ヤコブとユダ 創世記43章1-14節 2020年3月15日礼拝説教

1 そしてかの飢饉はかの地で重い。 2 そして彼らがエジプトから持って来た穀物を食べ終えたと同時に、彼らの父は彼らに向かって言った。「あなたたちは戻れ。あなたたちは私たちのために少しの食べ物を買え」。 

エジプトで買った小麦が尽きたと同時にヤコブは息子たちに「再びエジプトに行け」と命じます。「シメオンを見殺しにしてベニヤミンを温存する。それまでの間に飢饉が収まれば良い」とヤコブは考え、九人の息子たちの提案を却下していました。にもかかわらず、もう一度エジプトに行けとは何事でしょうか。判断のミスです。九人を代表してユダが猛然と反論をします。

3 そしてユダは彼に向かって言った。曰く、「かの男性は私たちに厳しく警告した。曰く『あなたたちの兄弟とあなたたちが共に(いること)なしに、あなたたちは私の顔を見ることはない』。 4 もしあなたに私たちの兄弟を私たちと共に遣わすことが(意志として)存在するなら、私たちは下りたい。そして私たちはあなたのために食べ物を買いたい。 5 そしてもしあなたに遣わすことが(意志として)存在しないなら、私たちは下らない。なぜならかの男性が私たちに言ったからだ。『あなたたちの兄弟とあなたたちが共に(いること)なしに、あなたたちは私の顔を見ることはない』。」 

 「厳しく警告した」という表現は「警告し警告した」という強調表現です。ユダが力を込めて口角泡を飛ばしながら反論している様子が分かります。「エジプトの総理大臣(ヨセフのこと)の恐ろしさを知らないから、あなたは勝手なことを言っている。現場の苦労を知れ」という気持ちでしょう。もしもベニヤミンを連れずにエジプトに行っても、少しの食料も買うことは許されないでしょう。また国境から首都へと移送され、なぜか自分たちだけは総理大臣から直接顔と顔とを合わせて買わなくてはいけないのですから。ベニヤミン無しでは「偵察である」と認定され、全員処刑されてしまいます。父ヤコブに愛息ベニヤミンをエジプトに行かせる意志があるかないかだけが問題です。

6 そしてイスラエルは言った。「なぜあなたたちは、かの男性に告げることで、私に悪くしたのか。まだあなたたちに属する兄弟が(いる)のか」。 7 そして彼らは言った。「かの男性は私たちと私たちの親族に(ついて)詳しく問うた。曰く『まだあなたたちの父親は生きているのか』、『あなたたちに属する兄弟は存在するのか』。そして私たちはこれらの言葉に応じて彼に告げた。『あなたたちはあなたたちの兄弟と共に下れ』と彼が言うということを、私たちは確かに知りうるだろうか」。 

 ヤコブ別名イスラエルは息子たちの総理大臣への対応を非難しはじめます。「まだあなたたちに属する兄弟が(いる)のか。ベニヤミンは自分のものだ。あなたたちには属さない」。

 この父親の言葉に九人全員が猛反発します(「彼らは」7節)。またもや3節と同じ強調表現が二回繰り返されています(「詳しく問う」「確かに知る」)。「エジプトの総理大臣の尋問の仕方を知らないから、そんな責任転嫁ができるのだ。『父親が生きているのか、あなたたちに属する兄弟がいるのか』と、一々聞かれた。これに逐次答えないという選択肢はない。偵察の疑いがかけられた上での一問一答形式の尋問なのだから。この時点で『ベニヤミンを連れて来い』と言われることを予測できるわけがない。現場の苦労を知れ」。

 さて、この場にはベニヤミンがいたことが8節のユダの言葉で示唆されています。先週の場面はエジプトから帰ってきた報告だったのでベニヤミンはいません。しかし今週の場面は一族全体の会議です(2節「彼らに」)。レアやビルハやジルパといったヤコブの三人の妻も同席していたかもしれません。さらにヤコブの娘たちや(ディナも)、十一人の息子たちの妻も(シメオンの妻も、ユダの妻タマルも)そうです。全員ベニヤミンへの依怙贔屓を知っています。レアやシメオンの妻は、ひときわ厳しい視線をヤコブに向けています。ヤコブは家族からの集中砲火・冷たい視線を浴びて一言も反論できずに黙ってしまいます。雄弁で交渉上手の「完璧な男性」ヤコブにしては珍しい状況です。

8 そしてユダはイスラエル彼の父に言った。「あなたはその若者を私と共に遣わせ。そうすれば私たちは立ち上がり、行き、生きる。そうすれば私たちもあなたも私たちの小さな者も死なない。 9 私、私こそが彼の保証人となる。私の手からあなたは彼を求めよ。もしも私があなたのもとに彼を連れて来なかったならば、またあなたの面前に彼を見せなかったならば、私は全ての日々あなたに罪(罰)を負う。実際私たちがためらっていなければ、実際今ごろ私たちはこれを二度行うことができた」。

依怙贔屓されているベニヤミンとその家族にとっても辛い状況です。わたしはベニヤミンもヨセフ暴行・誘拐の場面に居合わせていて、消極的に賛成・黙認していたと思っています。ヤコブ物語でベニヤミンは一切言葉を発しません。兄ヨセフがいなくなった後も、ベニヤミンは板挟み状況を黙って巧妙に立ち回っています。ヤコブが死の間際に「ベニヤミンは咬みさく狼」と称している通り、彼は忖度ができる世渡り上手です(49章27節)。空気を読めないヨセフと異なります。後の歴史でベニヤミン部族が最初北の十部族に入りながら、南ユダ王国(ユダ部族)に自然合流していることと似ています。 

 黙り込むヤコブ別名イスラエルにユダがとどめを指すのですが、ユダの発言を後押ししたのはベニヤミンの意志だと推測します。その場で目配せなり合図をして「自分もエジプトに行く」と伝えていたと思います。一族全体の危機をベニヤミンも共有しています。ここで同行しなければ兄弟たちから袋叩きになるでしょう(士師記19-21章参照)。なお長男ルベンはビルハが居る前では何も語ることはできません(35章22節)。次男シメオンはエジプトで人質、三男レビは、剣を常備するほど腕っ節は強いけれども口下手です(34章)。こうしてユダは完全に「長男」の地位に上り詰めます。

 ユダは目の前にいるベニヤミンを「その若者」と呼びます。ベニヤミンも30歳代ですから若者とは言えませんが、これは愛称のようなものです。末っ子が英語で常に「(親にとっての)赤ん坊Baby」と呼ばれるのと同じです。ユダは父ヤコブの心情も汲み取りながら一族全体の長にふさわしい言い方をします。「私たちも、あなたも、私たちの小さな者たちも死なない」。シメオンのみを犠牲にするのでもなく一族全員が生きる道、特に災害弱者と呼ばれる小さな者たち(その中には目の悪い母親レアも含まれる)も生きる道は、十人でエジプトに行って自分たちが偵察ではないことを証明し、小麦を買うことです。

 ユダはルベンから学んだ単語を使って説得します。それは「(宗教的な)罪と罰を負う」という言葉です(9節、42章22節参照)。ユダはヨセフを殺すことに反対でした。ユダの発案で妥協策としてヨセフをエジプトに売り飛ばすことになったのでした(37章26-27節)。ルベンはその妥協的行為すらも「神の前では罪だ」と言いました。この言葉はユダに突き刺さります。もう二度とヨセフにしたのと同じ悪事を行わないことを、ユダは神に誓っています。自分が売り飛ばされるべきだったとまで思いつめているのです。

ルベンは自分の二人の息子を死なせる覚悟も示しました(42章37節)。それに対しユダは自分の二人の息子の命については何も語りません。双子の息子を生んだタマルに対して行った悪事を悔い改めているからです(38章)。タマルを前にして二人の息子を犠牲にささげるとは言えません。ユダが今度こそ子どもたちにとって良い父親になろうとしているからです。罪を深く認めながらもルベンとは結論が異なります。自分の罪は自分だけが負うという覚悟を、ユダは身に付けています。「自分がベニヤミンの保証人となる、ベニヤミンの身代わりになるのは自分だ、自分の子どもでもない、シメオンでもない」と言っています。これこそ族長にふさわしい発言です。そして最後にユダはヤコブの判断ミスを批判します。「あなたが時間を空費した」。政治は結果責任です。

10 そしてイスラエル彼らの父は彼らに向かって言った。「もしもその通りならば、それではこれをあなたたちは行え。あなたたちはその地の特選品からあなたたちの入れ物の中に取れ。そしてあなたたちはかの男性のために贈り物(を)下らせよ。少しの乳香と少しの蜜、香料と没薬、ピスタチオとアーモンド(を)。 12 そして二倍の銀(を)あなたたちはあなたたちの手の中に取れ。そしてあなたたちの袋の口に戻されている銀をあなたたちの手であなたたちは返せ。多分それは間違え(だ)。 13 そしてあなたたちの兄弟をあなたたちは取れ。そしてあなたたちは立ち上がれ。あなたたちはかの男性のもとに戻れ。 14 そうすればエル・シャッダイがあなたたちのためにかの男性の面前で憐れみを与え、あなたたちのためにあなたたちの他の兄弟とベニヤミンを派遣するだろう。そして私、私こそが、(かつて)子無しとなったのと同様に、(またもや)子無しとなった。」

 ヤコブ別名イスラエルは完全に説得されました。自分の判断ミスも苦々しげに認めました。ただ苦し紛れにいつもの処世術だけを伝授しています。兄エサウを宥めるために使った贈り物です(32章14節以下)。エジプト人に喜ばれる物を選りすぐって贈ろうというのです(37章35節参照)。またエジプト国家による陰謀に対する予防策として二倍の銀を支払うように指示します。これらの条件付きでベニヤミンの同行を認めます。

 「シャッダイ」という神の名前はヤコブ物語に5回も登場します。シャッダイは「全能」と伝統的に翻訳されていますが意味は不詳です。むしろ「野」や「乳房」が原意でしょう。特にヤコブ物語では、子孫が増えることと関連付けて登場しているので「乳房の神」という意味が良いと思います(49章25節)。一族の危機にあたって子のいない夫婦アブラハム・サラへの子孫繁栄の約束を思い出しながら(17章1節)、ヤコブはシャッダイに期待を寄せます。

 敬虔なようでいてヤコブには成長がありません。ヨセフの失踪で子無しになったと言い、ベニヤミンの派遣で今また子無しになったと言います。他の息子たち・娘たちを前にしても相変わらずの依怙贔屓です。今もってベニヤミンだけ名前で呼んでいます。シャッダイへの期待は悔い改めを伴っていません。

 今日の小さな生き方の提案はヤコブではなくユダに倣うことです。ユダは37章と38章で犯した罪を悔い改め、新しい生き方へと方向転換をしています。タマルの言葉やルベンの言葉が、ユダを成長させています。「私よりも彼女の方が正しい」(38章26節)。優しくて頭は良いけれども無責任だったユダが全体のために腹をくくります。逃げたい時は誰にでもあります。状況のせいにしたくなる時もあります。そういう時に神への敬虔や隣人への誠実が問われます。今まで犯した罪に対する悔い改めを糧にしてきたのか。今も霊的に成長し続けているのか。苦い経験を生かしたユダに倣いたいと思います。

礼拝とは生き直しの場です。「生きよ」という神の祝福を受けて、日常生活とは異なる角度から新しい生き方のヒントを得て、悔い改めて生きる。翻って生きるのです。この積み重ねが霊性・人格を成長させます。