サマリアからガリラヤへ ヨハネによる福音書4章43-54節 2013年7月21日礼拝説教

サマリア地方に二泊したイエス一行は、そこからガリラヤ地方に向かいます。「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」という発言があります。ヨハネ福音書は、ユダヤ地方、特に首都エルサレムをイエスは自分の「故郷」「父の家」とみなしていると考えます。ヨハネ福音書においては、イエスの故郷とはガリラヤ地方やナザレ村ではありません。活動の出発点もガリラヤ地方ではなくユダヤ地方であるからです。

つまり、ユダヤ地方ではあまり尊重されなかったイエスが、サマリア地方・ガリラヤ地方で歓迎され、尊重されるということにヨハネ福音書の言いたいことがあります。40-42節に、サマリア地方の人々がイエスを引き止める様子が書かれています。そして、今日の45節にもガリラヤ地方の人たちも同じようにイエスを歓迎しています。確かに見かけはユダヤ地方の人たちも奇跡を見てイエスを信じますが、イエスご自身はそのような人々を信用していません(2:23-25)。むしろ、宿泊を共にしたサマリア地方の人たちや、共に放浪の旅を続けるガリラヤ地方出身の自分の弟子たちを信頼しています。

そういうわけで、弟子の一人ナタナエルの出身地であるガリラヤ地方のカナにイエス一行は向かいます。そこにイエスの弟子たちを宿泊させてくれる家があったからです。ナタナエルの自宅かもしれません。あるいは、以前出席した結婚式の関係者の家かもしれません。水をぶどう酒に変えた、あの奇跡を体験した人の誰かが、イエスを宿泊させたのかもしれません。一軒一軒、イエス一行を宿泊させる人が増えていく、信頼のネットワークが広がっていく、これが伝道なのです。

さて、ガリラヤ地方にはカファルナウムという町がありました。カファルナウムは国境近くにあります。カファルナウムにはローマ軍が駐留していました。なぜかと言えば、そこには収税所が設けられ、道路を使用するための交通税を取立てられていたからです。非常に重要な町でした。だから、「王の役人」も住んでいました。この辺りにも国家官僚のための宿舎があると思います。カファルナウムにも、役人のための宿舎が多かったのでしょう。

ここで言う「王」は、ヘロデ大王(クリスマスでお馴染み)の息子のヘロデ・アンティパスという人物です。彼はバプテスマのヨハネを処刑した政治家です。そしてイエスの死刑判決にも関与した人物です(ルカ23:6以下)。イエスを殺そうとしたヘロデ党の者たちとは、このアンティパスの支持者たちです(マコ3:6)。この時、アンティパスはガリラヤ地方の領主・王でした。つまり、政治的な意見について言えば、領主ヘロデ・アンティパスとイエスは真っ向から対立しています。イエスの盟友であるヨハネは、領主である彼を批判したために殺されたからです(マコ6:14以下)。また、ヨハネの後継者としてのイエスを、アンティパスは敵視していたからです。

そのアンティパスの側近(「王の役人」46節)の息子が病気にかかり死にそうになったというのです。おそらくこの人物はローマ帝国に支払う交通税に関して責任を持っていた人なのでしょう。地位の高い高級官僚です。そして彼は、イエスがカナに滞在していることを聞きつけます。彼から見ればイエスは、上司であるガリラヤ地方一の権力者アンティパスを批判している者たちの一味です。政敵です。しかし息子のいのちがかかっている時に、政治的立場が乗り越えられます。彼は一人でカナに行き、イエスに直談判して頼み込もうと決心したのです。

カファルナウムとカナの間は30kmぐらいです。一日がかりで行く距離です。おそらく朝早く彼は自宅を出て、カナに行き、そして一軒一軒訪ねて、イエス一行がどこに泊まっているかを探したのです。そうして、午後一時頃(52節)、イエスの宿泊先を探り当て、息子をいやしてほしいと面と向かってお願いをしました(47節)。

それに対するイエスの答えはつれないものでした。「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」(48節)。しるしや不思議な業というのはこの場合、奇跡的な治療行為のことです。「いやし」とも言います。前にも申し上げたとおり、奇跡行為を見て信じるという人をイエスは信用しません。そうではなくて、奇跡を見ないで信じる人が幸いなのです。そう考えると、この奇妙な回答は、カファルナウムに父親である役人と一緒に行って、その息子の病気を治すことに対する拒絶を意味するのでしょう。「あなたも息子を治すのを見て、自分を信用するという人種なのでしょうね」という皮肉が、この発言の中にあるように思えます。

役人はこの答えに決して満足しません。まさにわらをもつかむ思いでお願いを続けます。「こんな議論をしているひまはないのです。わたしの息子は今死にそうなのです。とにかく来てください。死ぬ前に来てください。あなただけが頼りなのですから」(49節)。

イエスはじっとその人を見て考えます。そして役人の中に本心からの信頼をみてとります。ガリラヤ地方では財務省の事務次官みたいな権力をもった行政官が、ただのひとりの父親となってイエスにすがっている、その信頼をみてとります。これこそ「見ずに信ずる信仰」です。

「帰りなさい。あなたの息子は生きる」(50節)。自分は同行しない、けれどもあなたの息子は今生きている、だから良いだろうと言うのです。ここで原文は現在時制を用いています。息子は「生きるだろう」ではなく、「生きている」と書いてあります。しかも、「治る」「良くなる」でもなく、「生きる」と書いてあります。いやしてほしいという願いに対して、イエスの応えは少し異なっていました。病気のいやしが起こったのではなく、死んでいた者が生きているということが起こったのです。

この役人は実はすぐに帰っていません。というのも、52節に「きのうの午後一時に」とあるように、翌日自宅に着いているからです。つまり彼も一泊カナという町に宿泊したということが読み取れます。先週と同じく今日もまた共に宿泊する信頼のネットワークが広がっていったことが読み取れます。ナタナエルの自宅かどこかに、イエスの一団とこの「王の役人」ガリラヤ地方の行政官が宿泊しました。そうしてこの役人もイエスの弟子となったのです。その晩、イエスと彼は何を話し合ったのでしょうか。共に食事をとりながら、彼は自分の息子のことを語りだしたかもしれません。とりとめもない雑談をしたかもしれません。自分の仕えている領主ヘロデ・アンティパスのことやローマ帝国のことを話したかもしれません。そして彼はイエスというお方が、おどろくほど多様性を認めながら、しかもその場で最も困っている人の側に立つ救い主であることを知るのです。

イエスは貧しい人に絶大な人気を持ちました。しかしだからと言って金持ちや権力を持っている人と交わらないというわけでもないのです。国会議員のニコデモもアリマタヤのヨセフも弟子となれます。ファリサイ派の人に家に招かれれば、イエスは喜んで食事を共にします。この王の役人だけでなく、領主ヘロデ・アンティパスの側近の妻ヨハナも弟子でした(ルカ8:3)。

もちろんイエスは弱い者をしいたげる権力者や金持ちには厳しい批判をします。しかし富む者も人間です。神の似姿です。金や力で解決できない問題に突き当たって悩むこともあるでしょう。たとえば今日の役人のような場合です。その際にイエスは金持ちだから救われないのはおかしいと考えるわけです。あるいはイエスはこの世で力を持っている人には特有の役割があると考えていました。たとえば、大金持ちは寄付を多くすべきとか、弱者を救うために法律の解釈を変えるべきと考えていました。こうして地上に多様性を認め合う寛容な社会がかたちづくられることがイエスの願いであったのです。すべての人は永遠のいのちを生きることができます。イエスの信頼のネットワークに入り、イエスを中心に座り、共に食し共に宿り、互いに寛容であり暴力を棄て自由である、ゆるやかな交わりに入るときに、わたしたちは生きるのです。

役人は領主を批判しているヨハネの仲間イエスと一泊し、ガリラヤの弟子たち・サマリアの弟子たちと交わり、自らの狭さに気づいたのではないでしょうか。今まで付き合ったことのない人たちが、イエスを中心に信頼し合う仲間となっている現実に驚いたと推測します。

次の朝、豊かな心となった役人は「息子が生きている」ことを信じてカファルナウムに向かいます。すると途中で自分の部下たちに会います。部下たちも朝を待って急いでカナに向かっていました。福音をたずさえて彼らは上司に報告します。「あなたの息子さんは生きています」(51節)。イエスが「あなたの息子は生きている」と言った時に、熱が下がったというのです(52節)。こうして彼の家族もイエスの弟子となります(53節)。カファルナウムにイエス一行の宿泊先が一つ増えることになりました。

今日の一つのお勧めはイエスに倣うことです。イエスにとって領主の政策に反対・ローマの軍事支配に反対していることと、行政官の息子が死にそうであることとは別でした。感情的に混ぜて、「あなたの息子は死んで当然」「わたしは助けない」などと言わないことが大切です。日本社会はこの二つを感情的に結びつける未熟な社会であると感じます。政治的な意見を言うと、「偏った変な人」と思う人が異常に多い、そういう教育をずっと受けています。だから多くの人が政治に無関心なのは当然です。多様な意見表明に慣れていないために、異なる意見・反対意見に対して人格を否定するほどに罵倒・非難してしまう、これも当然のことです。どんなことがあっても人権は守られなくてはならないということと、多様な意見があって良いということが分からないまま感情的になっているのです。投票率だけが問題ではありません。小さいうちから堂々と異なる意見が言える社会をつくらなくてはいけません。

二つ目のお勧めは「永遠のいのちを今生きよう」ということです。先程も申し上げたとおり、父親は治療行為を願ったけれども、イエスからの応えは「あなたの息子は生きている」という約束の言葉でした。聖書/イエスは息子の病気が完全に治ったとは言っていません。熱は下がったけれども病気のままかもしれません。しかし、息子は生きているのです。その事実が大切です。

もちろん親心として子どもの病気は治ってほしいでしょう。しかしあえて言えば、一つの病気は治るかもしれないけれども、また違う病気で苦しむかもしれません。だからイエスは、あなたの息子は治っているとは言わないのです。病気の治癒が問題ではない、今いのちが与えられていることのほうが重要だと言うのです。今、仮に病床であっても、与えられている命を精一杯輝かせて生きるなら、あなたの息子は死んでも生きると、イエスは語ったのです。これが永遠のいのちを今生きるということです。だから役人は50節までで救われています。しるしや不思議な業がなくてもイエスを人格的に信頼しているからです。同じ宿に泊まり彼は信頼の輪に入りました。すべての人はこの交わりに招かれています。与えられているいのちを輝かせ永遠のいのちを生きましょう。