ヤコブとヨセフ 創世記46章28-34節 2020年5月31日礼拝説教

28 そしてユダを彼は彼の面前にヨセフのもとに送った、彼の面前でゴシェンへと教示するために。そして彼らはゴシェンの地へと来た。

 ヤコブは四男ユダに対する信頼を厚くしています。彼がヤコブとの約束をきちんと守って、末弟ベニヤミンを自宅に連れ戻すことに成功したからです。兄弟たちはヨセフにひどいことをした一部始終を父に告白したはずです。その中で、ルベンやユダだけはヨセフの命を救おうとしていたことも聞かされたことでしょう。またユダの演説がヨセフの心を動かしたことをも聞かされたことでしょう。こうしてユダは実質的な長男に上り詰めます。ユダがヤコブの家の代表代行として、ゴシェンの地のどこに一行が滞在しているかを教えるために、一人だけ先にヨセフのもとに行きます。ヤコブだけではなく、ヨセフもまたユダを信頼し、ヤコブの家の代表代行(大使)とみなしています。

 五書は一年間かけてユダヤ教の安息日礼拝で読み終わるように区分されています。44章18節(ユダの演説開始)から47章27節までが、一回の礼拝で読まれる一区分です。礼拝の中で47章27節までを読んだ後に、関連する預言書の一句エゼキエル書37章15-28節が読まれます。ユダの子孫とヨセフの子孫が一つになる希望が語られる場面です。ユダの子孫南ユダ王国と、ヨセフの子孫北イスラエル王国は、朝鮮半島のように分断国家として対立しました。そしてどちらも大国に滅ぼされました。倒された二つの木の切り株から芽が出て、二つは一つの大木となる。37章以下のヨセフとユダの物語を、ユダヤ人たちは大きな希望と重ねて読みました。エゼキエル書と五書の成立は同じ頃、同じ場所です。バビロンの地の会堂礼拝が、聖書をつくっていったのです。

29 そしてヨセフは彼の馬車に(馬を)繋ぎ、彼の父イスラエルに会うためにゴシェンへと上り、彼のもとに現れ、彼の首の上に落ち、再び彼の首の上で泣いた。 30 そしてイスラエルはヨセフに向かって言った。「この時に私は死にたい。私があなたの顔を見た後に。なぜならあなたが再び生きているのだから」。 

 ヨセフはユダを迎え、ユダを自分の馬車に乗せて、ゴシェンへと向かいます。この馬車は、ファラオから与えられた「第二位の馬車」です(41章43節)。兄弟たちに与えた「荷車」とは単語が異なります。ラケルの子孫代表と、レアの子孫代表が並んで座り、全イスラエルを救うために馬車を飛ばしています。

 ゴシェンはエジプトの中でもかなりカナン寄りの場所です。そしておそらくエジプト人が少ない地域です。ヤコブの家が多くの羊を放牧しても、それほど目立たない場所を、ヨセフは予め計画し提案していました(45章10節)。政治家であるヨセフは、エジプト国家が羊飼いを差別していることをよく知っていました(34節)。そして、飢饉対応担当大臣であるヨセフはそのゴシェンにも小麦の貯蔵庫があることを知っていました。彼がそれを建てたからです(41章48節)。だからゴシェンに住むことが親孝行になるとヨセフは考えます。

 足の悪いヤコブが待つ中、エジプトの総理大臣専用車が到着し、ヨセフとユダが降り立ちます。ヤコブの目は、父イサクとは異なり、老齢であっても見えていたようです。「(ヨセフが)現れた」の直訳は「見られた」です。しばしば神が登場するときの婉曲表現として用いられます。父子の上下関係がここでは破られています。たとえばエサウとヤコブの再会場面や(33章4節)ヨセフとベニヤミンの再会場面と(45章14節)、本日の箇所はよく似ています。そこでは目上である兄が弟の首の上に落ち、泣きます。単語レベルで一致しています。放蕩息子の譬え話においても、神の譬えである「父親」が走りよって、「弟息子」の首を抱きます。つまりここでヨセフは神に譬えられています。ヨセフはヤコブにとって神々しい。こうしてかつてヨセフが見た夢が実現します。父もまたヨセフを礼拝するのです(37章9-11節)。

 ヤコブは、愛妻ラケルの長男であり、ラケルにそっくりのヨセフを特別に可愛がっていました。しかし自分の軽率な命令によって、突然失ってしまいます。野獣に咬み殺されと思い込んで二十数年を過ごしていました。死んでいたとばかり思っていましたが、飢饉が起こったことをきっかけにエジプトで生きていることが分かりました。十七歳の時のヨセフの姿がヤコブのまぶたには冷凍保存されています。四十歳を超えたヨセフはどのような姿になっているのか。ヤコブは「復活者」に会います。その復活者は、変貌を遂げた人物です。縞模様の七色の服を着た少年ではなく、総理大臣の服を着て、エジプト流に髪と髭を剃り上げた政治家・行政官です。エジプト国家の経済を切り盛りし、カナンの地の民までも救済する人物です。ヤコブは救い主を拝みます。

 かつて神の顔を直接見ても死ななかったヤコブが(32章31節)、ヨセフの顔を見た後に「この時に私は死にたい」と言います(30節)。なぜなら、ヨセフが「再び(オード)生きているから」。死んでいた息子が、よみがえった。周りにいた兄弟たちはヨセフが「あなたたちの父はまだ(オード)生きているか」と繰り返し問うていたことを思い出します(43章27節、45章3節)。ヨセフはヤコブに向かっていつもそう思っていました。「まだ生きているか」と。しかし同じ言葉がヤコブからヨセフに向かう時、二重の意味が与えられます。「まだ生きている」だけではなく、「再び生き返った」という意味です(45章28節も)。ヤコブの中では二十年以上この息子は死んでいたからです。ヤコブはキリストのような復活者と出会ったのです。

兄弟たちの中では、自分たちが殺したヨセフがエジプトによってよみがえらされたという図になります。ヨセフは「復活」後、報復をしないで自分たちを見つけ出して親切をする寛容な兄弟です。もう誰もヤコブの愛情を欲しがって嫉妬しません。ユダをはじめ兄弟たちは胸を打ちながら、「神さま、罪人のわたしをおゆるしください」と悔い改めながら、神に感謝をします。兄弟たちはキリストのような、罪を赦す神に出会ったのです。

兄弟たちの妻たちにとってはかつて良い噂を聞かない義理の兄弟でした。「あいつは悪霊に取りつかれている、失礼な夢を吹いて回る」。その子どもたち、孫たちにとってはほとんど覚えていないか知らないエジプト人男性です。しかしこの人々は、ヨセフを救い主として認識しています。自分たちに無尽蔵のパンを与えてくれたからです。子どもたちは、キリストのような永遠のいのちを与える方に出会ったのです。

ヤコブの家(神の民イスラエル)は、時空を超えてヨセフを通してイエス・キリストに出会っています。復活者、罪を赦す方、命のパンを与える方です。

31 そしてヨセフは彼の兄弟たちに向かって、また彼の父の家に向かって言った。「ファラオのために私は上り、告げ、彼に向かって言いたい。『カナンの地に(いた)私の兄弟たちと私の父の家が私のもとに来た。 32 そしてこの人々は羊を飼う者たち(だ)。実際彼らは家畜の人々となった。そして彼らの羊と彼らの牛と彼らに属するすべて(を)、彼らは連れてきた』と。

 ヨセフは自分を取り囲んでいる百四十人以上の人々に向かって大声で言います。自分がこれから何をするのかを予告します。この総理大臣専用車に乗って、「ファラオのもとに上る」とヨセフは言います。物語は今まで一貫してカナンの地に「上り」、エジプトの地に「下る」としていました(4節等)。カナンが中心という発想です。しかし、ヨセフはここで初めてファラオのいる場所が首都であり中心であることを明示します。ヨセフはここでヘブライ人仲間の顔ではなく、エジプトの総理大臣の顔になっています。

ヨセフは、自分が現人神であるファラオに直接会って政策を進言できる立場にあることを示し、ファラオに言う予定の言葉を予告します。最初にファラオにヨセフが言う言葉はかなり率直な事実そのものです。カナンの地にいたヨセフの兄弟と父の家が移住することは、ファラオもすでに認めていることです(45章17節以下)。問題となるのはその後です。ヨセフが、ヤコブの家は羊飼いでる、もう少し曖昧に言えば「家畜の人々となった」と紹介するというのです。そしてヤコブの家が羊を連れてきたということは、ヨセフだけがこっそりファラオに言って根回しをしておくというのです(47章1節)。

33 そしてファラオがあなたたちのために会う時に彼が言うということが起こる。『何があなたたちの仕事か』。 34 そしてあなたたちは言うべきである。『あなたの奴隷たちは幼い時から今まで家畜の人々となった。私たちも、私たちの父祖たちも…』と。そのためにあなたたちはゴシェンの地に住むことができるだろう。なぜならすべての羊を飼う者たちは、エジプトの禁忌だから(だ)」。

 次にファラオから直接職業について尋ねられた時には、「羊飼い」と言うなというのです。「家畜の人々となった」と曖昧に答えておけと、ヨセフはヤコブの家全体に言い含めます。そうすればかろうじてゴシェンの地をあてがわれて、エジプトに定住が許されるだろう。これはヨセフの政治的判断です。

 「エジプト国家は羊飼いに永住権を認めたくはない。いくら総理大臣の親族でも大手を振って羊飼いを歓迎できない。ファラオも宮廷で羊飼いの移住許可を公言できないはず。『羊』という言葉も『羊飼い』という言葉も口が裂けても言うな。下手をするとゴシェンの地にすら住めなくなるぞ。ここは権力者である自分に任せておけ。ファラオには誰もいないところで話をつけておくから」。自分が権力の中枢にいることによる「嫌らしさ」がヨセフに見えます。

 来週取り上げるとおり、兄弟たちはヨセフの段取りに従いません。羊飼いという職業に対する誇りがそうさせたのだと思います。ヨセフの最後の言葉、「なぜならすべての羊を飼う者たちは、エジプトの禁忌だから(だ)」は、ヤコブの家全体を傷つけました。ラバンのもとで苦労して羊を増やしたヤコブやラケルの人生への全否定です。原文には鉤括弧がありませんので、ヨセフの発言がどこまで続いているのかは、読者の判断によります。ここではヨセフの発言に含まれると解します。ヨセフは隣人の感情をよく分からない人間なのです。エジプト人権力者として外国人とその文化を貶めています。

 キリストを映し出す人物でさえ次の瞬間ヘイトスピーチをしてしまう。聖書は人間の現実をよく示しています。わたしたちもまた、そのような罪人です。ヨセフもまだ成長の過程にいます。わたしたちも日々の悔い改めが必要です。

 本日ペンテコステの日に寄せて小さな生き方の提案は、自由に働く神を信じるということです。神がヤコブになぜここまで波乱万丈の人生を与えたのか理由はわかりません。ただ一貫していることは、出来事の後ヤコブがいつも感激し、その出来事をよく覚えているということです。この瞬間のために生きているという姿勢が貫かれています。そこに彼の自由の源があります。今を大切にしているのです。このヤコブの自由は、神の自由と対応しています。共におられる神が自由なので、その風に乗って、つられてメソポタミアへもエジプトへも行き、強烈な出会いと出来事をあえて引き受けていきます。その最後が息子を拝むという姿。家長にはありえない行為ですが、自由なヤコブにはできます。今日、共に霊である自由な神を吸い込んで一週間を始めましょう。