ヤコブの祝福 創世記48章5-16節 2020年6月28日礼拝説教

5 「そして今、私があなたのもとにエジプトへと来るまでに、あなたのためにエジプトの地で生まれている二人のあなたの息子、彼らは私に属する。エフライムとマナセは、ルベンとシメオンのように私に属するものとなる。 6 そして彼らの後であなたが生ませるあなたの子孫はあなたに属するものとなる。彼らは彼らの相続地で彼らの兄弟たちの名前に関連して呼ばれる。

 本日の箇所は二人の孫のお見舞いに対するヤコブの応答です。孫を自分の子どもにする養子縁組を今ここで行おうというのです。ヤコブはヨセフ(「倍」の意)に倍の土地・子孫を与えたいと考えています。

 ルベンとシメオンはレアを母とするヤコブの長男と次男です。全体の子どもたちの中の出生順位一位と二位です。ここでヤコブは、ヨセフとベニヤミンという愛妻ラケルの長男と次男を、ルベンとシメオンにすげ替えることもできました。アブラハムとサラが行ったようにハガルとイシュマエルを追放するという考え方です。ヤコブはそうしません。もっとヤコブは急進的です。出生順位一位の者が全てを相続するというルールを廃止します。一人にだけ祝福するのを止めます。自分が嫌な思いをしているからでしょう。すべての息子たちに(娘を除いているのは大問題ですが)祝福を分け与えます(49章)。その腹案を持ちながら、孫を子にするという養子縁組を思いつくのです。そうすればヨセフは倍の相続を得るからです。子沢山であるベニヤミンは無視して(46章21節)、二人しか息子がいないヨセフにのみ恩恵を施します。

 さらに、ヤコブがエフライムとマナセの生まれ順を交代させることも目論んでいることが、明らかに示されています。「マナセとエフライム」と呼ばずに、「エフライムとマナセ」と二人を呼んでいるからです(5節)。ヤコブは聖書の神の定めるルールを知っています。後の者が先になるということ、些少な者が大いなる者になるということ、兄が弟に仕えるということ、王になりたい者は僕にならなければならないということです。

7 そして私がパダンから来る時に私の上でラケルは死んだ、カナンの地で、エフラトへと来るための地の距離がまだ(残る)道で(死んだ)。そして私は彼女をそこにエフラトの道に葬った。それはベツレヘム(だ)」。 

 愛妻ラケルの思い出話は文脈上浮いています。なぜヤコブは突然思い出したのでしょう。ラケルの死んだ場所のエフラタが、エフライムと同じ根っこの言葉だからだと推測します。エフライム(「(苦労が)実る」41章52節)という命名は、ヨセフが母の死んだ場所を覚えていたことに由来します。ヤコブはヨセフからその命名の由来を聞いていたことでしょう。いや、聞くまでもなく察していたでしょう。ラケルは姉レアに結婚の順番争いと、それに引き続く出産争いで敗れました。年の順の悔しさを、ヤコブもラケルも経験しています。次男エフライムを長男にしたいというヤコブの気持ちは、家父長制(生まれ順優位の世界)に対する挑戦であり、ラケルに敬意を払う行為です。彼女を記念して、ヤコブはエフライムへの偏愛を示します。

8 そしてイスラエルはヨセフの息子たちを見、言った。「これらは誰か」。 

9 そしてヨセフは彼の父に向かって言った。「彼らは私の息子たち、神が私のためにここで与えたところの」。そして彼は言った。「どうかあなたは私のもとに彼らを取れ。そうすれば私が彼らを祝福する」。 10 そしてイスラエルの目は老齢により重かった。彼は見ることができない。そして彼は彼のもとに彼らを近づけた。そして彼は彼らのために口づけし、彼らのために抱き、 11 イスラエルはヨセフに向かって言った。「あなたの顔を見ることをわたしは期待しなかった。そして見よ。神はあなたの子孫をも私に見せた」。

8・11節と9節は矛盾します。ヤコブは目が見えるのでしょうか、見えないのでしょうか。イサクのように「目がかすんだ」とは書いていません。27章1節とは単語が異なります。「目は老齢により重かった」ということは、おそらくまぶたが目にかぶさっている状況だと思います。視力は十分あるけれども、上の方が見にくいということでしょう。8節で、ヤコブは目をかっと見開いて、孫たちを見ます。それに続く言葉は、養子縁組の儀式のための定型文です。分かりきっている質問、「これらは誰か」。それに対して分かりきっている回答、「彼らは私の息子たち」が続きます。それに対してもさらに分かりきっている命令「彼らを私のもとに取れ。そうすれば祝福する」が続きます。本来の定式は一人を対象にした、遺産相続のための養子縁組の式文だったのでしょうけれども、ヤコブはこれを二人にあてはめます。だからこそこの祝福の様子は、イサクからヤコブへの一子相伝の祝福とよく似ています(27章26節)。

11節のヤコブの言葉には、彼の人生が詰まっています。鍵語は「見る」です。変装して見られないことを利用したヤコブ。目の弱いレアと結婚したヤコブ。夢で何度も神を見るヤコブ。神の顔を直接見ることができたヤコブ。ラバンやエサウの顔を見ることを恐れたヤコブ。現人神ファラオを堂々と見るヤコブ。そのヤコブがヨセフとヨセフの子どもたちを見ることができた幸いをかみしめます。見ることを諦めていたことを、神は現に見せてくれる方です。

12 そしてヨセフは彼らを彼の両膝と共なるところから出し、彼の鼻を地へと向けて礼拝し、 13 ヨセフは彼ら二人を取った。エフライムを彼の右手でイスラエルの左側に、そしてマナセを彼の左手でイスラエルの右側に。そして彼のもとに近づけた。 14 そしてイスラエルは彼の右手を伸ばし、エフライム――彼は些少な者――の頭の上に置いた。また彼の左手をマナセの頭の上に(置いた)。彼は彼の両手を思慮深く動かした。なぜならマナセが長男だからだ。

 養子縁組の儀式は続きます。12節の「彼の両膝」がヤコブのものかヨセフのものかは意見が分かれますが、多分ヨセフでしょう。実父ヨセフの膝の間から儀礼的に「出し」、養父となるヤコブから祝福を授けてもらうというのが儀式の流れだったと推測します。だから若者たちが祖父/父の膝の上で甘えているという状況ではありません。そして実父ヨセフは鼻を床につけるように礼拝する。この所作もこの儀式の習わしだったのでしょう。その後、養父が養子の頭の上に手を置いて祈ることで養子縁組が完成します。

 ヨセフは気をきかせて長男マナセがヤコブの右に、次男エフライムがヤコブの左にくるように手をとって前に進ませました。ヤコブにはその意図が分かっていますし、孫の大きさの違いは見えています。右手の方が優位にあるというのが古代西アジア社会の常識でした。ポティファルの筆頭執事だったヨセフは、細かい気配りができる人物です。マナセの方により大きな祝福をと、ヨセフは常識的に望んでいたのでした。

 ヤコブは常識はずれの人間です。彼は最初から弟エフライムに、兄マナセより大きな祝福を与えようと目論んでいました(5節)。それは彼の生涯の主題です。「些少な者(ツァイル)」(14節。25章23節)として馬鹿にされる者を神は選ばれるし、仮に神に選ばれなければ自分自身で神の祝福を獲得し自分の尊厳を回復すれば良いのです。神の国は激しく襲われるべきものです。ヤコブは両手を慎重に動かし、想定していた通りに交差させて、右手を些少な者エフライムの上に置き、左手を長男マナセの上に置きました。

15 そして彼はヨセフを祝福し、言った。「私の父たちアブラハムとイサクが彼の面前で自由に歩き回った神が、私の始めから今日まで私を牧している神が、 16 災いの全てから私を贖っている天使が、かの若者たちを祝福するように。そして私の名が彼らの中で呼ばれるように。そして私の父たちアブラハムとイサクの名が(呼ばれるように)。そしてかの地の真ん中で多数に(魚群のように)増えるように」。

ヤコブは「ヨセフを」祝福します。ここに不自然さを感じたギリシャ語訳は「彼らを」と修正しますが、もともとヨセフに倍の祝福を与えるというヤコブの意図から考えれば、ヨセフを祝福するという表現は不自然ではありません。

ヤコブの祝福は三重の呼び方で「ヤコブがとらえた神」「ヤコブをとらえた神」への信仰を言い表しています。ここにヤコブの信仰生活が詰まっています。

第一に、信者は神の前で神と共にあたかも神なしで自由に歩き回ることができるという信仰です。「自由に歩き回る」は「歩く」という言葉の再帰談話態。自分自身のために歩くという意味です。アダムを探す神がエデンの園で同じように歩いています(3章8節)。自由な神の前で、私たちも自由に生きることができます(6章9節、17章1節)。ヤコブの常識はずれの行動の源です。

第二に、神が羊飼いであり信者はその羊であるということです。ヤコブは一生涯羊飼いとして生きました。職業が人格をつくります。職業は当然神理解に影響を与えます。胎内にいる時から、足が悪くなって、さらに白髪になるまで、自分を背負ってくれる神をヤコブは信じていました。これは日常的な養いです。

第三に、神の使いはすべての苦難(非日常的苦しみ)から救い出してくれる贖い主であるということです。ヤコブはしばしば神だけではなく神の使いを見ます(28章12節、31章11節、32章2節)。これはアブラハムやイサクにはないヤコブの特徴です。「贖う」(ガアル)は親戚の責任を果たすという意味が強い動詞です。たとえば家を絶やさない責任や、殺害された親戚に対する報復も含まれます。神から遣わされた者は親戚仲間意識で、私たちを危機から救い出す贖い主であるとヤコブは信じています。この信仰告白は、ナザレのイエスへの信仰の基礎をなすものです。神からのメシアであり、「人の子」と自称して親戚仲間・人間仲間の責任を果たす方が贖い主です。

自分の信仰生活すべてが詰まった神からの祝福を二人の孫に与え、孫を息子たちと同列に押し上げたヤコブは、一貫して常識はずれの族長です。そこで常識はずれな動詞を祝福の言葉に織り込みます。それが聖書に一回しか出てこない言葉、「(魚群のように)増えるように」という願いです。イメージはナイル川に泳ぐ魚たちではないでしょうか。老羊飼いヤコブはナイル川のほとりに佇み、漁師たちの労働ぶりを見ます。ナイルの賜物エジプトの真ん中(権力の中枢)で増えよ、しかし、エフライムとマナセもイスラエルの一部として、エジプトから出て行くべきだということを、ヤコブは預言しています。

今日の小さな生き方の提案は、自分の生活や人生に引きつけて神を呼ぶということです。私たちの神理解は、結局私たちの生き方とべったりくっついています。それで良いと神ご自身が認めています。自由な神に似せて、私たちも自由に神がどのような方であるかを発想して良いのです。中学生のような神は、中学生である信徒に共感し仲間になる神です。公務員、被用者、自営業者、家事労働者などなど私たちは自分に引きつけて、私の信じる神はこのようなイメージを持ち、このような救いを与えてくださると告白し礼拝できます。なぜならナザレのイエスは、赤ん坊になった神だからです。

私たちと同じ目線の神が、今日私たちを祝福しています。あなたの川で魚のように自由に生きなさい。この際、魚のマークがキリスト者の象徴であることは示唆深いものです。河や川は大小さまざまな社会、魚の群れは教会(新しいイスラエル)、群れのリーダーの魚はキリストです。