26 そしてヨセフがかの家へと来、彼らは、かの家へと彼らの手の中に(ある)贈り物を彼のために持って来、彼らは彼のために地へとひれ伏し、 27 彼は彼らにシャロームになるように尋ね、言った。「シャロームか、あなたたちが言った、老いているあなたたちの父は。彼はまだ生きているか」。
正午になりました。ヨセフは王宮から自宅に戻ってきました。仕事の一環として、ヘブライ人11人兄弟と食事をするためです。周りの者たちは、なぜエジプトの総理大臣がヘブライ人羊飼いを国賓扱いして接待するのか理解できません。いやヘブライ人たちもわかりません。わからないまま成り行きで彼らは贈り物を持ってきました。プラスに働くか、それともマイナスに働くか、あまり自信はありませんが、とりあえず父ヤコブの助言に従ったのです。
とうとう11人がヨセフを拝みました。かつて見た夢がまた一歩実現しました(37章)。残るは、父ヤコブと母レアが拝むだけです。兄弟たちはがちがちに緊張しています。その彼らにヨセフは優しく声をかけます。27節の直訳は「シャロームのために尋ねた」です。先に執事が「シャローム、あなたたちのために」と11人に声をかけています。この主従の息はぴったり合っています。シャロームは、精神的な落ち着き(安心)も意味します。
そしてヨセフは、父ヤコブがシャロームであるのか、まだ生きているのかを尋ねます。シャロームには、身体的な健康という意味もあります。シャロームは全体的に「良い」という状態です。円満というべきか、へこみのない球体というべきか、全方位に欠けのない状態。全体に公正なので全体に納得が行き渡っている社会のありようです。
ヤコブを中心とする社会にはシャロームがずっとありませんでした。レアとラケルの姉妹との結婚。出産合戦にビルハとジルパも巻き込まれます。娘ディナに起こった悲劇や、その他の娘たちへの無視。そしてヤコブの依怙贔屓と息子たちの争いです。精神的にも身体的にもシャロームが損なわれている家族です。「シャローム、あなたたちヤコブの家に」。これは読者全員の祈りです。
28 そして彼らは言った。「シャロームはあなたの奴隷・私たちの父に属している。彼はまだ生きている」。そして彼らは頭を下げ、ひれ伏し、 29 彼は彼の目を上げ、ベニヤミン・彼の兄弟・彼の母の息子を見、言った。「この男性が、あなたたちが私に向かって言った、最も小さいあなたたちの兄弟か」。そして彼は言った。「神があなたを恵むように、私の息子よ」。
質問に答えるために11人は顔を上げます。「シャロームが父ヤコブに属している。彼はまだ生きている」。そして11人はすぐにまた鼻を地面にこすりつけます。サマリア五書とギリシャ語訳聖書には、この後にヨセフのセリフが一つ付け加わっています。「その男性は神に祝福されている」と、ヨセフはヤコブについて語っています。この部分は、元来の本文に存在していたように思えます。なぜならヤコブ物語は、ヤコブが父から兄への祝福を奪い取ることから始まるからです(25章)。ここでヤコブは、11番目の息子から祝福されています。その息子は、死者とみなされている息子であり、今や外国人として生きている息子です。こうしてヤコブ物語は、民族主義や家父長制を根底からひっくり返します。一子相伝の、父から長子への祝福の連鎖などというものは、一族の繁栄を約束しません。神からの祝福というものは、自分より「小さなものから」「下から」与えられるものなのです。子どもたちから配さんされる時大人たちが嬉しい理由は、そこに世の秩序をひっくり返す神の祝福を感じるからです。
ともかくヨセフは父が生きていることを知ってほっとしました。その一方で11人はビクビクしていました。「銀の一件について尋ねられ、罠にはめられるのではないか。筆頭執事の方はちゃんと伝えてくれているのだろうか」。しかしおっかないエジプトの総理大臣はかつてのように根掘り葉掘り質問しません。「妙だな」と思って恐る恐る顔を上げてみると、彼はベニヤミンをじっと見つめています。「この男性が最も小さい兄弟か」。10人が「その通りです」と答える間もなく、ヨセフはベニヤミンに声をかけます。「神があなたを恵むように、私の息子よ」。大人になったベニヤミンを、ヨセフは初めて見ました。
ベニヤミンの顔は父ヤコブに似ていたと推測します。ラケルとヨセフについては全く同じ形容で姿かたちが評価されていますが(29章17節・39章6節)、ヤコブとベニヤミンには姿かたちについて言及されていないからです。こうしてヨセフは父ヤコブに対して祝福し、立て続けにヤコブに似た弟にも祝福を授けます。祝福についての垂直的なルールが自由に破られています。祝福は対等の兄弟間でもできることなのです。私たちが礼拝の中で祝福を交互に交わすことの理由もここにあります。
30 そしてヨセフは急いだ、なぜなら彼の憐れみが彼の兄弟に向かって熱くなったからだ。そして彼は泣くことを求め、かの部屋へと来、そこで泣き、 31 彼の顔を洗い、出、我慢し、言った。「あなたたちは彼らのためにパンを置け」。
ヨセフにはこみ上げるものがありました。同じ天幕で暮らした弟との再会がやっと果たせたからです。様々な軋轢が兄弟の間でずっとあるだろうと推測し、ヨセフはベニヤミンに共感を寄せます。もしもベニヤミンもヨセフを売り飛ばす場面にいたのなら、ヨセフの感情は複雑です。なぜ「自分は反対」と言ってくれなかったのかという思いもあるでしょう。しかしその一方で、大きな流れの前では黙って認めるしかないというベニヤミンの苦しい胸のうちもわかる気もします。エジプトでの苦労がヨセフの人格を練り上げています。
「憐れむ」(ラハム)の語源は子宮です(49章25節)。ヨセフの共感は「男らしくない」感情です。彼は弟ベニヤミンに対して、父ヤコブの役も母ラケルの役もこなしています。こうして共感することが苦手だったヨセフが、男らしさも女らしさも超えて、ジェンダーの課題も乗り越えて「人間らしく」なっていきます。泣きたい時に泣く。それが感情をもつ人間の当たり前です。
ただしヨセフには兄弟たちに対して出したい試験があります。そのためにまだ自分の正体を明かすことはできません。兄弟たちや家の者たちの前で感情を爆発させることはあまりに不自然です。そこでヨセフはあわてて部屋に入り、一人で泣きます。そして顔を洗って、エジプトの総理大臣の顔になって、執事たちに向かって命じます。「パンを置け」。
32 そして彼らは、彼のために彼だけに置き、彼らのために彼らだけに(置き)、また彼と共に食べるエジプト人たちのために彼らだけに(置いた)。なぜならエジプト人たちはヘブライ人たちと共にパンを食べることができなかったからだ。なぜならそれはエジプト人にとって忌み嫌うことだったからだ。
この食卓はエジプトという国にあった差別構造をそのまま映し出すものでした。エジプト人はヘブライ人たちと同じ食卓でパンを分かち合うことを忌み嫌い、社会的なルールとして食事を共にできなかったからです。執事たちは、ヨセフのテーブルにヨセフのパンを置き、11人のテーブルにパンを置き、家の者たちのテーブルにパンを置きました。
『橋のない川』という部落差別をテーマにした小説を映画にしたものを見たことがあります。被差別部落の人々と、決してテーブルを一緒にしないで蔑む人々を描く場面が印象的でした。「穢らわしい」というのです。食事は社会の縮図となります。エジプト人にとってヘブライ人は穢らわしい対象です。こう考えるとポティファルの偉大さも改めて分かります。
ヨセフはエジプト人のヘブライ人差別について、改善しようとはしない人物です(46章28節以下)。ヨセフの家での食事は「未完成の主の晩餐」です。イエスの食卓においては、同じテーブルで徴税人・娼婦・子ども・サマリア人・障がいのある人・ハンセン病の人・律法学者・裏切る弟子たちらが食べることができました。カトリックの人たちと別のテーブルを用意するなら、あるいは非信者/他宗教の人たちと別のテーブルを用意するなら(愛餐会だけは一緒)、主の晩餐はヨセフの食卓へと逆戻りしてしまうでしょう。
イエスは「穢れている」と言われた人の汚名を、食卓によって自分のものとし「罪人の仲間」という悪口を喜んで引き受けました。主の晩餐や礼拝を行うことは、そのように後ろ指さされることを喜んで引き受けることです。
33 そして彼らは彼の面前に座った、かの長男はその長男であることに従って、またかの小さい者はその小さい者であることに従って。そしてかの男性たちは各人その隣人に向かって驚いた。 34 そして彼は分け前を彼の顔から彼らに向かって上げ、ベニヤミンの分け前は彼ら全員の分け前よりも五倍多く、彼らは飲み、彼と共に酔っ払った。
11人の兄弟たちは横長の食卓に並びました。そしてヨセフの食卓だけが向かい合わせです。おそらくヨセフの横や後ろに通訳を含むエジプト人の執事たちの食卓があったのでしょう。執事たちはパンだけは置きましたが、ビールやその他の料理については給仕していません。34節「彼は・・・彼の顔から」とあるので、ヨセフだけが兄弟たちに料理をよそり、酒を注いでいたのです。最後の晩餐におけるイエスの姿と重なります。
ここでヨセフは試験を出しています。わざと兄弟を年齢順に並べるのです。このことによって、自分がヨセフであることに気づくかどうかという試験です。しかし、この試験はヨセフ自身にも戻ってくるものになりました。一番端に長男ルベンと末っ子ベニヤミンがいます。真ん中にヨセフの食卓があるとすれば、ヨセフの正面には6番目の兄ナフタリがいることになります。ビルハの息子ダンとナフタリ、ジルパの息子ガドとアシェルが5番目から8番目の兄です。彼らとヨセフは向き合うことになりました。この4人の悪口を父ヤコブに言ったことをヨセフは思い出します(37章2節)。試すことは試されることです。ヨセフも心の中で格闘し(ニフタル。30章8節)悔い改めへと導かれます。
「かの男性たち(アナシム)は各人(イシュ)その隣人に向かって驚いた」(33節)という言葉は、ヨセフをも含む表現です。良心的な個人となった者たちが相手のことを愛すべき隣人であると再発見し、良い意味のショックをいただいているのです。こうしてシャロームを求める兄弟たちが、互いに隣人になる人間らしい人間の束へと成長していきます。誰もベニヤミンへの依怙贔屓を咎めません。ヨセフの食卓は未完成ながらも、主の晩餐を指し示しています。
誤ってヘブライ語を使わないように気をつけながらも、ヨセフは大いに食べ飲みました。カナンの地でつつましく生活している家族を思いながらも、11人も大いに食べ飲みました。これはパーティーです。ヨセフが11人と初めて楽しく飲み食いした食事です。特別な一瞬の楽しみがシャロームを創り出します。
今日の小さな生き方の提案は、ヨセフの食卓を真似しながら、ヨセフの食卓を超えていくことです。主の晩餐を備える礼拝はパーティーです。楽しいものであり、世の秩序がひっくり返されるものであり、世から後ろ指さされるものであり、各人の悔い改め・生き直しがなされるものであり、互いにシャロームの挨拶を交わし合うものであり、仕え合うものであり、祝福し合うものです。この特別な一瞬を楽しみましょう。誰もこの喜びを奪うことはできません。