ソロモンの回廊にて 使徒言行録3章11-17節 2020年11月15日礼拝説教

11 さて彼がペトロとヨハネとを掴んでいるので、ソロモンの柱廊と呼ばれている場所にいる彼らに向かって、驚いている全ての民が共に走った。 12 さてペトロは見て、民に向かって答えた。「イスラエルの人々よ、なぜこのことについてあなたたちは不思議に思うのか。あるいはなぜわたしたちをあなたたちは注視するのか。私たち自身の力でもって、あるいは敬虔さでもって、私たちが彼を歩かせたかのように。 

歩けるようになった男性は片手でペトロ、片手でヨハネの腕を掴んで、「美しい門」と呼ばれる門から神殿の中へと入ります。かつて、イエスの右に座りたいと熾烈な争いをした二人が、一人の貧しい男性の左右に喜んで腕を組んで歩いています。かつて、十字架の左右に共に磔にされることから逃げた二人が、復活のイエスに出会って赦され、使徒として自ら隣人の手をとって起こし、共に並んで歩くようになっています。このことが奇跡です。

彼らが柱が何本も立っている廊下部分である「ソロモンの柱廊」と呼ばれるところに差し掛かった時に、多くの人々が走って近寄り、彼らの行く手を阻みます。この人々は、真ん中にいる男性が歩けなかったために毎日物乞いをしていたことを知っていました。だから驚いて野次馬になったのです。見れば二人の男性に抱えられているようにも、地に足をつけて歩いているようにも見えます。どちらだろうかとじろじろ見ながら野次馬は首をかしげています。中にはこの男性が歩けなかった男性と同じ人物かを吟味する人もいたことでしょう。

ペトロは、この機会を逃しません。「答える」は、ヘブライ語的用法です。言葉のやりとりだけではなく、相手の動きを見ながら自分から会話を始める時にも使います。だから話し始める人でさえも「答える」あるいは「応える」ことができます。人間とは応答的な存在であり、責任responsibilityとは正に応答するresponse能力abilityです。二人は最初からキリストの復活の証人となるために神殿に潜入していました。だから素早く応答できました。それが使徒としての二人の責任です。

ペトロはエルサレムの宿屋の二階から語ったのと同じように、堂々と神殿の中でも説教をします。ここには非ユダヤ人はいません。神殿に入ることが許可されていなかったからです。聴衆は「イスラエルの人々」(12節)ばかりです。ペトロは冒頭で、人々の誤解を解きます。私たち自身の力でもなく、私たち自身の敬虔さによってでもなく、彼は歩くことができるようになった。すなわち「私たちではなく神を見よ」ということです。

13 アブラハムの神、そしてイサクの(神)、そしてヤコブの(神)、私たちの先祖たちの神は彼の子イエスに栄光を与えた。その彼をあなたたちは実際引き渡し、またこの人を解放すると定めたピラトの面前であなたたちは斥けた。 14 一方であなたたちは聖なる者かつ義なる者を否定したのだ。そしてあなたたちは殺人者である男をあなたたちのために赦されるべく求めた。 15 一方で生命の主導者をあなたたちは殺した。その彼を神は死者たちからよみがえらせた。このことの私たちは証人である。 

 その神はアブラハムとサラの神、イサクとリベカの神、ヤコブとレア・ラケル・ビルハ・ジルパの神です。イスラエルの神です。イエスに「アッバ(父よ)」と呼ばれた神は、神の子イエスに栄光を与えました(13節)。どん底から起き上がらせ、よみがえらせたのです。同じように、歩けなかった人を神が起こしました。

 キリスト信仰は自己栄光化、「自分を見て」という名誉欲・自己顕示欲と正反対にあります。私たちは自分の敬虔さすら、時に自分の功績にしてしまうことがあります。何か困っていたところから助かった時に、自分の力・自分の敬虔さを誇るなら、その敬虔は十字架と復活には基づきません。私たちは神を見なくてはいけません。特にイエスをよみがえらせた神を見るべきです。ペトロの説教はうまくつながり、次の話題へ転換していきます。

 宿屋の説教は外国人たちに向かって死刑囚に対する無関心の罪を問うものでした。神殿の説教はユダヤ人たちに向かってイエスを裁判にかけて死刑に処した罪を問うものです。「引き渡し」(13節)はイエス逮捕と裁判のための専門用語です。イエスはゲツセマネの園でユダから引き渡され、大祭司カイアファの家に引き渡され、ローマ総督ピラトの総督官邸に引き渡され、ガリラヤの領主ヘロデの家に引き渡され、再びピラトのもとに引き渡されて、それぞれ裁判を受け、最終的に死刑判決を受けたのでした。

 ピラトはイエスの十字架刑をためらっていました。むしろ解放することを決めていたのです。このことは全ての福音書が証言しています。大祭司に煽られたユダヤ人群衆がイエスを殺すようにピラトに要求しました。そしてその大きな声にピラトは屈しました。この大声を上げた熱狂的エルサレム在住のユダヤ人たちは十字架への道で、また十字架上のイエスを嘲笑した人々でもあります。ペトロはこの群衆心理が「イエスを引き渡した」と明言します。

 エルサレム在住のユダヤ人にとって、日々のむしゃくしゃが解消されるならば誰の公開処刑でも良かったのかもしれません。ただし、よりスキャンダラスな出来事の方が消費するのに価値が高いものです。ガリラヤの奇跡行者、たとえ話の名手、徴税人や娼婦の友、神殿貴族やファリサイ派たちを鋭く批判する者、若手の宗教家、ナザレのイエスが死刑に処される方が、殺人犯の死刑よりも観るのに価値があります。野次馬にとってはそうでしょう。ローマ帝国の支配を受けているユダヤ人たちは日常の憂さを晴らすために、ピラトの面前でナザレのイエスを斥け、バラバ・イエスを採ったのです。ローマ総督ピラトの困ることをしたいという心理も働いていた可能性もあります。いずれにせよ彼らはイエスがどのような方であったのか、その中身についてあまり考えていません。ただ自分たちの一時の快感のためにイエスという人の生命を消費したのです。進んで煽られ軽はずみな解決(ストレス発散)をすることに罪があります。それは煽る者たちの罪と同種類です(17節)。

 このことは「聖なる者」「義なる者」を否定することでした(14節)。そしてこのことは「生命の主導者」を殺すことでした(15節)。イエス・キリストの称号が三つも挙げられています。イエスは宗教的に汚れているとされた人と触れ合い交わり、自ら汚れた存在になることができました(ハンセン病患者等)。こういう形で彼は神が聖なる方であることを示しました。浄/不浄を人間が決めることそのものが聖なる神の前に許されないのです。神になり代わって「聖なる尺度」を振りかざし、手を洗っていないから汚れているとか、うろこがあるから清いなどと判断をするところに宗教者の倒錯があります。神が聖であるということは、神になり代わることが誰もできないという意味です。神は隔絶された聖なる方です。

イエスは社会的な不正義を厳しく批判しました。特に貧しい人たちをさらに苦しめる人々を批判しました。富んでいる者・笑っている者・満腹している者は災いです。こうしてイエスは神が正義の神・公正の神であることを示しました。旧約聖書の預言者たちと同じ仕方です。

イエスは「生命の主導者」です。抽象的な永遠の生命へと導くのではなく、具体的な生命そのものを創り出し、具体的に生きているものすべてを導く方です。新約聖書にただ一度だけ用いられている称号「生命の主導者」は、イエスが創造主であることを告白しています。実に大胆な信仰理解です。その心は、ユダヤ人群衆の罪を深くえぐるためでしょう。創造主を殺すこと、生命を生み出す方の生命を奪うこと。これはあまりにも冒瀆的行為です。

「その彼を神はよみがえらせた」。こうして神は、自らがイエスと同じ性質を持っていること示しました。神は十字架で極めて汚いことが起ったことに反対します。不浄なこととはイエスに冤罪を被らせる行為です。神は十字架で不正義が起ったことに反対します。不正義なこととは義人イエスを処刑する行為です。復活は、十字架の不浄や不正義を否定することであり反論することです。そして神こそが生命の主導者であることの証明です。十字架で殺されたイエスを、死者たちの中から神がよみがえらせ、生命を与えたのです。

興味深いことにペトロは旧約聖書を一切引用していません。宿屋の説教と大きく異なります。その方が切れ味があります。神の子の復活は旧約聖書の枠を超えた出来事だから、復活の証人となるためには旧約聖書で根拠づけることは難しいと思います。

16 そして彼の名前の信実に基づき、あなたたちが見ているまた知っているこの男を、彼の名前が強めた。そしてそれ(彼の名前)を通しての信実は彼にこの完全な籤(所与の状態となったこと)を与えた、あなたたち全ての前で。 17 そして今や兄弟たちよ、私は知った、あなたたちが無知の下にあなたたちの統治者たちと同様にふるまったということを。」

 ペトロはナザレ人イエス・キリストの名前において「歩け」と命じました(6節)。この名前が三回も言及されています(16節)。初代教会が、イエス・キリストという名前にこだわる集団だったことが分かります。祈りの定式「イエスの名前によって」もそのことを示しています。名前というものはその人がそこにいることを示します。エルサレム神殿に神は名前を置いている(臨在する)と信じられていました。また、名前はその人の性質をも示します。イエス・キリストという名前が、歩けない人の足元や踵を強めたということは、そこにイエスがおられ、福音書が証言するイエスの癒しの力が及んだということです。イエスを通して人は信実な言動を知ります。イエスの存在そのものが信実なあり方を示しています。信実こそ、人を癒し人を強め人を明日へと歩かせます。銀や金を持たない使徒ペトロが持っていたものは信実です。

 本日の箇所にも「籤」が言及されています。「完全ないやし」(新共同訳、16節)は意訳です。直訳は「完全な籤」です。補欠使徒マティアに当たった籤が(1章26節)、歩けるようになった男性に当たります。彼もこの日から復活の証人・使徒となります。

 今日の小さな生き方の提案は、煽られる罪が自分にあることを認め、「誘惑に陥らせず悪から救い出したまえ」と祈ることです。多くの情報があふれています。子どもも大人もそこから完璧に逃げることはできません。多くの情報は「叩いて良い犯人」を不特定多数の群衆に差し出します。ワイドショーで不祥事を起こした人が紹介され、SNSで真偽不明な誹謗中傷が躍ります。私たちがその情報を消費することで一種の溜飲を下げる時に、私たちはいくつも大切なものを失っています。それは真実重大なニュースや、私たちを煽っている巨悪の正体や、何よりも人間として最低限必要な品位であり、つまり信実な態度です。イエス・キリストを殺してはいけません。むしろイエス・キリストの名前にふさわしく信実に煽られずに生きることです。復活の証人となりましょう。