ヨセフの家で 創世記43章15-25節 2020年3月22日礼拝説教

15 そしてかの男性たちはその贈り物を取った。そして二倍の銀(を)彼らの手の中に彼らは取った、またベニヤミンとを。そして彼らは起き、エジプト(に)下り、ヨセフの面前に立った。 

 ユダはヤコブを説得しました。ヤコブの助言にも従い、贈り物と二倍の銀を持って、そして末弟ベニヤミンを連れて、兄弟たちはエジプトへと戻ります。物語の筆運びは、アブラハムがイサクを連れてモリヤの山に向かう情景を思い起こさせます(22章)。さしずめ、ヤコブは留守番のサラの役回りです。九人の兄たち、特にユダがアブラハムの役割を務めます。いやユダはベニヤミンに何かがあれば自分が責任を負うと言っているので、ある意味イサクの役回りでもあります。ユダの姿に十字架のイエス・キリストが重なります。

 彼らは相当の覚悟をもって、再びエジプトの総理大臣に会います。まず贈り物を捧げ、以前の銀を返さなくてはいけません。そしてベニヤミンを見せて自分たちが偵察ではないことを証明しなくてはいけません。そうすればシメオンを釈放してもらえるでしょう。その後、今回の小麦の購入交渉に進みます。かなり緊張する場面です。「面前に立った」とあります。「前に」という前置詞を分解すると「顔の前に」とあります。「立つ」(アマド)は対峙するような意味合いです。実際にはヨセフの前にひれ伏していたと思いますが、気持ちは「顔と顔とを合わせた対峙」です。一族の未来がかかっているからです。

16 そしてヨセフは彼らとベニヤミンとを見、彼の家の上にある者に言った。「あなたはかの男性たちをかの家へと連れて行け。またあなたはほふるべきものをほふれ。またあなたは準備せよ。なぜならかの男性たちは私と共に正午に食べるのだから。」 17 そしてかの男性はヨセフが言ったとおりに行い、かの男性かの男性たちをヨセフの家へと連れて行った。 

 ヘブライ語本文は「彼らと共なるベニヤミンを見」とありますが、ここはサマリア五書・ギリシャ語訳にならって、「彼らとベニヤミンとを見」ととります。ヨセフが見た者は、決してベニヤミンだけではないからです。ヨセフはヤコブの家族会議でどのような議論がたたかわされたかを推測し、認識しています。シメオンを人質にしたにもかかわらず中々エジプトに戻ってこなかった理由は、おそらくベニヤミンをヤコブが出し渋っていたからです。しかし飢饉が収まらないので、九人がヤコブを説得し、ベニヤミンを連れ、シメオンの解放も目指し、再び小麦を買いに来たのでしょう。場合によってはベニヤミンも自らエジプト行きを志願したかもしれません。ヨセフは、十人の兄弟の信実を見ました。また、この間のシメオンの態度にも誠実な悔い改めを確認しています。シメオンも含めてヨセフは「かの男性たちをかの家(自宅)へと連れて行け」(16節)と命じています。

 物語話者もヨセフに歩調を合わせて、15・17・18・24節で「かの男性たち」とヨセフの兄弟を呼んでいます。今まであまり使われていなかった表現ですが、この場面は「かの男性たち」(ハ・アナシム)が多く用いられています。この言葉は「男性/人間/各人」を意味するイシュの複数形です。そして単数形イシュもまた、この場面で特定の人物のために何度も用いられています。「ヨセフの家の上にある者」(16節。新共同訳「執事」)です。彼が「かの男性」(17・19・24節。ハ・イシュ)と呼ばれています。この場面は、ヘブライ人である「かの男性たち」と、エジプト人である「かの男性」が類比されています。この両者をつないでいるのは、ヘブライ人でありエジプト人であるヨセフです。ヨセフも先週の箇所では「かの男性」と呼ばれていました(3・5・6・7・11節)。しかもヨセフは、死刑執行人たちの長ポティファルの「家の上にある者」(39章4節)でした。同じ表現によって、執事がヨセフと同じ職業に就いていることが分かります。彼はヨセフがかつてそうだったように、主人の代理ができるほどに信頼された筆頭執事なのです。

ヨセフは、自分の家を管理する者をよく教育していたと推測します。そのためにヨセフの経験は十分に生かされています。だからこの「かの男性」には、ヨセフと同様「人間らしい個人」という意味が込められています。エジプト人またはヘブライ人の別なく「信実な個人」、誠実で信頼に値する人とはどのような人かを物語は示しています。ヨセフのもとにあり、ヨセフの自宅を治めている人物は、見事な人です。ヨセフに忠実でありながら自分の頭で考えています。しかもヨセフに連なる全体をうまく運んでいます。このような個人に成長していくことが物語全体の目標です。ヨセフの兄弟たちは、このエジプト人との対話を通して、また「教師」であるヨセフの試験を通して「信実な個人から成る群れ」、つまり「かの男性たち」になりつつあります。

 執事はヨセフの命令を聞いて、シメオンも共に食事の席に連なるということを察知しています。何も聞き返していませんが、23節でそのように行っています。彼は自分に与えられた仕事の全体像を把握し、正午に十一人の客と主人がご馳走を食べるために何が必要かを逆算しています。十人を自宅に連れていく間に、シメオンの釈放や、客として迎えるための水の手配、牛を一頭つぶすこと、料理の種類(パンとビール)等々、頭はフル回転です。賓客を迎える宴会を成功させることが彼に託された使命です。いかにしてエジプト人とヘブライ人が共に食卓につけるのか、必要な工夫を考えます。とにかく主人ヨセフに忠実であること、命令通りに、いや命令以上に任務を遂行すること。この一点を彼はヨセフから教え込まれていたのです。「良くやった、忠実な僕だ」。

18 そしてかの男性たちは恐れた、彼らがヨセフの家(に)連れて行かれたということを。そして彼らは言った。「最初の時に私たちの袋の中に戻されている銀のことについて私たちは連れて行かれている、私たちの上に転がり込むために、また私たちの上になだれ込むために、またわたしたちを奴隷に(しようと)取るために、また私たちのロバとを。」 

 しかしエジプト語ができない兄弟たちはヨセフが執事に何を命じたのかを理解できません。銀についての言い訳をする前に王宮からヨセフの自宅へと連れて行かれたので、彼らは恐れました。かつては通訳付きで交渉できたのに、今回は通訳がいません。エジプト語によって面会は強制終了させられました。言葉が通じないということは恐怖の源です。外国人が災害弱者となる理由です。いわゆる「情報障害」と呼ばれるものです。総理大臣は「銀を盗んだ者たちを家の奴隷にしろ」と命じたかもしれないと、兄弟たちは危惧をしました。

19 そして彼らはヨセフの家の上にある男性のもとに近づき、かの家の入口(で)彼に向かって語り、 20 言った。「私における私の主人。私たちは最初の時に食料を買うために確かに下った。 21 そして私たちが宿に来た時に以下のことがあった。すなわち、私たちが私たちの袋を開け、そして見よ、それぞれの銀がその袋の口の中に(あった)。私たちの銀がその重さのままで。そして私たちは私たちの手でそれを返した。 22 そして別の銀を私たちは食料を買うために私たちの手の中に(持って)下らせた。私たちは誰が私たちの袋の中に私たちの銀を置いたのか知らなかった」。 

 十人は袋を開けて見せながら、銀も見せながら、身振り手振りで片言のエジプト語を使って執事を取り囲んで一所懸命に説明します。「誰かが勝手に銀を袋に入れた。そのことに気づいたのは一日の旅程を行った後だった。だからその銀を今あなたに返したい。今回購入分の銀は別に持ってきている。銀を盗んでもいないし、偵察でもない。どうか奴隷にしないでほしい」。

23 そして彼は言った。「シャローム、あなたたちのために。あなたたちは恐れるな。あなたたちの神と、あなたたちの父の神とが、あなたたちのために宝をあなたたちの袋の中に与えた。あなたたちの銀が私のもとに来た」。そして彼は彼らのもとにシメオンを出させ、 24 かの男性かの男性たちをヨセフの家へと連れて行き、水を与え、彼らは彼らの足を洗い、彼は彼らのロバたちに餌を与えた。 25 そして彼らはヨセフが正午に来るまでに贈り物を準備した。なぜなら彼らはそこで彼らがパンを食べるということを聞いたからだ。

 執事の返答は、いわゆる「神対応」です。彼はにこにこしながらゆっくりとしたエジプト語で、兄弟たちを落ち着かせます。「シャローム」。復活のキリストが弟子たちに語った、あの挨拶です。そして「恐れるな」。天使がマリアに語った、あの挨拶です。「袋の中にあった銀は、あなたたちの信じる神が与えた宝物だ。あなたたちが支払った銀はわたしのもとに来ていた」。この口ぶりから、彼こそが兄弟たちの袋の中に銀を入れていた人物だったと推測されます。42章25節「彼は彼らのためにその通り行った」の「彼」は、ヨセフの命令を受けた筆頭執事のことでしょう。行政官僚たちが抗った、小麦の代金を国庫に入れずに袋の中に返すことを、ヨセフの家の筆頭執事が請け負ったということです。「銀は神からの宝なのだからそのまま受け取っておけば良い」として、執事は銀の返却の申し出をやんわりと断ります。

 執事は、自分の主人がこのヘブライ人の兄弟たちを助けたいと思っていることを、すでに知っています。偵察だと疑っている割にはシメオンという人物も丁重に扱われています。もちろん深く詮索をしませんが、彼は主人の客が心地よく接待される状況を設定していきます。それが主人の願いだからです。

 彼らに難しい言葉は理解されないことを知って執事はシメオンを釈放しました。論より証拠です。兄弟たちが人質の解放交渉をする前にシメオンを釈放することで、偵察の疑いを解いたことを示しています。またエジプト国家が陰謀を仕組んでいないことをも示しています。十一人の間にシャロームが訪れます。特にシメオンとベニヤミンは固い抱擁を交わしたことでしょう。ルベンもユダもベニヤミン帰国の目処が立ったので一安心です。

安心させた後、筆頭執事は家の敷地に彼らを導き入れ、足を洗う水を与えます。十一人を奴隷にするのではなく、客として迎えていることを示すためです。さらにロバにも餌を与えます。十一人は自分たちが一人ひとり大切に扱われていることを実感していきます。愛される経験が「信実な個人」になる秘訣です。シャロームが一人ひとりに行き渡り十一人に食卓に連なる準備ができました。

今日の小さな生き方の提案は、「ヨセフの家の上にある者」に倣うことです。筆頭執事は支配欲から解放されています。ヘブライ人たちにも威張っていません。主人を尊敬し忠実ですが、自分の頭でも考えていて、先回りして気の利いたことを実行します。パニックに陥っている人にも落ち着いて適切な対応をしながら、同時に部下を仕切るという仕事もこなしています。ヨセフとそっくりの有能な人物です。組織の中で信実に生きるとはこういうことでしょう。

聖書の中にはさまざまな人物が登場し、私たちの日常の生き方に示唆を与えます。会社も、学校も、家庭も、地域も組織(社会)の一種です。役職上「上の者」も「下の者」もいて、自分の位置も決まります。その中で注意したいことは、私たちが単純な組織の歯車(物)ではないということです。信実に実行する、小さな任務の只中に、個人と個人を結ぶシャローム創生があるからです。社会の中に生きて働く神を信じて、社会の信実な一員となりたいと願います。