27 さて彼らを連れて来て、彼らは最高法院の中に立たせた。そして大祭司は彼らに尋ねた。 28 曰く「私たちはあなたたちに命令でもって命じなかったか、この名前に基いて教えないようにと。そして見よ、あなたたちはあなたたちの教えでエルサレムを満たしてしまった。そしてあなたたちはこの人の血をわたしたちの上に負わせようとしている。」 29 さて答えて、ペトロと使徒たちが言った。「神に従順であるということは当然だ、人に(従順であるということ)よりも。 30 わたしたちの父たちの神はイエスをよみがえらせた、その彼をあなたたちは処理したのだが、「木の上に架けて」(申命記21章23節)。 31 この彼をこそ神は主導者かつ救い主(として)彼の右に挙げた、イスラエルに悔い改めと諸々の罪の赦しを与えるために。 32 そして私たちはこれらの話の証人である。神が彼に従順である者たちに与えた聖霊も(証人である)」。
4章の裁判はペトロとヨハネの二人だけが被告人でした。今回はすべての使徒たちが最高法院の中に立たされ、裁判を受けます(29節)。いわゆる十二使徒だけではなく、バルナバもいたかもしれません。以前取り上げた4章36節を「使徒たちから」ではなく、「使徒たちの一人」と訳せばバルナバも使徒の一人です。使徒言行録の中では十二使徒以外の人で「使徒」と呼ばれているのはバルナバとパウロだけです(14章14節)。他にも名前は知られていないけれども「使徒」と呼ばれた教会指導者は女性たちも含めて存在していたことでしょう。その時点で使徒であった人々全てが裁判を受けたということです。
かつてイエスは独りで裁判を受けました。その時大祭司宅まで入ったペトロとヨハネが二人連れ立って裁判を受けたのが、使徒言行録4章の出来事でした。一人から二人に増えています。さらに今回は籤引きで使徒になったマティアも、またキプロス出身のバルナバも含め、少なくとも十数名のキリスト者が同時に同趣旨の裁判を受けます。だんだん増えていることが重要です。逮捕者、拘留者があまりにも多くなると統治はできなくなります。最高法院が恐れていることは自分たちの統治が不可能になることです。その時、ローマ総督ピラトはユダヤ自治政府を廃して、ローマ帝国が直接統治することになります。大祭司は小さな火をもみ消すつもりでイエス一人を殺しましたが、その弟子たちはイエスがいなくなってからの方が手ごわくなっています。
大祭司の尋問は脱獄の罪を省いています。「主の天使」(19節)とは誰か。その点を詰めないところに彼らの焦りや慌ただしさが伺えます。内部の統治のタガが外れていることは見ないこととして、とにかく「邪教」「異端」「反乱」を封じ込めることに彼らはやっきになります。
「ナザレのイエスの名前に基づく教えは明確な禁止命令で禁じた。前回のペトロとヨハネの釈放の条件だ(4章18・21節)。その禁止命令と条件を守らずに、なぜ神殿で教え続けているのか。今やあなたたちの教えがエルサレムを満たしてしまっている(完了時制)。その教えの中で、あなたたちはイエスを不当に殺したのは最高法院だと言っている(4章10節)。あなたたちはわたしたちに血の報復をしたいのか。イエスの処刑は合法だ。イエスは神の子と自称した。神を冒瀆した者は処刑されて当然だ。イエスの報復をしようとするのは間違えだ」(28節)。
この大祭司の発言は、裁判をどのように運んでいきたいかを示しています。大祭司はイエスの復活について全く触れていません(4章10節に反して)。死人の復活があるかないかという「神学論争」は、サドカイ派とファリサイ派を分裂させてしまうからです。サドカイ派は復活そのものを信じていませんが(五書のみを正典とする)、ファリサイ派は死者の復活はありうると考えます(五書以外も正典として認める)。最高法院が一致して判決を出すためには、ナザレ派の教理の中心である「イエスはよみがえらされた救い主である」というところを一旦脇に置いておかなくてはいけません。
ガリラヤから来たナザレ派の一団が、エルサレム在住の外国人をも仲間に引き入れて、「イエス殺害の報復」を旗印にしてユダヤ植民地政府を転覆させるクーデター。「力には力」「暴力には暴力」という報復の連鎖こそがナザレ派の狙いだという冤罪をかぶせることが、大祭司の持っていきたい裁判の行方です。教会はテロリスト予備軍だ、だからこそ外国人も味方につけたのだという偏見に基づく扇動があります。本心はサドカイ派の嫉妬だけがこの裁判の動機なのですが(17節)。
ペトロと使徒たちの発言(29-32節)が本日のハイライトです。そこにはこれまでの数か月間の初代教会の経験が蓄積されている様子、つまり彼ら彼女たちが成長している跡が見えます。①大筋で同じことを言い続けながら(復活の証人)、②独自の聖書解釈を磨きながら(申命記21章23節の解釈)、③相手に届くように(同じイスラエルの神への信仰)、④理解者が一人でも増えるように語りかけています(神への従順への招き)。深掘りしていきましょう。
① 使徒たちは自分たちがイエスの報復を企てる武装反乱者ではないこと、イエスの死ではなく、イエスの復活の証人であることを語ります。30節の語順が示す通り、イエスの復活こそ使徒たちが最前面に打ち出している使信です。最高法院が行政処分として行った死刑は復活のために必要でした。復活は、罪を認めさせ悔い改めと赦しへと導く奇跡です。この意味で、最高法院の罪は神に用いられています。復活は人を活かすための、生き生きとした「命の話(レーマ)」です(20節)。同じレーマが32節でも用いられています。「これらの話(レーマ)」は、キリストが神によってよみがえらされ、わたしたちに永遠の命を配っておられるという奇跡を意味します。殺害に対する殺害という報復ではなく、復活の命を配ること、癒しを行うことが教会の働きです。
② なぜイエスはローマ兵の手によって十字架で処刑されたのかという問いは初代教会にとって重要なものです。メシアの苦難と身代わりの死についてはイザヤ書53章で根拠づけられますが、その死はなぜ十字架なのか。旧約聖書の中に答えを探る努力がなされます。証明聖句は申命記21章23節です。「木にかけられた死体は、神に呪われたものだからです」とあります。パウロも同じ聖句を引用していますから(ガラテヤの信徒への手紙3章13節)、著者ルカ自身も知っているし、教会中でよく知られている証明聖句だったと思われます。誤解を恐れずに言えば、神は「子殺しの罪」を犯したのです。アブラハムにそれを禁じた神が我が子を殺しました。最高法院もローマ総督も「神の道具」でしかないのですから、根本的には十字架は神の殺害行為です。それによって「善い方」であるはずの神が、罪の陰りなどあるはずもない「全き方」であるはずの神が、罪の実例をただ一度示しました。教会の急進的聖書解釈が徐々に徹底され、神理解が深まっていった跡づけを、ここに見ます。正典中の正典である五書から十字架を根拠づけることがサドカイ派への訴えとしても重要です。
③ 使徒たちは、イエスの十字架と復活という出来事を起こした神がイスラエルの神であると言います。「わたしたちの父たちの神」(30節)は、アブラハムとサラ・ハガル・ケトラの神、イサクとリベカの神、ヤコブとレア・ラケル・ビルハ・ジルパの神です(3章13節参照)。サドカイ派やファリサイ派だけでもなく、全イスラエルの神が全イスラエルを悔い改めさせ、イスラエルの民以外にも門を開いた「新しいイスラエル」を創り出しています。事実イスラエル以外の多種多様な人々が、イエスを十字架で殺した罪を悔い改め、罪の赦しを経験し、新たによみがえらされ・癒されて礼拝に連なっています。それが教会です。神は復活者イエスを天に挙げ、聖霊をすべての民に吹きかけています。聖霊を吸い込むことによって全ての民が霊である神を礼拝することができるようになっています。使徒たちは「イスラエル」という同じ単語を用いながら、別の意味をも含めています。それは民族主義の支柱であるアブラハムとサラが元々メソポタミアの人であったという気づきと関係しています(3章25節)。非ユダヤ人アブラハム・サラを通して、地上の全ての民族が神の祝福に入りました。あの夫婦を立てた神が、多民族によって成る教会をも立てたのです。
④ そういうわけで使徒たちは「神に従順である」ということが何であるのかを、さらに深めています。4章19節の時には「神に聞く(アコウオー)」という言葉を「神に聞き従う」と訳しました。ヘブライ語風の単純素朴な言い回しです。29節・32節は異なる動詞ペイサルケオーが使われています。ルカの好む単語です(全4回中3回がルカ)。「説得する(ペイソー)」という動詞と、「初めに来る(アルケオー)」という動詞が組み合わさってできた動詞です。何を最優先にするか説得されている状態です。「従順である」と訳しました。条件反射的な瞬発力を用いて神に従うのではなく、もっとじっくりと優先順位を考えながら、数多くの分かれ道(選択肢)を意識しながら、納得して神に従う道を静かに選んでいくという含みです。
ルカの頭の中には一曲の讃美歌があったのではないでしょうか。フィリピ教会に伝わる「キリスト賛歌」です(フィリピの信徒への手紙2章6-11節)。キリストは十字架の死に至るまで神に従順でした。キリスト賛歌では別の形容詞で従順を表現していますが、ルカの中では同じ意味でしょう。初代教会のキリスト理解が深まっています。十字架への道は、愚かな選択肢のように見えて、実は神に従う道だったのです。イエスは悩みながらも神に説得され第一の事柄を選んだ、神への従順を納得して選び取ったのでした。教会の聖霊理解も深まっています。聖霊は熱狂的な現象を引き起こすのではなくて、人々を信仰告白に導き、日々信徒の心の中に沈潜し、熟慮と決断を促す神ご自身です。何が神に従順であるのか分かれ道が何であるのかを示して、どちらを選び、どのように行動すべきかを教えてくださるのが聖霊の神です。
4章で釈放されたペトロとヨハネは法廷での証言を報告し、仲間たちはその言葉を深めていったのだと思います。「あなたにではなく神に聞く」という言い方よりも、「人間にではなく神に従順である」という言い方の方が良いということを仲間たちから批判され成長したのではないでしょうか。キリストが従順であったように、わたしたちも神に従おう。今度法廷に立たされる時は、最高法院への抵抗よりも神への従順を自分たちが第一にしているということを言おう。ペトロもヨハネも仲間たちと共に成長しています。そして法廷の証言を通して使徒たちは最高法院の議員にも仲間になるようにと招いています。
今日の小さな生き方の提案は、神に従順な日常生活を送るということです。そのことは何も派手な行動や言葉ではありません。自分にとって第一のことがらを一人静かに納得しながら選ぶ生き方です。使徒たちにとってそれはイエス・キリストの復活を証言するということでした。それによってどんなに不利益を被っても第一の優先事項として淡々と彼ら彼女たちは行い続けました。この佇まいに学びます。わたしたちも今の自分にとっての第一のことに思いを馳せましょう。自分の十字架を定めて十字架を負いましょう。