1 そしてイスラエルは出立し、彼に属するすべても(出立し)、ベエル・シェバに来、犠牲を彼の父イサクの神のために捧げ、 2 神はイスラエルのためにその夜のいくつかの幻の中で言った。
ヤコブはヨセフとファラオの招きに応えて、カナンの地からエジプトへと移住をすることにしました。これはイスラエル民族全体の移民です。1-2節であえて「イスラエル」とヤコブを呼ぶのも、そのような理由だと思います。
ヤコブがカナンの地のどこの町周辺に住んでいたかはよく分かりません。37章1節は「カナンの地」としています。35章27節によれば「ヘブロン」という町周辺かもしれません。父親のイサクを看取って、そのままヘブロンを拠点にしながら、カナンの地全体を家畜を養う放牧の対象にしていたのでしょう。
ヘブロンを引き払ったヤコブはベエル・シェバという町に到着し、そこで一泊します。ベエル・シェバは、この家族にとって縁の深い町です。アブラハムの妻ハガルがシングルマザーとなって息子イシュマエルと暮らしたのが、ベエル・シェバ周辺の荒野でした(21章前半)。ちなみにイシュマエルはエジプト人と結婚しますが、この点で彼はヨセフの先駆けです。またベエル・シェバで、アブラハムは七匹の雌の羊を贈り、ペリシテ人アビメレクと平和条約を結びます(21章後半)。それがこの地の名前の由来だというのです。ベエルは「井戸」、シェバは「七」「誓い」の意味があります。祖父母の代からの地縁です。
ヤコブの両親は、双子の兄弟エサウとヤコブが生まれた後、ペリシテ人からの圧迫を避けつつ井戸を掘りながら、最終的にベエル・シェバに定住します(26章)。だからヤコブにとってベエル・シェバは故郷の一つです。父イサクは毎日ここで礼拝を捧げ、主の名を呼んでいました。青年ヤコブはベエル・シェバにあったイサク・リベカ家から、アラムの伯父ラバンの家へと脱出していったのです(28章10節)。ヤコブがラバンの家に20年居候していた間のいずれかの時期に、おそらく母リベカの死の時期に、実家がベエル・シェバからヘブロンに移っていたのでしょう。ヤコブは北方のシケムに暮らしたかったようですが(34章)、結局イサクの終の棲家である南方のヘブロンを拠点とします。ヤコブは、父イサクを看取り、父の家畜をすべて引き継ぎ、子孫と共にヘブロンにある先祖伝来の墓を管理していました。一子相伝の子孫と土地。ヤコブが必死になって獲得した長男の権利と祝福は墓と関係します。ヤコブはそのヘブロンを捨て、ベエル・シェバに来ました。
ベエル・シェバは彼の人生の出発点です。万感を込めてあえてこの地に一泊し、ヤコブはイサクの神を礼拝します。ヤコブの挑戦はここから始まりました。年老いたヤコブは、同じベエル・シェバから新しい挑戦を始めます。今までの人生で得たすべてをかなぐり捨てて、外国に暮らすということです。ベエル・シェバは「約束の地(カナン)」の南端です。後に「(北端の)ダンから(南端の)ベエル・シェバまで」と呼ばれる通りです。アブラハムとサラ、イサクとリベカに神が約束した土地と子孫。そのうちの「土地」の部分をあえて捨てるというのです。ベエル・シェバから先に行ったら、生きているうちに二度と約束の地に帰れません。愛息ヨセフへの愛情、大国エジプトへの好奇心、知らない土地やエジプト人からの差別への恐怖、一族の幸せを思う責任、約束の地を手放す悔しさ、さまざまな感情がうずまいています。
節目の時、節目の場所で礼拝をし、前を向いて歩こうとするヤコブのために、神が断続的に幻の中で現れます。「幻」が複数形であることから、ヤコブが眠れない夜を過ごしていたこと、そのヤコブに何回も神が現れ、励ましていたことが伺われます。それはベテルで野宿した時に彼に現れた神でした(28章)。またラバンの群れを養っている時に白昼夢の中で現れた神でした(31章)。
そして彼は言った。「ヤコブ、ヤコブ」。そして彼は言った。「見よ、わたしは(ここにいる)」。 3 そして彼は言った。「わたしは、かの神。あなたの父の神。あなたはエジプトへと下ることを恐れるな。なぜならわたしがあなたをそこで大きな国のために置くからだ。 4 わたしこそがあなたと共にエジプトへと下る。またわたしこそがあなたをまた必ず上らせる。そしてヨセフがあなたの目の上に彼の手を置く」。
2-3節に「そして彼は言った」が3回も繰り返されています。原文はあまり滑らかではありません。ここに間(ま)が読み取れます。神は何回も呼びかけ、最終的にそれに気づいたヤコブが返事をします。その返事の後にも、なかなか神の言葉は訪れず、断続的に語りかけがなされているように思えるのです。
このようなことはわたしたちの信仰生活の中によくあります。わたしたちは神の呼びかけにすぐに気づくことの方が少ないものです。感度の鈍い者たちです。むしろ人間同士の呼びかけや招きについては敏感です。ヤコブもそうです。ヨセフやファラオが呼んでいるから決断しようとするわけです。ヨセフは自分の父だから呼ぶ、ファラオは総理大臣ヨセフの父だから呼ぶ。人間同士は肩書きで呼び合う。それに慣れているので、人間の呼びかけにはすぐに応えがちです。しかし、神は「ヤコブ、ヤコブ」と根気よく固有の名前を呼びます。肩書きや他者との関係性を経由するのではなく、わたしたち自身に向かって直接、人格そのものに呼びかける神に気づくことが大切です。それは聖書を読む中で、また黙想の中で気づく呼びかけです。
神の呼びかけに気づいた者は、「見よ、わたしは(ここにいます)」と姿勢を正す必要があります。なぜなら神が、今・ここで・わたしのために下って来られているからです。もちろん同じ神は、ヤコブの妻たちにも現れることができる神です(この時すでにレアは死んでいるようです。49章31節)。アブラハムにもサラにも、イサクにもリベカにも、神は同じ用件で違うように現れることができました。その人に合った仕方で、固有の語りかけで神は人生の節目に励ましを与えます。その励ましは「生もの」であり、冷凍保存がききません。その場その時「わたし」にしか通用しない励ましが、神の言葉です。
「あなたは恐れるな」。父イサクが礼拝する神は、「イサクのおそれ」(31章53節)というあだ名を持つ神です。信者が恐れることを望む神です。ヘブライ語に「恐れ」と「畏れ」の区別はありません。ここには祖父アブラハムに虐殺されそうになった父イサクの信仰理解があるのかもしれません。22章14節「ヤーウェ・イルエ」は「恐れの主」とも解せます。神は恐ろしい方、超然とした「いと高き方」です。イサクの神を礼拝するヤコブは神と将来をおそれていました。神礼拝が将来への恐怖を増幅させていたのです。
神は自分のあだ名や性質を捨てます。「今・ここで・あなたは恐れるな。わたしを恐れるな。そしてエジプトに行くことを恐れるな。振り返ってヘブロンに戻るな」。聖書の神は信徒のために翻る神です。礼拝する者を遠ざける要素を、礼拝される神が自ら振り払い、自ら近づいて下さるのです。「わたしはあなたと共に」(4節)。高低差を濫用しない神。威圧しない神。わたしはあなたと共にいる。いと高い神、超絶した遠い神はヤコブのために低い神、共なる近い神となられました。実にイスラエルと共にエジプトに行くとまで言うのです。この神はアラムにもヤコブに伴い(28章15節)、アラムから約束の地にもヤコブに伴い(31章3節)、そして約束の地からエジプトへも伴う神です。
さらに神は将来にわたる約束もしています。それはヤコブの葬式についての約束です。神は、ヨセフを使ってヤコブをヘブロンにある先祖の墓に埋葬することを約束しています。それが、「わたしこそがあなたをまた必ず上らせる。そしてヨセフがあなたの目の上に彼の手を置く」(4節)という言葉の意味でしょう。この言葉はエジプトで死ぬ覚悟を持つヤコブに大いなる慰めとなります。
神はイスラエルにエジプトでの使命をも与えています。それは超大国エジプトの中で「少数者として生きる」という使命です。3節をほとんどの翻訳が新共同訳のように「大きな国民(ゴイ)にする」とします。多分12章2節のアブラハムに対する約束にひきずられた訳です。厳密に動詞レベルまで一緒の表現は21章18節、イシュマエルに対する約束です。そしてそこも、「大きな国民のために置く」と訳しても良い箇所です。イスラエルはエジプトで大きな国民にはなりませんでした。奴隷とされただけです。ダビデ王朝のときに約束の地で大きな国民になったと言えるのです。だから神から与えられた使命は、エジプトで多数になることではなく、宗教的少数者として生きることです。共にいる神をヤコブはエジプトでも礼拝せざるをえません。それによってイスラエルはエジプトに仕える。多様性を確保させるために地の塩となるということです。この新たな使命は老ヤコブをも奮い立たせます。エジプトに助けてもらうというだけではなく、エジプトのために住むという積極的意義が与えられたからです。
5 そしてヤコブはベエル・シェバから立ち上がり、イスラエルの息子たちは、ヤコブ彼らの父と彼らの小さな者たちと彼らの妻たちとを、ファラオが彼を乗せるために送った荷車に乗せ、 6 彼らは彼らの家畜と彼らがカナンの地で獲得した財産を取り、ヤコブとすべての子孫は彼と共にエジプトへと来た。 7 彼の息子たちと彼の息子たちの息子たちが彼と共に(いた)。彼の娘たちと彼の息子たちの娘たちと彼の子孫すべてを彼は彼と共にエジプトへと来させた。
一夜明けて、ヤコブはおそれから解放されて、さわやかに立ち上がります。1節の「出立」は旅に出るという意味合いですが、5節の「立ち上がる」は「起きる」「復活する」という意味合いです(クム)。神の幻と言葉が彼を新しく生まれ変わらせます。父ヤコブのさわやかな表情を見て、息子たちも奮い立ち、ヨセフから贈られた上着を羽織ります。そしてファラオから贈られた数十台の荷車に、何十人もの家族を乗せてロバに引かせます。多くの羊や山羊などの家畜も引き連れています。壮観です。
6-7節には「彼と共に」という言葉が3回も用いられています。文脈上は、彼はヤコブを指します。しかしどうでしょうか。ベエル・シェバでヤコブに現れた神は「威圧しない同伴者」でした。ヤコブはこの神理解を子どもたち孫たちに引き継がせたかったのではないでしょうか。イスラエルの息子・娘たちと、神が共にいたと思います。ヤコブと全子孫は神と共にエジプトに来、ヤコブは全子孫を神と共にエジプトに来させたと、わたしは思います。ヤコブは自分に現れた神について全子孫に伝道したのです。
今日の小さな生き方の提案は、生涯挑戦者として生きるということです。神ご自身が翻る方です。この方が常に共におられるので、わたしたちは常に固定観念が揺さぶられます。得たと思った瞬間に自分の手からするりと抜けていく。真理とか、生き方とか、神理解というものは、そのような類のものです。
「ヤコブ、ヤコブ」という神の呼びかけに敏感でありたいと思います。大飢饉、家族存亡の危機にあって、ヤコブはなんとか生き延びようとしてあがき、苦渋の決断を重ねていました。迷いがあり、眠れない夜も過ごしています。その白髪のヤコブを背負い、決断を認めて新しい人生の後押しを、常に共にいる神がなさいました。ヤコブの神・共にいる神に気づいて、その方を改めて信じ直し、新しい一週間をさわやかに始めていきましょう。