20 「というのもそれは詩編の書に書かれていたからだ。『彼の囲いは荒れるようになれ。そしてその中に住む者はいなくなれ』。また、『彼の監督職を他の者(男性)が受け取るように』。
著者ルカの注釈(18-19節)からペトロの発言に戻ります。ペトロは旧約聖書の中から、現在の自分たちの状況を打開する解決策を探し詩編に行き当たりました。それは詩編69編26節と109編8節です。彼ら彼女たちが使っていた聖書はギリシャ語訳聖書だったのでしょう。この二つの箇所が、ヘブライ語本文(新共同訳も底本にしている)よりもむしろギリシャ語訳に近いからです。潜伏していた弟子たちは、ヘブライ語旧約聖書を見たのではなく、市場に出回っていたギリシャ語訳旧約聖書を宿屋で見て、ぴったりの聖句を探し事態の解決を図りました。ガリラヤ人たちはギリシャ語に堪能です。
ユダの死と彼の買った土地が「血の土地」と呼ばれることは、詩編69編26節に予告された神の定めた出来事だった、またユダの生き方は不幸であるという確信をペトロは持ちます。そして、さらに読み進めて 109編8節には、使徒職の欠員に対する対応策が示されていると、ペトロは考えます。その対応策は補充をするということです。いわゆる補欠選です。「使徒の仕事はユダでなくてもできる」という判断がここにあります。「この人でないとこの仕事はできない」とは考えないというのです。イエスが選んだ人でさえ。
ここにくじ引きの一つの根拠があります。誰でもできるのならば、誰にでも公平に機会が与えられても良いのです。
「数える」という単語が17節にも26節にも用いられていることから、ペトロがこだわっていたのは使徒の数です。十二人でなくてはいけない。なぜならそれはヤコブ(イスラエル)の息子が十二人いたからです。わたしたちが最近まで読んできたヤコブとその家族の物語で書かれているとおりです。そこから「十二部族」へと発展しイスラエル民族ができたことは、ユダヤ人ペトロの頭の中にしっかりと埋め込まれています。ペトロにとって「新しいイスラエル」である教会は「十二人の成人男性」が中心になるべきなのです。
このペトロの考え方は男性中心の権威主義や、民族主義・ユダヤ人至上主義に陥りやすいものです。すべてユダヤ人のみによって成った最初のキリスト教会には権威主義と民族主義が強く根を下ろしていました。そしてペトロの頭の中には「女性や子どもが使徒になるという可能性」がなかったことも明らかです。誰にでも機会があるはずなのに、ペトロは補欠選の枠組みを勝手に成人男性に限っています。詩編109編8節「他の者」は男性形なのです。著者ルカは大いなる違和感をもって、この記事を記しています。ルカがギリシャ人であったからだし、彼の出身教会フィリピの教会ではリディアという女性が最高指導者だったからです(16章)。
21 それだから次のことが必要だ。(すなわち)我々に接して主イエスが来たり行ったりした全期間において我々のために共に来ている者たちの中から、 22 ――それはバプテスマのヨハネから彼が我々から取り上げられた日々まで(の全期間)―― これらの者たちから一人が我々と共に彼の復活の証人となること(が必要だ)」。
21節と22節は一文の中で入り組んだ内容が含まれているので、日本語訳では節の区分が難しいものです。私訳はできる限りギリシャ語の語順を意識しながら節を分けたものです。冒頭「必要だ」(ギリシャ語dei)は22節の最後までかかります。「神の必然」と呼ばれる表現です。たとえば、イエスは徴税人ザアカイに「今日私はあなたの家に泊まらねばならない」(ルカ19章5節)と呼びかけます。それは神が定めている必然的な出来事なのです。
神の必然を信じるペトロの確信に満ちた提案は、「イエスに最初から従ってきた成人男性たちの中から補欠使徒を選ぶべきだ」というものです。候補者要件です。21節は、復活された後の四十日間一緒にいる仲間のように読めますが、22節になるとイエスの活動の最初から今まで一緒にいる仲間というように、要件がさらに厳しくなっています。もしも「バプテスマのヨハネから」を起点にするならば、厳密にはイエスの活動の前にさえなります。ヨハネ福音書によればペトロとアンデレの兄弟は、当初バプテスマのヨハネの弟子でした(ヨハネ1章35節以下)。「バプテスマのヨハネから」という言葉は、ペトロの辿った人生を映し出しています。そしてイエスがヨハネからバプテスマを受けたという史実にも忠実な言い方です。
弟子として長かった成人男性が補欠使徒になるべきだというペトロの主張は、候補者が絞られることになるにもかかわらず、一定の説得力を持っていました。だからその場にいた人々は男性も女性も大人も子どもも説得され、誰も反論をしていません。この時点のペトロの主張が説得力を失うのは2章の聖霊降臨や、6章の執事選出という出来事後からです。ルカはペトロの成長も描いていきます。
23 そして彼らは二人を立てた。バルサバと呼ばれているヨセフ――(彼は)ユストと呼称された――とマティア(を)。
23節の主語を「彼は」とする写本もあります。この場合、ペトロが二人にまで候補者を絞って、会衆の前に立たせたということになります。この写本(とそれを用いていた教会)はペトロの権威を強めたいという立場を採っています。ペトロは古代カトリック教会によって初代教皇に祭り上げられますから、後世のこの類の本文修正は大いにありえます。だから元々の本文は「彼らは」だったと思います。事実としては全体がペトロに説得され、百二十人の者たちが「バプテスマのヨハネから」今に至るまでいる成人男性のうちから二人まで絞ったのでしょう。この条件だと、イエスの母や兄弟は候補者から除かれます。途中で弟子になったからです。その一方、女性たちも子どもたちも候補者を絞って推薦するという権力を持っていたということになります。
ヨセフとマティアとはどのような人だったのでしょうか。ヨセフは、アラム語でバルサバ(シェバの子)とも呼ばれ、ラテン語・ギリシャ語名ではユストという名前も持っていた人物です。二つの名前を持っていることは当時としては当たり前のことでした。サウル(シャウル)とパウロ、シメオンとシモンが同一人物であるのと同じです。マティアはマタティアという名前の短縮形です(ルカ3章25節)。この二人についてこれ以上の情報がないことは重要な視点をわたしたちに与えています。すなわち、「バプテスマのヨハネから」ずっと従っていた弟子たちは、十二人だけではなかったという事実です。無名・匿名の民が、イエスの神の国運動を支え、キリストの教会を支えているのです。
著者ルカにとって重要なのはこの視点です。教会を支えている人は、ある日突然、偶発的に脚光を浴びる匿名の「黙々と仕える人々」です。そのような人々は日替わりに登場しては消えるかもしれません。それが教会です。
24 そして(彼らは)祈って、彼らは言った。「あなた、主よ、全ての心を知る方よ、これらの二人の者からあなたが選んだ者一人を明示せよ。 25 ユダが彼自身の場所の中へと行くためにそこから離れた、この奉仕と使徒職の場所を受け取るために」。 26 そして彼らはくじを彼らに与えた。そしてそのくじはマティアの上に落ちた。そして彼は十一人の使徒たちと共に数えられた。
「使徒補欠選挙」の仕組み全貌が明らかになりました。①ペトロによる候補者の要件の設定、②会衆全体による候補者の絞り込み・推薦、③くじによる決定です。ちなみに当時のユダヤ社会においては、旧約聖書のくじ引きの伝統にもかかわらず(サムエル記上10章)、くじで代表者を選ぶ方法はあまり行われなかったと言われます。なぜでしょうか。くじ引きという方法は、身分制をゆるがすからです。その意味でくじ引きは民主的です。サドカイ派の神殿貴族はくじ引きを嫌がったことでしょう。
むしろ、ギリシャ・ローマ社会において、くじ引きによる選出が当時流行っていたようです。特に古代アテネでは、成人男性・自由人に限ってはいますが、くじ引きで役職を選出する伝統があります。法案を作る「五百人評議会」はくじ引き選出の市民議員、そして法案を可決する「民会」(ekklesia。「教会」と同じ単語)には誰でも参加できました。選挙は、アリストテレスにも18世紀市民革命家たちにも、貴族政・寡占統治をもたらすと自覚されていました。現在日本の世襲議員の多さを考えるとうなずける分析です。
ペトロたちは旧約聖書の精神に立ち返ってくじ引きを選びました。彼ら彼女たちは神の意思を知りたいと願っています。神の意思が唯一分かるのは神の子イエス・キリストだけです。キリストがいないという状況で、神の意思を知るためにはくじ引きが聖書的なのです。ギリシャ人ルカは、この出来事をかなり細かく描写しました。古代ギリシャの民主政治と、古代イスラエルの神政政治や神明裁判の伝統の合流が、非常に興味深かったからだと思います。
①ペトロによる候補者条件の設定、②会衆全体による候補者の推薦、③くじによる決定。この方式について、深掘りして考えてみましょう。民主政治とは「納得の調達」です。構成員全員にある程度の納得が配られれば、部分的に反対意見を持っている少数者も全体の流れを支持するものです。納得の調達という視点で考えると、①②③という過程は優れています。指導者は候補者の条件を示しますが、そこまでで力の行使を止めています。構成員は候補者を二人にまで選定するという最も重要な働きをしますが、そこまでで力の行使を止めています。最後の二者択一については祈って神に委ねています。しかしヨセフとマティアのうちどちらが選ばれても納得できる結果であることは予め決まっています。全員が重要な部分でマティアの選出に関わっているからです。自分たちのことを自分で決める「自治」ができているので、納得が調達されます。
残る問題は、最古参が古株のユダヤ人成人男性という条件を決めたことが適正かということや、十二という数字にこだわって補充をするという判断が適正かということです。興味深いことは、私たちが疑念を持つこれらの「不整」が後の物語で修正され整えられていくことです。6章ではギリシャ語話者という新参者七人がくじ引きなしで指導者に選ばれ、12章ではゼベダイの子ヤコブが死んでも使徒の補充がなされないのです。さらに非ユダヤ人教会の間では自由に「使徒」を名乗ることができました。初代教会は、代表の決め方を柔軟に変えていく群れでした。そのような小回りのきく自治が民会である教会の魅力です。
今日の小さな生き方の提案は、自治の仕組み・役職の選出方法を常に考え、絶えず改善するということです。民会であるバプテスト教会にはそれができます。くじ引きは専門性を必要としない役職の選任に向いています。指名は専門性を持つ役職の選任に向いています。選挙はその真ん中の仕組みです。教会や社会の事情に従ってそれらを組み合わせて、納得を調達すれば良いのです。
小選挙区制度は国会や政党内部を一強体制に変えました。選挙に勝てば何でも良いという風潮も助長しました。くじ引きは社会にユーモアを与えます。人生は偶発です。さまざまな分断の線引きをやすやすと越えて、神の意思を実現します。日常生活にも、くじ引きの要素を取り込みたいと思います。