邪悪なこの時代から 使徒言行録2章37-42節 2020年10月25日礼拝説教

37 さて(彼らは)聞いて、彼らは心を(下に)突かれた。またペトロとその他の使徒たちに向かって言った。「兄弟である人々よ、私たちは何をすべきだろうか」。 

 イエス・キリストの十字架と復活の物語は、ナザレのイエスの公開処刑を見聞きしていたエルサレムに住んでいる人々の心を突き刺します。あえて直訳すれば「彼らは心を下に突かれた」のです。ペトロの説教を聞いていた人は、十字架に磔にされたイエスの無残な姿を思い浮かべて心の中で見上げました。エルサレム住民の誰一人として義人イエスをかばいませんでした。

 この十字架が上から人々の心を下へと突き刺すのです。すべての人には良心があります。隣人の死に関与することは、私たちの良心に耐えられるものではありません。もし私たちが誰かの死や損害や被害を見殺しにするならば、私たちはナザレのイエスを再び十字架にかけています。この意味で、世界中でイエスは十字架にかけられ続けています。ヘイトスピーチを浴びせられる在日コリアンを「自分の事ではない」と無視する時に、私たちは同じ罪を犯しています。

神はイエス殺しの罪の責任追及をひとまず置いておいて(アフィエミ)、イエスをよみがえらせ天へと昇らせました。この天の神のあり方が、また神の右に座る神の子イエスが、人々の心を上から下へと突き刺すのです。

「兄弟である人々よ」(29節)。人々はペトロの呼びかけと同じ呼びかけをして、つまり同じ地平に立って質問をします。「私たちは何をすべきだろうか」。この質問は、ペトロたちが復活のイエスに向かって何度も発した質問だと思います。「私たちは何をすべきか」。あるいは、「何ができるか」「何が許されているか」とも訳せます。イエスを裏切り、見棄て、見殺しにし続けている私たちに、一体何が許され、何ができ、具体的に何をなすべきなのでしょうか。

38 さてペトロが彼らに向かって(言った)。「あなたたちは悔い改めなさい。そしてあなたたち各人はバプテスマを受けなさい、イエス・キリストの名前に基づき、あなたたちの罪の赦しへと。そうすればあなたたちは聖霊の賜物を受けるだろう。 39 というのも、かの約束はあなたたちへの、またあなたたちの子どもたちへの、また私たちの神である主が招いている、遠くにいる全ての者たちへのものだからだ」。 

 「あなたたちは悔い改めなさい」(38節)。悔い改めるという行為は、ヘブライ語まで遡れば「立ち帰る」という意味です。踵を中心に回れ右をして、逆の方向に歩み出すことです。放蕩息子が本心に立ち帰り、父のいる自宅に戻り、父に謝罪することが悔い改めです(ルカ福音書15章)。人生の生き直し、更生です。神が神の子殺しの罪の責任追及を、あたかも放置しているのは、人間が自発的に立ち帰ることを待つためです。放蕩息子の父親は、毎日門に立って息子が自発的に立ち帰るのを待っていました。すでに赦している(アフィエミ)神の前でこそ、きちんとした謝罪が必要です。

 バプテスト教会は、全身浸礼のバプテスマという儀式を「新生」と呼ぶことがあります。新しく生まれ変わるという意味です。『新生讃美歌』という讃美歌集の名称も、バプテストの強調点を示しています。バプテスマは悔い改めということをよく象徴している儀式です。

 このバプテスマはイエス・キリストの名前に基づく儀式です。なぜなら、私たちはナザレのイエスの十字架刑によって自分の罪を知らされているからです。そしてペトロは、バプテスマという儀式によってバプテスマを受けた教会員が諸々の罪の赦しへと至ると言い抜きます。そしてバプテスマという儀式を経ると聖霊が信者の中に与えられると約束しています。

 ①バプテスマ、②罪(複数)の赦し、③聖霊の付与という順番をペトロは言っています。この順番は、パウロやプロテスタント(バプテストも)の立場と異なります。①聖霊の付与、②罪(単数)の赦し、③信仰告白を伴うバプテスマという順番がバプテスト的でしょう。誰も聖霊によらなければ教会にも導かれないし、イエスを主と告白もできません。人間の儀式であるバプテスマに原罪を赦す呪術的な力はありません。つまり救われた者がバプテスマを受けるという考筋道こそ、「信仰義認」と呼ばれる考え方の王道です。

 では使徒言行録の示す順番には独特の意味があります。ルカ文書が「悔い改め」を重視していることも大切にしたいところです。ルカが描くペトロの説教の力点は、二つの連続する命令にあります。「悔い改めなさい」また「バプテスマを受けなさい」です。この二つが、「何をすべきか」という、罪を自覚している者たちの問いに直接具体的に答えています。

 人間は弱いものです。見えない神に罪が赦されている(全存在の肯定)という極めて抽象的な救いを実感することは難しいものです。そこに儀式の効用があります。イエス殺しをどのようにして謝罪すべきなのか、謝罪がキリストに受け入れられ、自分が赦されていることをどのようにして知ることができるのか。そして、イエス・キリストを礼拝する教会という交わりをどのようにして作ることができるのか。ペトロは人間の現実や、人間の組織というものを知っています。無条件の赦しを与え続けるカリスマ指導者のイエスがいない現実を埋めるのは、イエス・キリストの名前に基づく入信・入会儀式です。私たちは全身水に浸かって謝罪をし、水から上がって生まれ変わったことを体感できます。その際に、神がイエスをよみがえらせたことに倣って、他人によって水の中から起こされます。自分一人では決して生き直せない、神によって自分はよみがえらされるのだと信じるのです。こうしてバプテスマはイエスへの謝罪と、キリストによる赦し、つまり生き直すという救いを象徴します。

 ペトロはイエスがバプテスマを弟子たちに施していないことを知っています。ルカ文書によればバプテスマを入信・入会の儀式としたのはペトロたちの発案です。それは自分たちの罪の重さを深く自覚したための選択だったと思います。バプテスマのヨハネの説教を、ペトロは思い出しました。キリストへの誠実な謝罪なしに生き直せないという思いつめ方が、全身浸礼という形を採らせたのだと推測します。

 教会員となった者に与えられる聖霊の賜物は、ペトロたち百二十人に与えられた不思議な力です。聖霊によってどんな人も復活のイエスの証人になること、「イエスが主である」という告白を、世界の誰とでも一緒に公にすることができるようになります。自分の母語で語りながら同時にあらゆる言語で語る不思議な力。翻訳によって、あるいは言葉を必要としない愛の交わりによって、「イエスが主である」とわたしたちは誰とでも告白し賛美できます。時間的に遠く離れている未来世代にも、距離的に遠く離れている他文化の人々にも、神の招きは及んでいます。なぜなら神が全歴史の導き手であり、全世界の創り主だからです。そのためにガリラヤ出身の百二十人の老若男女と、エルサレムに住んでいる三千人の外国人たちが用いられます。

40 また他の多くの言葉も彼は証言した。そして彼は彼らに呼びかけ続けた。曰く、「この不正の時代からあなたたちは救われよ」。

 ペトロの証言は、くりかえし語られました。「呼びかけ続けた」は、以前も取り上げた未完了過去時制です。過去から過去への継続を示します。イエスがよみがえらされたことの証言は、「この不正な時代から救われよ」という一言にまとめられます。復活の主が、この時代から私を救ったという証言だからです。ペトロが個人の救い(自分の罪がイエスに赦されること)を、時代からの救い(悪へと仕向ける社会の仕組みからの脱却)というように言い換えていることが重要です。結局のところローマ帝国の軍事力に怯えて、あるいはユダヤ植民地政府・神殿貴族の弾圧を恐れて、誰もイエスの十字架を止めることはできなかったのです。十字架の問題は個人の裏切り(ユダやペトロ)というだけでは消化できません。力による支配という仕組みごと転換しなくてはいけません。そしてなるべく力による支配に加担しない個人を増やさなくてはいけないのです。「呼びかけ続ける」(パラカレオー)は、「励ます」「慰める」も意味します。英語のempowerです。時代に染まらない人を慰め増やし続け、時代を変えるために一人ひとりを励まし続ける。それが復活の主の証人の仕事です。

41 このようにして彼の言葉を受け入れた者たちがバプテスマを受けた。そしてその日に約三千の生命が加えられた。 42 さて彼らは使徒たちの教えと交わりとパン割きと祈りをしっかり続けた。

 百二十人の群れが、その日三千百二十人になりました。その大半は外国人です。こうしてルカはキリスト教が凄まじい速さで古代社会に広がった理由を説明しています。元々多言語・多文化だったから、という理由です。反目し合う彼ら彼女たちは、一つのバプテスマを受けています。そこで一人のキリストを着るので、もはや男もなく女もなくパルティア人もローマ人もなく、一つの交わりを形成できるようになります。

 ぎくしゃくしながら復活の主イエスを礼拝する共同体が始まります。42節は礼拝の原初の形だと思います。「しっかり続けた」という言葉が、毎週の礼拝の継続を示唆するからです。「教えを・・・しっかり続けた」は奇妙な表現ですが、「教え・交わり・パン割き・祈り」が一連の礼拝を指すならば、意味が通ります。今までイエスと共に弟子たちが行っていた礼拝は、ユダヤ人が行うようにユダヤ教の会堂や神殿で行うものでした。建物がない場合はイエスの信じる神(アッバ)をイエスの導きのもと礼拝していました。つまり弟子たちは生身のイエスを礼拝する群れではなかったのです。

しかしこれからは霊となったイエスを礼拝するわけです。三千百二十人は、大きめの家を持つ信徒が礼拝場所を貸すという形で、分かれて礼拝をします。使徒たちができる限り各礼拝場所を分担したと思います。共通項は、最初の讃美歌「イエスは主」を歌うことです。それ以外の要素は、「使徒たちの教え」(説教)、「交わり」(平和の挨拶)、「パン割き」(晩餐と愛餐)、「祈り」です。彼らは平日である日曜日の夜に毎週集まりました。大半は外国人なのですから旧約聖書を持っていない家もあったと思います。だから文字である聖書よりも、聖書を霊によって自由に解釈する「使徒たちの教え」が優位に立ちます。必ず敵対する民も平和の挨拶を交わし、同じテーブルで晩餐を囲みます。祈りには早い時期から「主の祈り」が成文祈祷として採用されていたことでしょう。使徒の仕事は生前のイエスの振る舞いを思い出し真似をすることです。

 今日の小さな生き方の提案は、「この不正の時代から救われよ」という証言を、私たちも礼拝を通して根気よく続けることです。個人の罪の赦しと同時に、この世界の悪からなるべく遠ざかることです。拝金主義、支配欲、自己肥大、さまざまな誘惑が毎日あります。毎週の礼拝が私たちの良心の防波堤であり、魂の隠れ場所です。教会で公正と平等を体験し、多様な一人ひとりが尊重されることを体験し、悔い改めて生き直す練習をするのです。賛美・祈り・説教・晩餐・平和の挨拶、これらが私たちを爽やかに清めます。日常犯す複数の罪が自発的な悔い改めへと導かれます。人を救う礼拝を続けましょう。