ユダとヨセフ 創世記44章11-21節 2020年4月19日礼拝説教

11 そして彼らは急ぎ、各人はその袋を地へ降ろし、各人がその袋を開け、

12 彼は探した。大きい者で彼は始めた。そして小さい者で彼は終えた。そしてその杯はベニヤミンの袋の中で見つけられた。 13 そして彼らは彼らの長衣を引き裂き、各人がそのロバの上に追わせ、かの町へと戻った。

4月5日の続きです。ヘブライ人11人兄弟は、まさか目の前のエジプト人総理大臣ツェファナト・パネアが自分たちが売り飛ばした兄弟ヨセフであるとは気づきません。ヨセフが仮に生きていたとしても、どこかの家の奴隷となって暮らしていると、兄弟たちは思っていました。相手が気づいていないことを利用して、「20年以上前のあのひどい事件を兄弟たちは反省しているのかどうか」を、ヨセフは知ろうと考えました。複雑な家庭環境です。父ヤコブには4人も妻がおり、妻同士の葛藤が異母兄弟たちに影響していました。それがヨセフに対する人権侵害の背景です。それだからヨセフは同じ母親をもつ弟ベニヤミンに冤罪をかぶせようとします。その時のほかの10人の兄たちの反応が試金石となります。もしもベニヤミンが総理大臣の銀の杯を盗んでいたとすれば、彼らは何と言うのだろうか。末弟を見捨てて、自分たちだけ父の家に帰ろうとするのか。それとも、彼を庇うのか。誰が庇うのか。それによって兄弟たちの反省の度合いを測ろうというのです。

 ヨセフの家の筆頭執事は、兄弟一人一人の袋を調べます。この人物がヨセフに頼まれて予めベニヤミンの袋の中に銀の杯を入れていたのでした(2節)。だから彼はこの茶番劇の結末を知っています。しかしなかなかの役者です。年の順に調べることで劇を盛り上げる演出を施しているのです。この演出が兄弟たちの悲劇的な感情をさらに高ぶらせています。

 筆頭執事はなぜこのような手の込んだ演出をしているのでしょうか。この場面を最後に彼は物語から姿を消します。今までも彼は優れた家臣でしたが、ここに至っても彼の立ち居振る舞いは優れています。執事は主人と、ヘブライ人11人兄弟とは深い因縁があることを察しています。

「主人は何かを確かめるために兄弟を試験している。不条理な出来事が降りかかった時の反応を見ようとしている。根っこのところでは親切をしているのに(この家族にだけは無償で袋いっぱいの小麦を与え続けている)、表面上はあえて意地悪なことをしている(スパイに違いないと決めつけ、シメオンを人質にとる。もっとも大切にされている末弟に冤罪をかぶせる)。ならば、主人のしたいことに協力をしよう。つまり悲劇性を強めることで、この兄弟の感情を増幅させ、反応を見えやすくしよう。かわいそうなベニヤミンは自分の奴隷として雇い、いつか解放してやることにしよう。」

 執事は長男のルベンの袋を見、次男シメオンの袋を見ます。シメオンは一度拘束されていますからドキドキしています。レビ、ユダと順々に続き、最後にベニヤミンまで来ました。もっとも緊張する場面、全員の視線がベニヤミンの袋に注がれます。執事は隠した場所を知っていますが、少しもったいぶって袋の中を探り、何も言わずに銀の杯を取り出し兄弟たちの前に示しました。あってはいけないことが起こりました。他の誰でもなく、父ヤコブの最愛のベニヤミンが盗んだのです。憤る10人の視線、身の潔白を訴えるベニヤミンの必死の視線、真実は何かをはかりかねて見合わせる10人。彼らは天を仰いで叫び、上着を引き裂きました。当時の感情表現です。不条理に苦しむ魂の叫びが、衣服を裂くことで表されます。執事の思惑通りに彼らは感情をむき出しにしました。

「では末弟をわたしの奴隷とし(10節)、銀の杯を主人に返すことにする」と執事が言うと、四男ユダが決然と言います。「末弟だけではなく、わたしは一緒にあなたの主人の家に戻ります」。他の兄弟たちもユダにつられて口々に同じように言います。彼らはユダを先頭にして全員でヨセフの家に戻るのです(14節「ユダと彼の兄弟たち」)。ここで「戻る」(シューブ)という言葉が使われています。この言葉は、「立ち帰る」「悔い改める」という意味をも持っています。預言者たちが民に警告する際に使う常套句です。示唆的です。

兄弟たちはヨセフの前であの事件について正面から向き合うことになります。ヨセフのもとに立ち帰るということは、ヨセフにしたひどい裏切りを反省することと一体のことです。放蕩息子の譬え話と同じです。譬え話と少し異なるのは、兄弟たちが目の前のエジプト人総理大臣を兄弟ヨセフと認識していないことです。外見上まったく異なる被害者本人の前で、加害者は誠実な謝罪と賠償をすることができるのでしょうか。むしろ難しいかもしれません。

ただしかし、この時点ですでに生き直しが一部始まっています。悔い改めと生き直し(シューブ)のために、彼らは全員で戻っているからです(シューブ)。以前の彼らならば嫉妬の対象であるベニヤミンを見捨てて、自分たちだけで父の家に帰ったことでしょう。

14 そしてユダと彼の兄弟たちはヨセフの家へと来た。そして彼は、彼がまだそこに(いた)。そして彼らは彼の面前で地へ落ちた。 15 そしてヨセフは彼らに言った。「あなたたちが行なったこの行いは何か。わたしのような人間は必ず占うということを知らなかったのか」。 

 ユダが初めて兄弟の代表として記されています。ここから37章以降の二人の主人公が直接対峙します。ユダとヨセフの異母兄弟。それぞれの母親であるレアとラケル姉妹の対峙や、父ヤコブと双子の兄エサウとの対峙にも似ています。さらには後の北王国と南王国の対峙にも似ています。ヨセフとユダはそれぞれの中心部族の先祖だからです。

 驚いたことにヨセフは見送ったその場所にずっと立ち尽くしていました。原文は「彼(ヨセフ)」を二回繰り返して強調しています。「ベニヤミンだけか、何人か一緒か、全員戻ってくるのか」。どうやらユダを先頭にして11人全員がいるようです。なぜユダが先頭なのかの理由は分かりませんが、末弟を見捨てずに全員で戻ってきたことをヨセフは評価します。放蕩息子たちを迎える父親のようなヨセフを前にして、兄弟たちは無言で土下座します。びりびりに破れた上着を羽織りながら、がくっと膝から崩れ落ちるように、11人はひれ伏します。執事はヨセフに末弟の袋に銀の杯があったことを報告しました。

長い沈黙を破って先に声をかけたのはヨセフです。「あなたたちが行なったこの行いは何か」。この問いは37章の暴力をも射程に含んでいます。なぜあの時わたしの服を剥ぎ取り、びりびりに引き裂き踏みつけたのか。なぜわたしを袋叩きにしたのか。なぜわたしを穴に突き落として監禁したのか。なぜわたしを外国人に売り飛ばしたのか。あんなに「助けてくれ」と叫んでも、侮蔑し嘲笑し無視して暴力を振るい続けたのはなぜなのか。わたしのように夢を見る者が存在してはいけないのか。将来を占う者が存在することを知らないのか。

16 そしてユダは言った。「わたしたちはわたしの主人に何を言おうか。何をわたしたちは語ろうか。そしていかにわたしたちは自分を義としようか。神があなたの奴隷たちの咎を見つけた。見よ、わたしたちはわたしの主人に属する奴隷たち。わたしたちもかの杯がその手の中で見つけられた者も」。 17 そして彼は言った。「それをすることはわたしにとってとんでもない。かの杯がその手の中で見つけられた人間、彼こそがわたしに属する奴隷になる。そしてあなたたちは平和にあなたたちの父のもとに上れ」。

ユダは執事に言った言葉を修正します。執事には「盗んだ者は死罪、その他の者は奴隷になる」と啖呵を切っていたのですが(9節)、ベニヤミンの袋に銀の杯が入っていたことを受けて全員が奴隷になるという処罰を修正提案します。この修正によれば父ヤコブのもとにベニヤミンを返すことはできません。しかし全員がいなくなれば父も納得してくれるだろうと考えたのでしょう。むしろ執事の提案(10節。ベニヤミンのみ奴隷)の方が、父に対しては不誠実です。

ユダという人は頭は良いし気は優しいのですが責任感に欠けるところがありました。38章を経、42章でヨセフ売り飛ばし事件を悔い改め、43章の父ヤコブを説得するまでになっています。ユダはベニヤミンを連れ戻すことが、父からヨセフを奪った罪を父に償うことだと思い至りました。ユダはベニヤミンが帰宅できなければ一生責任を負うと父ヤコブに約束しました(43章9節)。

この自らの言葉に後押しされ、本日の場面では完全に腹をくくって自分の言葉を守る責任を負おうとしています。「神が咎(アヴォン)を見つけた」(16節)という言葉に、売り飛ばし事件についての反省も見られます。アヴォンは罪と同時に罰をも意味します。売り飛ばし事件の結果の罰としてエジプトで苦しんでいると兄弟たちは考えていますので(42章21節)、ベニヤミンの冤罪も神からの罰なのです。その罪と罰を全員で負うと、あのユダが言います。

その提案をヨセフは一蹴します。心の中ではユダを評価しながら(長男のルベンは影が薄いので余計に)、表面上は強面で追い詰めます。「いや、杯を盗んだ人が奴隷になるだけで良い。罪は個人が負うものであり、他人の罪を負う必要はないし、そんなことはできない。あなたたちは悪くないのだから帰れ」。

18 そしてユダが彼のもとに近づき、言った。「わたしにおけるわたしの主人。どうかあなたの奴隷に主人の耳の中に言葉(を)語らせよ。そしてあなたの鼻があなたの奴隷に燃えないように。というのもあなたはファラオのようだから。 19 主人は彼の奴隷たちに尋ねた。曰く『あなたたちに父あるいは兄弟が存在するのか』。 20 そしてわたしたちはわたしの主人に向かって言った。『わたしたちに老いた父と小さな長老たちの子どもが存在する。そして彼の兄弟は死に、彼が一人だけ彼の母に残された。そして彼の父は彼を愛し続けている』。 21 そしてあなたはあなたの奴隷たちに向かって言った。『あなたたちはわたしのもとに彼を降らせよ。そうすればわたしはわたしの目(を)彼の上に置く』」。

「私より彼は正しい」(38章26節)とユダは思ったことでしょう。以前のユダならばここで引き下がりそうです。理屈の上でも、証拠の上でもヨセフの言うことは筋が通っています。必然的にユダは過去に遡らなくてはならなくなりました。なぜベニヤミンが特別な弟なのか過去の経緯と現在自分が負っている責任を語るのです。詳しくは来週取り上げますが、ユダの言葉にヨセフの望む内容がありました。信実の悔い改めの有り無しが分かるのです。

今日の小さな生き方の提案は、ユダに倣って自分の言葉に責任をもつということです。約束というものは重いものです。ヤコブと約束を交わしていなければ、気の弱いユダは逃げ出していたかもしれません。他者との約束が、言い訳だらけの自分を何とか人間らしい品性に引き上げます。神は長男ではないユダを大いに用います。レアの最初の4人の息子であるルベン、シメオン、レビ、ユダはいずれも不祥事を起こしています。しかし、その中で悔い改め信実に生き直すこともできます。小さな口約束に誠実に生きましょう。大きく言えば東アジアの平和も、市民同士・自治体同士・政府同士の口約束から始まるのだと思います。失敗したら悔い改めましょう。神はじっと佇み待ち続けています。約束を糧にして次は失敗しないように成長しましょう。神との約束(救いの契約)が弱いわたしたちを信実な生き方へと後押ししています。