17 あなたはあなたの兄弟を心の中で嫌わない。あなたはあなたの民を必ず叱る。(そうすれば)あなたは民に関して罪を担わない。
18 (あなた〔の手〕は復讐しない。)しかしあなたはあなたの民の息子たちを守らない/怒らないし、あなたはあなたの隣人をあなた自身のように愛する。わたしはヤハウェ。
今年度は隔週で旧約聖書の各巻を取り上げることとしました。第一回目はレビ記です。「レビ記」という書名は、ギリシャ語に訳された時(紀元前3世紀)から普及しました。ヘブライ語原典では「そして彼は呼んだ(ヴァイクラ)」と呼ばれます。レビ記冒頭の一単語をそのまま小見出しとしているのです。シナイ山で神がモーセに呼びかけたという文脈です。神は預言者モーセを呼び出し神の言葉を託します。シナイ山を降りた時に、モーセはイスラエルの民に、神から預かった言葉を告げます。それが十戒も含む長大な律法です。この構造はイスラム教と同じです。神(「アッラー」は神という意味)から預言者ムハンマドに託された言葉が正典クルアーンだと信じられているからです。
神の言葉への信仰(正典信仰)の原型には、「預言」という現象があります。さまざまな律法も突き詰めると預言の一種です。禁止命令ばかりが定められた法律という風にとらえずに、神からの語りかけという意味合いで読むことをお勧めいたします。私訳はそのような観点を含んで多少思い切った試みをしています。厳しい命令と捉えずに、神からの柔らかな期待と理解するのです。
丸カッコで括った部分は、元々の本文になかったかもしれない部分です。この部分を外すことも全体の翻訳や解釈に大きな影響を与えます。17節の場合は、たった一文字の接続詞があるかないかで、二文目と三文目の関係が変わってしまいます。接続詞が無い場合は、条件と結果の関係ではなくなります。つまり「他人を叱るならば他人の罪を担わない」という意味ではなく、「叱っても叱らなくても他人の罪を担うことはない」という意味になります。18節の場合は、「復讐しない」という大きな主題そのものがなくなってしまいます。復讐と隣人愛は差し当たっては関係しないとして、本日復讐について論じません。
一つずつの文を見ると三つの否定文と二つの肯定文があることに気づきます。「嫌わない」「担わない」「守らない/怒らない」の三つと、「叱る」「愛する」の二つです。三つの否定文の表現方法は十戒と同じです。単純な未完了視座とそれ用の否定辞が使われています。翻訳の可能性は二つあります。「決してしてはならない」という絶対的禁止命令か、それとも「しないだろう」という曖昧な未来の否定的予測かです。ちなみに旧約聖書のギリシャ語訳は、17-18節の動詞をすべて「未来時制」で翻訳しています。命令でもありません。未来の行為として紀元前3世紀のユダヤ教徒たちは理解していたのです。
絶対的禁止か曖昧な予測か、どちらにしても刑法としては不自然です。刑法は「もしもこのような犯罪をしたら、このような刑罰で処分される」ということが規定されるものです。「決して嫌うな」という命令であったとしても、それを違反した場合に何も処罰が書かれていないということが不自然です。こういうわけで、曖昧な未来の否定的予測と取ります。それは神の大いなる期待です。「出エジプトによって救われたあなたが、まさかそのあなたがこのようなことをしないだろうね」という神のわたしたちに対する期待です。仮にそのような過ち(心の中で嫌うこと)を犯したとしても、罰は用意されていません。神は七を七十倍するまで赦します。なお十戒にある八つの禁止命令に関しても、同じことが言えます。十戒にも違反者への罰が書かれていません。
二つの肯定文はどうでしょうか。「叱る」「愛する」は、それぞれ別々の味わい深い表現が用いられています。
「叱る」については同じ動詞を二回繰り返すという表現です。「叱りに叱る」という言い方で、「必ず/確実に叱る」という強調表現です。叱る対象は「あなたの民」であり、「あなたの兄弟」「あなたの隣人」などの個人ではありません。民イスラエルの間違えについては、民を構成する個人がきちんと批判をするものだと、神は期待しています。そして、個人は民の罪を担わなくてよいと約束をしています。
ここにも預言者の精神が生きています。旧約聖書に登場する預言者たちはしばしば自分たちの国や民を「叱りに叱る」人々でした。この批判精神をイスラエルの伝統として神は承認しています。国家批判や政治的発言は悪いことではありません。現代日本の教育の問題がさまざまに論じられています。その一つに、お上に対する批判精神を育てていないという問題があります。悪い意味でみんな「良い子」です。個人の人格に対する非難と、政治への批判というものが区別できていません。多角的に自由に論じる批判が全体を建て上げるという発想そのものが貧しいので、自分の意見を持つことが困難です。
教育との関係で、18節の否定文についてここで取り上げましょう。「守らない/怒らない」の対象は、「あなたの民の息子たち」です。古代文書のこと、「息子たち」という男性複数形は、女性たちを含む全体の「子どもたち」を意味します。「あなたの民」ではないことに注意です。あなたの民についてはきちんと批判するけれども、「しかし」(18節前半。「そして」とも訳しうる)、あなたの民の子どもたちについては「守らない/怒らない」ことが良いというのです。17節と18節に対比を読み取り、「しかし」と訳します。
同じ動詞に異なる意味が複数含まれることはどの言語でも同じです。翻訳は一つに選ばなくてはいけません。しかし母語の話者はいくつもの含みをもってその一つの単語の意味を把握するのです。守ることと怒ることとはかなり幅があります。とは言え子育ての現場で両者が結びつくことがあります。子どもたちを放っておけば子どもたちについてイライラすることも減るのではないでしょうか。先回りして守ることは、国家を批判する自由な精神を育むことになるでしょうか。むしろ、子どもたちを「守らない」という構えが大切です。
「子どもたちを守らない勧めは児童虐待を防げない」という別観点からの切り返しもありえます。子どもたちは人権を守られるべき対象でもあります。そのような問いに対しては、子どもたちを不当に暴力的な仕方で「怒らない」という構えも同時に大切であると言いたいです。また国を大いに批判したとしても、子どもたちを「今どきの若い者は」と非難することは避けたいものです。翻訳の可能性が複数あるまま曖昧にすることは、多角的な問いに対して応えることができるという強みでもあります。ほとんど全ての翻訳が「怒らない」「恨まない」としか訳さないので、あえて別訳を併記してみなさんのご判断に委ねたいと思います。
「し、」(18節後半)と訳しました。実は「しかし」(18節前半)と同じ接続詞がこの読点に込められています。18節の肯定文もまた翻訳に苦労する味のある文です。この肯定文だけが「完了」という視座で書かれているからです。完了視座とは、話し手の気持ちでその行為が完了したと断定する時に使うものです(未完了視座はその逆に断定せずに曖昧にする)。ヘブライ語には現在・過去・未来のような時制がありません。未来の出来事であっても、話し手の気持ちが完了しているのならば、完了視座で表現します。
ここでは二つの翻訳可能性があります。一つは預言です。預言者は未来に起こることを、自分の気持ちの中で必ず起こる確信があれば「完了視座」で断定的に語ることがあります。「大バビロンが倒れた」などの表現です。今回の場合にあてはめると、「あなたは隣人を愛した」という預言として理解しても良いということです。断定口調にして「あなたは隣人を愛するのだ」とすることもできます。イエスが文脈を断ち切ってこの部分だけを引用した時に、「あなたはあなたの隣人を愛するのだ」という預言に聞こえたかもしれません(マルコ12章31節)。
もう一つの可能性は継続です。直前の未完了視座の動作を継続する場合に、ややこしいことに、「そして」という接続詞と完了視座を用います。これはヘブライ語独特の修辞です。この場合、接続詞を軽く訳して二つの文を軽快に繋げます。そして完了視座の動詞を、未完了視座の動詞のように訳すのです。「・・・守らない/怒らないし、・・・愛する」という私訳は、継続表現という立場をとった翻訳です。
なお、もしも「守らない/怒らない」という未完了視座を、「べきではない」と訳す場合は、継続されているので「愛すべき」と翻訳します。これが大方の翻訳の立場です。「愛せ」と命令で訳すのは強めの意訳です。
私訳の利点は隣人愛をずっしりと重い課題ととらえずに、日常の実践にするというところにあります。子どもたちにイライラしないという小さな実践や、子どもたちを信じて放任するというつながりで隣人を愛することが、わたしたちでさえもできるということです。ギリシャ語アガパオー(愛する)を神のみがなしうる普遍的な愛・無条件の赦しと捉えると、わたしたちには荷が重すぎます。ヘブライ語アハブ(愛する)は、愛する程度や様態を問いません。さまざまな愛が含まれます。そして「あなた自身のように」とあります。ここには自分を犠牲にして生きよという考えはありません。自分を愛せない人を咎めるという考えもありません。単に自己保身を肯定するほどに軽い愛です。
「わたしはヤハウェ」。これは神自身の言葉であるという証明のための実印や署名です。ヤハウェの意味は「彼は生起させた(完了)」です。出エジプトという救いを言い表しています。人権が奪われていた奴隷が尊重される存在に変えられ、無から有が生起させられました。それがヤハウェの贖いです。「わたしはヤハウェ」は十戒の前文にも言われています(出20章2節)。無条件に贖われたあなたは、隣人を自分自身のように愛するはず。できないことはない。日常生活の中でも必ずできるはず。わたしたちの救い主は、律法を通して愛情深くわたしたちに期待して励ましておられます。
イエスは良いサマリア人の譬え話でレビ記19章18節を再解釈しました(ルカ10章25-37節)。人助けをしたサマリア人が日常の仕事をそのまま行っていることが重要です。律法とは日常です。神の言葉を日常の実践にする努力です。
今日の小さな生き方の提案は聖書の言葉を日常のことがらにするということです。律法というものが制定された目的は、わたしたちにも毎日実践できる小さな愛の行為を具体的に教えることにありました。利他的な生き方は良いことです。しかし一つの「高邁な教理」となる時に危険です。それが他人を裁く物差しになりえるからです。「愛の無いあなたが愛を行っている未来が見える」と神は断言しています。「愛の無いあなたにもできる愛がある」と神は励ましています。自己防衛反射動作をするように、反射的衝動的に誰かのためになる行為を自分のできる範囲内ですることなら何の準備もなくできそうです。唯一の準備は自由な精神を持つことです。何が起きても良いし、それにどう反応しても良いという構えです。キリストの救いはこの自由を与えます。