22 「そして私達は私の主人に向かって言った。『その若者は彼の父を棄てることができない。つまり彼が彼の父を棄てる。すると彼は死ぬ』。 23 そしてあなたはあなたの奴隷に向かって言った。『もしあなた達の最も小さい兄弟があなた達と共に下らないならば、あなた達は二度と私の顔を見てはならない』。
先週のユダの言葉の続きです。ユダはまずヨセフとの過去のやりとりを要約しています。しかし、兄弟たちが「ベニヤミンと父ヤコブを捨てるなら、どちらかが死ぬ」と言ったことは、42章では報告されていません。おそらく42章17節の「三日間」、このような生々しいやりとりが兄弟たちとヨセフとの間でなされていたのでしょう。ベニヤミンを連れてくることは、ベニヤミンがヤコブを捨てる(アザブ)ことに等しい、そこまで両者は一体なのだと、家の特別な事情を兄弟たちはヨセフに言っていた。この事実を、読者は初めて知らされます。ちなみにアザブは、詩編22編2節「わが神、わが神、どうして私を棄てたのか」に使われているとおり、「離れる」よりも強く訳せる言葉です。
24 そして私達があなたの奴隷・私の父に向かって上った時に、私達は彼に私の主人の言葉を告げるということがあり、 25 私達の父が言った。『あなた達は戻れ。あなたたちは私達のために少量の食料を買え』。 26 そして私達は言った。『私達は下ることができない。もし私達の最も小さい兄弟が私たちと共に存在するならば、私達は下る。私達はかの男性の顔を見ることができないからだ。つまり私達の最も小さな兄弟、彼が私達と共にいない(ならば)』。 27 そしてあなたの奴隷・私の父は私たちに向かって言った。『あなた達、あなた達こそ、私の妻が私のために二人(の男性)を生んだことを知った。 28 そしてその一人は私から出、私は言った。絶対に(ずたずたに)引き裂かれたと。そして私はここまで彼を見なかった。 29 そしてあなた達は私の顔(と共なるところ)からこの男性をも取る。そして災難が彼に遭い、あなた達は私の白髪を災いでもって陰府へと下らせる』。
聖書研究の一つのコツは繰り返される言葉が鍵となるという単純な法則です。本日のユダの言葉の鍵は「私の父」です。ユダが自分の父親ヤコブを「私の父」と呼んでいます。ここに、ユダ個人の成長や、ユダの父ヤコブへの賠償・責任が込められています。ユダは紆余曲折を経てやっとヤコブを「私の父」と呼べるようになりました。これが人格的成長です。また、ユダがヨセフをエジプトに売り飛ばした行為を、「自分の父から愛息ヨセフを奪った行為」と認め、その賠償を「私の父」に一生涯かけて行うという覚悟をも示しています。
25・31節「私達の父」は文脈にかなっています。ほとんどの主語は「私達は」なのですから、総理大臣に対して言う言葉は「私達の父」が滑らかです。にもかかかわらず、ユダは「私の父」を7回も連発しています。新共同訳聖書では確認できない人称代名詞です。サマリア五書や古代訳は「私達の父」(24節)、「彼の父」(32節)に修正を試みていますから、原文の不自然さは明らかです。
前から申し上げている通りヤコブはひどい父親です。レア・ジルパ・ビルハの子どもたちの前でも「私の妻」と呼べるのはラケル一人と日常的に言いのける(27節)。この態度は「私の息子」と呼べるのは、ラケルの息子だけという態度と一貫しています(37章35節、42章38節)。「私の妻ラケルは私の息子ヨセフとベニヤミンを生んだということは、その他大勢であるお前たちも確かに知っているはずだ」。依怙贔屓を公然とする父親を「私の父」と呼べるのか。レア・ビルハ・ジルパの子どもたちに問われ続けている課題です。
ユダは他の兄弟姉妹たちに先駆けて、あるいは姉妹兄弟たちを代表して、だめな父親ヤコブを「私の父」と呼び、エジプトの総理大臣に紹介しています。「これが私の父だ。家父長制的に言えば、長男を重宝しなければいけないところを無視して、愛妻の息子だけを愛する、常識はずれの自由かつわがままな人間だ。二人の依怙贔屓の対象を除いた、その他の姉妹兄弟たちを『私の娘』『私の息子』と呼んだこともない、これがみっともない私の父だ。」
ヨセフとベニヤミンは、ユダの言葉を聞いて衝撃を受けます。自分たちが当たり前のように「私の父」(41章51節)と呼び、ヤコブが当たり前のように「私の息子」と呼ぶことが、まったく当たり前ではないということを、被害を受けていた当事者の言葉で知らされたからです。確かにレアの子どもたちが「私の父」とヤコブのことを呼んだ場面は聖書の中にありません。父から愛されなかったヤコブでさえ、父イサクのことを「私の父」と呼んでいるのですから(27章12節)、この現象は著しいものです。ちなみに祖父アブラハムと父イサクは、「私の父」「私の息子」と呼び合う仲でした(22章7節)。
ルベンの不祥事の遠因も、ヤコブを「私の父」と思っていないからかもしれません(35章22節)。シメオンとレビも、母が同じである「私達の妹」ディナの名誉だけを問題にして、シケム住民虐殺を正当化しています(34章31節)。彼らにも「私の父」意識が欠けています。ユダが一人だけヤコブの家を離れたのも、「私の父」意識欠如からくる、「父の家」からの脱出だったのかもしれません(38章1節)。実際、12人の息子のうちで父ヤコブが命名したのはベニヤミンだけです(35章18節)。命名しない無責任な父親像を克服すべく、ユダはペレツとゼラの双子の命名を自分で行ったのでした(38章29-30節)。ヤコブを乗り越えることが、ユダの今までの人生の目標の一つです。
この流れの中で本日ユダは生まれて初めてヤコブを「私の父」と呼んでいます。レアの子ユダを「私の息子」と呼ばない幼稚な父ヤコブを、成熟した息子ユダが乗り越えています。その堂々とした姿に、レア・ビルハ・ジルパの息子たちも、ラケルの子らであるヨセフとベニヤミンも感動します。
「私の父が『ヨセフは獣に噛み裂かれて死んだ』と思いこんでいるのは不憫でならない。私の父は『ベニヤミンもきっといなくなる』と思い込んでいる」。このように目の前のエジプトの総理大臣に言いながら、心の中でユダは神にのみ懺悔の告白をしています。「私が兄弟たちを説得してエジプトにヨセフを売った張本人だ。私が父ヤコブに嘘をついて、獣に咬み殺されたように報告し、いまだに真実を伏せているのだ。私は私の父に重い罪を犯し続け、今もその罰で苦しみ続けている。私は私の父にひどいことをし続けているのだから、せめて今回ばかりは責任を負いたい。神が私の罪を見つけ出し、今罰を示した」。
ユダは父ヤコブとの約束を果たすために、また父ヤコブに対する罪の償いとして、その場にいる全員が感銘を受ける提案をします。ヨセフの筆頭執事をはじめとするエジプト人家臣たちでさえ感銘を受ける内容です。
30 そして今私があなたの奴隷・私の父のもとに来る時、その若者が、彼が私達と共にいない(ならば)――つまり彼の全存在は彼の全存在に結ばれ続けている(ので)――、 31 次のことが起こる。すなわち、彼がその若者がいないことを見る時に彼は死に、あなたの奴隷たちはあなたの奴隷・私達の父の白髪を悲嘆でもって陰府へと下らせる。 32 実際にあなたの奴隷はその若者を私の父(と共なるところ)から保証した。曰く『もし私が彼をあなたのもとに連れ帰らないならば、私は私の父に全ての日々罪を負う』。 33 そして今どうかあなたの奴隷を住まわせよ。その若者の代わりの、私の主人に属する奴隷(だ)。そしてその若者を彼の兄弟たちと上らせよ。 34 なぜならどうして私が私の父のもとに上りえようか。つまりその若者が私と共にいない(のに)。私の父を見出す災いを私が見ないように」。
「私の父は、まったく愚かなほどに末弟と一体化しているので、末弟なしでは必ず死ぬ。それは最大の親不孝だ。実は私がこの愚かな父を説得して末弟をエジプトまで連れてきた。その際に、末弟を連れ戻せなかった場合は自分が一生涯父に賠償責任を負うと約束した。私は私を愛していない父を愛することはできない。しかし父に大きな責任を負っているのは事実だ。どうか盗みの罪を犯した末弟の代わりに私をあなたの奴隷にしてほしい。他の者たちは全員私の父の家に帰してあげてほしい。私の家だけは少し離れたところにあるので、私がいなくても父の家に迷惑はそんなにかけなくて済む。末弟がいなくなれば父は嘆き続ける。ほかの姉妹兄弟がどんなに慰めても父は慰められることを拒否する。もう一人の依怙贔屓されていた弟がいなくなった時に見たことだ(37章34-35節)。もう二度とそれを見たくない。同じことを父にさせたくない。成長のない愚かな父は今度こそ本当に嘆きながら死ぬだろう。私が自分の責任を負わないことによって、父が死ぬ姿を見たくはない。どうかこの罪の責任を負わせてほしい。今日から私はあなたの奴隷だ」。
レアの子ユダに、イエス・キリストの似姿をみます。低い姿勢で土下座をするユダは、十字架の低みにおいて殺されたイエスと似ています。弟子たちの足を洗うイエス、弟子たちに給仕をするイエス、権力者の前で貶められるイエス、群衆に嘲笑われるイエス。茨の冠をかぶせられた「僕となった王」です。この方が「他人を救ったけれども自分を救わないキリスト、ユダヤ人の王」。自分の命と、他者の命とを交換させ、無条件に全ての人を救い出したキリストです。ベニヤミンを救い、ヤコブとの約束を果たそうとするユダの言葉に、キリストの救いとは何かが示されています。イエス・キリストの成し遂げた贖いの救いとは、神(アッバ=私の父)との約束に信実であろうとし、隣人の救いのために自分を投げ出す信実な行為です。ここで自分が逃げてはいけない。ユダと同じくイエスも自分の十字架をあえて背負っていかれたのでした。
ユダの言葉に、ヨセフの知りたかったことが全て詰まっていました。兄弟たちは売り飛ばし事件の加害当事者として罪を認め罰を甘受しようとしています。悔い改めの実として、ユダはラケルの子ベニヤミンの身代わりになろうとしています。ユダはヤコブを「私の父」と呼び責任を果たそうとしています。父ヤコブに「私の息子」と呼ばれたくてあの事件は起こった。そのことを心から悔いて生き直しているユダの信実をヨセフは見て、それを彼の義と認めます。
今日の小さな生き方の提案は、利他的に生きるということです。そしてそのことは抽象的なものの犠牲になるということではなく、具体的な一つ一つの出来事を通してなされます。たとえばあの戦争の時代に「国家のために命を捧げよ」という宣伝が全体の空気となって人々の良心を窒息させました。いや、自分たちもその空気を作る目に見えない細胞となっていたのです。今、感染予防をすることが(もちろん悪いことではありませんが)「国家のためになすべき我慢だ」という宣伝が全体の空気となっており、私たちもその構成員になっています。国家という抽象性が気になります。ユダは目の前の弟の身代わりを申し出、父への責任を果たしました。同じように私たちも具体的な利他的行為(犠牲的愛)を、抽象的な何かの犠牲になること(擬制的愛)よりも優先すべきです。そうすればこの不寛容な空気の中にあっても、目の前の隣人を差別したり「犯罪者扱い」をしたりはしないはずです。キリストはハンセン病患者に触って、その病や傷を負って癒しました。具体性を持つ愛に倣いたいものです。