか。生きているとすればなぜ来ないのか。弟ベニヤミンもなぜいないのか。自分と同じように兄たちに売り飛ばされたのか。どうすれば夢/預言は完全に実現するのか。実現させるべきなのか、それとも実現しないままの方が良いのか。自分には復讐をする権利も、権力もある。この兄弟たちをこの場で処刑することが、あの夢の続きとして神に求められていることなのか。
鼻を床にこすりつけてひれ伏す兄弟たちを見ながら、ヨセフは頭を回転させます。通訳による対話が考える時間を与えてくれます。そしてヨセフは真の関心事に気づきます。それは、「加害者である兄弟が被害者である自分にかつてしたひどいことを今どのように考えているのかを知りたい」ということです。悔い改めているのか、忘れているのか、自己正当化しているのか。それによって結論を変えれば良いでしょう。「お前たちは最強国家エジプトに潜伏偵察に来たにちがいない」という冤罪は、兄弟の本心を探るための言葉です。ヨセフは、兄弟の良心を吟味したかったのです。
今日の小さな生き方の提案は、神の前に土下座し(礼拝し)、自らの良心を神によって吟味されることです。ヨセフの兄弟たちほどのひどいことをした人はいないかもしれません。しかし、心の中で憎いと思っただけでも殺人と同じだとイエスは言いました。その意味ですべての人は罪人です。その罪は結局イエスを十字架につけたものと同種です。神は私たちを網にかけて捕まえ、ご自分の前に集めます。私たちは小さな罪をもこの神の前にさらけ出します。贖い主の赦しを信じて、この痛い作業を礼拝の中で行いましょう。