12 さて使徒たちの手を通して多くのしるしと奇跡が民において起こり続けた。そして全ての者たちはソロモンの柱廊において一つの思いで居続けた。 13 さて他の者たちは誰もあえて彼らに合流し続けなかった。しかしながら民は彼らを大きくし続けた。 14 さて主を信じる者たち、(すなわち)男性たちおよび女性たちの諸集団がますます加わり続けた。 15 その結果として、道々の中へと病人を運び出し、また床と寝床の上に置く、ペトロが来て少なくともその影が彼らの誰かに差しかかるようにと。 16 さてエルサレム周辺の町々の集団も共に来続けた、病人たちと、汚れた霊によって群衆化されている人たちを運びつつ。(その人たち)全ては癒され続けた。
本日の箇所はルカによる「まとめの句」と呼ばれる部分です。福音書でも使徒言行録でも、時々そのような段落があります。今までの物語を要約してまとめながら、次の物語に橋渡しする部分のことを指す言葉です。しかもそれは言い伝えの丸写しではなく、著者あるいは編集者たち自身が考えて書いた部分となります。「まとめの句」にルカやルカ教会の考え方が最も色濃く出てくることがあります。本日はまとめの句の特徴に着目しながら、ルカの教会が考える「初代教会運動」とは何か、教会とはどのような群れであるべきなのか、翻ってわたしたちの教会のあり方について考えたいと思います。
ルカ教会は、ペトロが主導する初代教会運動をイエスが開始した神の国運動の継承と考えています。両者の連続性を強調していると言っても良いでしょう。それはルカ教会が、マルコ福音書6章53-56節をルカ福音書に掲載せずに、使徒言行録の本日の箇所に掲載していることによって分かります。15節の下線を敷いた単語は、マルコ6章55-56節に用いられています。ルカはマルコ福音書を読みながら、この箇所を書いています。
ルカとマタイは同じマルコ福音書を下敷きにして、それぞれの福音書を書きました(共観福音書)。マタイ福音書はマルコ福音書のこの場面を忠実に転載しています。マタイ教会には続編である使徒言行録がないからでしょう。おそらくルカ教会はマルコ福音書の続編として先に使徒言行録を書き、マルコ6章53-56節に該当する内容をペトロが主体の物語にしました。その後でルカ福音書を書いた時に、マルコ6章53-56節が不要となったのではないでしょうか。ともかく結果として、イエスの逸話がペトロの逸話となり、両者の重なり合いが強まることとなりました。それは神の国運動とエルサレム教会が密接につながっているという印象を与えています。ガリラヤとエルサレムは同じなのです。
どの点でつながっているかと言えば、人々を癒すという働きにおいてです。12節後半から14節までを一旦カッコにくくって保留しておくと、本日の箇所は読みやすくなります。「使徒たちの手を通して」なされる「多くのしるしと奇跡」(12節前半)というものは、病人の治癒です(15-16節)。教会は「診療所」、使徒は「医者」であったというのです。教会員は「患者」であったり「医療従事者」であったり、交代可能です。この現象はナザレのイエスの周りで実際に起こり続けていた奇跡です。「あなたの信があなたを救った」と言いながら、イエスは多くの病人を癒し、その人々がイエス運動を担っていく人々になりました。最初の実例は、シモン・ペトロの義理の母親です(ルカ福音書4章38-39節)。
ルカが医者だったという言い伝えをわたしは信用しています(コロサイの信徒への手紙4章14節)。ルカの教会には多くの病人が集っていたと推測します。日曜日の夕方、病気を患って困っている人々がフィリピの町の教会に来ます。担ぎ込まれる人もいます。リディアという女性の自宅が教会として用いられ、そこには医者ルカがいます。彼女の夫かもしれません。教会で治療がなされるということはルカにとって当たり前ではないでしょうか。パウロと同伴する旅の途中でも、ルカたちを泊めてくれた教会(信徒の自宅)に、病人たちは毎日のように治療を受けるために集まったのではないでしょうか。栄養不足からくる病気の場合、晩餐(愛餐含む)が実際の治療の一環だったことでしょう。ルカは使徒パウロの病気の治療にも長期に渡ってあたっていたと思います(Ⅱコリント12章7節)。使徒も医者と患者とを行き来します。
このようなルカの現実生活や、ルカが参与した教会の現実の働きが使徒言行録の背後にあります。ルカはイエスを見たことがありません。ペトロともあまり面識はないでしょう。しかし、彼にとって教会が治療をする場であり続けることから、イエス像とペトロ像がはっきりとするのです。医者イエスに倣って使徒ペトロは医者でなくてはいけません。このような視点で見直す時に、先週のペトロの言動について医者ルカは批判的ではなかったかと推測したわけです。
さらに深掘りしていきましょう。病人たちと並んで「汚れた霊によって群衆化されている人たち」(16節)も教会が癒す対象であることが記されています。この表現はルカが好むものです。ほぼ同様の表現がルカ福音書6章18節にあります。ルカは「群衆(オクロス)」という単語を否定的に用います。ルカにとって「大勢の人」の肯定的な言い方は「民(ラオス)」です(12・13節)。この両単語の用い方はマルコと全く逆であるのが興味深いところです。「群衆化する」という動詞は、「大勢の人は個人に迷惑をかける」ということから、「(人を)苦しめる」という意味に転じました。ルカの群衆嫌いを示すためには、「群衆化する」という翻訳が丁度良いと思います(田川建三)。
「悪霊や汚れた霊は人を群衆化させていく、自律した個人ではなく、同調圧力に屈したり、煽られることを好んだり、自ら煽り立てる人になり、個性や名前を失っていく。まさにそれはイエス・キリストを十字架につけ磔にして虐殺していく勢力である。そこに復活者イエス・キリストの名前による癒しと救いが必要である」とルカおよびルカの教会は考えているのではないでしょうか。サドカイ派の祭司長たちや、ファリサイ派の律法学者たちや、ヘロデ党によって、まんまと群衆化されイエスを十字架で殺したエルサレム住民は、その悪霊的呪縛(罪)から解放される必要がありました。一人ひとりが名前を取り戻し(バルナバのように)、自分の頭で考える主体性を取り戻さなくてはなりません。教会は群衆化という病(罪)から一人ひとりを癒します。
それだからルカ教会の考える教会は、女性たちも続々と加わっていくのです(14節)。今までもそうでしたがルカは女性たちを含めた記述をします(1章14節、2章17・18節、5章1節)。これは古代の文献では際立つ特徴です。リディアを指導者とするフィリピ教会の現実があるからでしょう(16章14節)。教会においては「男と女」がない(ガラテヤ3章28節)、ジェンダー(社会によって形作られた男らしさや女らしさ)で人を見ない、個人として尊重される。それが群衆化から個人を解放します。
さて、先ほどカッコにくくった12節後半から14節の内容についても触れておきましょう。一言で言って、この部分はどの言葉が誰のことを指しているのかがよく分かりません。解釈の十字架です。「民」「全ての者」「他の者たち」「主を信じる者たち」が文脈上、使徒たちなのか、エルサレム住民なのか、信徒たちなのか、教会の迫害者たちなのか、どこかに何かを入れると別のどこかで矛盾が起るような関係です。細かい議論は置いておいて結論だけ、ルカの言わんとするところを次のように推測します。
「民」(12・13節)は、教会に好意的なエルサレム住民のネットワークです。それはユダヤ人だけではなくエルサレム在住の外国人を含みます。その人々は、「男性たちおよび女性たちの諸集団」と同じ人々なので、将来の「主を信じる者たち」(14節)です。教会を取り囲む好意的な民が教会を大きくし続けたのです。ギリシャ語メガルノーを「称賛する」ではなく、あえて直訳調に「大きくする」と訳します。
「全ての者」(13節)は、かつてソロモンの柱廊に来て、歩けなかった男性が歩けるようになったことを目撃し、ペトロの説教によって回心して教会に加わった人々でしょう(3章11節、4章4節)。ソロモンの柱廊はあの時信徒になった人々にとって記念すべき場所となりました。回心した人たちの多くはサドカイ派の男性たちだったと推測します。サドカイ派からナザレ派に転向した信徒たちが、サドカイ派にとって特に聖なる場所である神殿の一角を教会の活動場所として占拠していたわけです。そして、あの時歩けるようになった男性が中心になって、イエス・キリストの名前による癒しを、復活の証人として伝道し、病人を治癒していたのです。元患者が医者になるという逆転がここにも起っています。
「他の者たち」(13節)は回心しないサドカイ派の人々です。サドカイ派内部の締め付けが強く、これ以上サドカイ派の転向はなかったと推測します。こう考えれば、「全ての者たち」と「他の者たち(全ての者たち以外の者たち)」の整合性がとれますし、次の話題につながります。17節以降はサドカイ派による教会迫害です。
12節後半から14節までの部分にも、ルカ教会の教会観が現れています。教会は「信徒の教会Believer’s Church」です。この部分は、ペトロや使徒たちの姿は後ろに退いています。むしろペトロを通してイエス・キリストが立たせ歩かせた、あの四十歳の男性信徒と、それを目撃し信徒となった人々が前に出ています。そのような信徒の教会を取りまく、好意的な民が信徒として新たに加わっていき、教会は大きくなっていったのでした。
初代教会運動は、今は名前が知られていない無数の信徒たちによる活動です。この人たちは自分たちにとって意義深い、自分たちの考案した伝道方法で、自分たちの手で復活の証人となったのでした。信徒の・信徒による・信徒のための伝道活動。それが初代教会という運動です。実はパウロら使徒たちが赴く前から、その土地にはキリスト教会があったということを使徒言行録は報告しています(11章19節等)。そうでなくて短期間にあれほどキリスト教が広がることはありえません。使徒でもなく、牧師でもない、信徒ルカだからこそ描ける教会像です。
今日の小さな生き方の提案はルカの描く教会像に倣うということです。分業化された現代社会で無資格者が治療行為を行うことは違法です。ただし個人が群衆化されがちな現代社会において、教会には群衆化された人々を癒す働きが求められています。教会が「診療所」であるからです。この診療所には元患者や未来の患者が混在しています。全員が癒すこと・癒されることの当事者です。あなたはあなたのままで良い(高価で尊い)。だからあなた自身になりましょう。隣人も隣人のままで良い。だから互いに尊重しましょう。自分も隣人も病んでしまう言動は控えましょう。むしろ、この診療所を一緒に運営しましょう。自分の意見を言うことができます。他人の意見も尊重できます。自治です。自分たちを治めることが自分たちの治すのです。人の言動に傷つけられた人々が、人を癒す言動をする医者となることができます。信徒の教会です。