「ふたつの力」ルカによる福音書8章26-39節 2021年6月27日礼拝説教(興津吉英さん)

イエス様の宣教途上での「悪霊」にとりつかれた一人の男性と彼をとりまく村の人々との物語です。

 この人物は村でもよく知られた人だったようです。というよりも、村の中で不気味がられ、おそれられ、あわれまれていた人のようです。

 福音書にはイエス様に救いを求めるたくさんの人が出てきます。

 しかし、この男性は自分から救いを求めたのではありません。この人自身は悪霊に乗っ取られているのですから、救いを求めることすらできません。イエス様と話すのは、何と、この悪霊たちです。ひとりではなく多くの悪霊たちなのです。そのような異例ずくめの話です。

 乗っ取られた男は、墓場にすみ、自分で自分の身体を傷つけるようなまさにどん底の状態でした。そして正気に至るまでには、おびただしい豚の大量死という途方もない事件すら起こりました。いかにも古代めいたおどろおどろしい話です。さまざまな迷信が信じられていた時代らしい物語です。しかし、じっとこの話の世界に思いを巡らせていると、何か現代の私たちの話のようにも感じられてきます。

 この人物はいわゆる心の病を患っており、聖書が語るそのようすからするとそれも相当重い状態です。この人の存在と行動は村全体に影響するほどだったようです。

彼自身に即して言うと・・・

自分の内にたくさんの何者かがいて絶えず何かを語っている。自分はそれらからたえず指図されるている。現代でいうならば幻聴。常に何かが満たされない。それが自分を傷つける方に向かう。現代でいうならば自傷行為ということになります。

 自分のうちにいる何者かはレギオンと名乗っている。それは数千人規模ローマの軍団を表すことばです。この人物には軍隊へのトラウマがあったのかもいしれません。駐留していたローマ軍からの過酷な支配、あるいは何らかの虐待を受け精神の平衡を失ってしまったのかもしれません。

 時代背景を物語る一つの説ですが次のようなことを聞いたことがあります。

 この地域の平定と支配のために駐屯していたローマ帝国軍の部隊は全ローマで名を知られた強力な軍団でした。かつてシチリア海峡付近での反乱平定で活躍したことから部隊は「海峡隊」と呼ばれて恐れられていました。軍隊では、兵士が士気を高め、支配地の住民達に恐れを抱かせるシンボルとして旗というものが重視されます。国旗もそうだし各部隊の旗というものもそうでした。この旗を守るために兵士は命をかけることを余儀なくされました。そして、この「海峡隊」の旗は豚をあしらったものだったのです。豚を不浄なものとすることと相まって、この旗は人々にとって豚は二重三重の意味で憎悪の的であった。憎しみや恨みはそれにとらわれることで自分自身の精神にもっとも大きなダメージを与えるものであると言うことは、私たちの経験するところです。

 さて、そのような、いわば憎しみのカオスの彼は、いまやただならぬ何者か—-神の子キリスト—-が自分に関わろうとしていることに気づいています。

 大きな摩擦や波乱が起こりそうな予感がします。

 それは現実となりました。

 イエスが悪霊が豚に入ることを許され、少なく見ても2000頭の豚が異常な死に方をした。村や地方をゆるがす事件となったのです。

地域一帯にこの騒ぎは伝えられ多くの人が来る騒ぎになりました。

話しを聞いて駆けつけてきた人々が目にしたのは、湖に浮かぶ、あるいは岸辺に打ち上げられたおびただしい豚の死体でした。眼を背けるような惨状。悪臭もたちこめていたことでしょう

 とともに、その一方、あの悪霊憑きの凶悪な男が正気にもどっている。おそらく他の村にも知られていたであろうあの手に負えない悲惨そのものの男が・・・。

そしてその男は、こちらもこのごろ評判のイエスという男ナザレの大工上がりの説教者に仕えるかのように足下に座っている・・・。そこにはこの惨状とはべつの、静かな雰囲気が満ちている・・・。

 ちょっと周囲に眼を転じますと、やはり、こんな凶暴な悪霊憑きが発生したり、異常な豚の大量、しかも自殺など起こるのは、この時代のこの地域が何か非常に不安定な社会、病んだ社会であったのだと思います。

 しかも、最強覇権国家であったローマ帝国の異邦人・他民族による軍事支配に服しているという屈辱的自体ともきっと関係があったでしょう。先ほどの「海峡隊」のことが思い出されます。

 この点、強引かもしれないが近年の日本の状況に似ていないでしょうか。あるいは目に見えないウイルスの脅威にさらされている世界全体の状況とも似ていないでしょうか。

人間が何か目に見えない大きな力に支配されている。そして多くの人が自分で自分を不幸にしている。自分をだけではなく他の人もその不幸に巻き込み、おそろしい事に、他の人の命を奪うことすらある。

 さらに言うと、そのことが異常であるということに自分では気づいていない。自分が大きな力に支配され、あやつられ、人間らしくなくなっている—-敢えて言うならば怪物のような存在になっている事に気づかない。

 イエス様がやって来られたことで事態は急展開しました。

先に言いましたように、この話では他の話のようにイエス様が病を癒やすという形になっていない。

その代わりに、あるのがこの豚の大事件です。

 くりかえしになりますが、この人物は現代的に言えば心の病でしょう。しかし、人々も書いた人もそれを悪霊ととらえる。古い古い迷信的理解で聖書は書かれています。今の時代からすると荒唐無稽なかたちでの物語です。とくにそれが豚に乗り移るなどありえない話です。

 しかし、一方思います。たしかに心の病について、ストレスとか脳の一部の病変が原因というのが医学的には正しいでしょう。しかし「悪霊」というとらえには不思議なリアリティがあります。病んだ個人とその周りの人びと・社会を全体的にトータルにとらえる見方だと感じられる。悪霊という悪しき力が人々と社会を支配しているという状況。

 そこに、イエス様が来られ、そのような、人をさいなみ破滅させる悪霊に対して神の力が対抗する。まさにパワーとパワーの対決が描かれているのではないでしょうか。

 豚事件の当事者となったこのゲラサの村の人は呆然。そしてイエス様に村からの立ち退きを要求した。確かに彼らにとって財産であった家畜の損失はたまらなかったかもしれません。

 イエス様は神の救い。しかしそのようなことは異邦人である彼らはそれがわからない。それよりも豚の損失の方が、むしろそれのみの方が大事なこと。

 そしてまた、この「ゲラサの村」の人とは一方、私たち自身の姿でもあるのではないか。自分の利己的な損得のみに心を奪われ、もっとも大切な方のことがわからない・・・・。

 さて、正気になった人にとっては新しい出発。人らしく生きる一歩の始まりでした。

しかしそれは言うほど簡単なことでは決してありません。長い長い、自己破壊と喪失の日々のあとのことでした。

 彼はイエス様に同行することを「しきりに願った」と書いてあります。繰り返し、切実に、心の底からイエス様と共に行くことを願ったのです。長いこと村から隔離された墓場での暮らしでした。人間関係の回復、むしろそれをゼロからあたらしく創りださねばなりません。

 彼がイエス様について行こうとしたのは、この面から見ても無理はない気がします。長いこと囚われのうちに生きてきた者はそのような状態でしか生きられなくなっている。(ひょっとすると、そういうことは、この男だけはなく私たち皆か変わらないのかもしれません。)

しかし、彼を「悪霊」から救ったイエス様は、そうではない道を彼にしめします。

 家に帰りなさい。家や村には生活の足場もなくつらいかと思う。非常につらいであろう。

しかし帰りなさい。

 そして、「神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」

 「ことごとく」ということに深い意味が込められていると思います。

あなたの、以前の悲惨としか言い様がない生活。来る日も来る日も人目を避け、自分で自分を責めさいなみ傷つけ続ける生活。何年も何年も続いたそんな日々。それがどのようにして救われたか。自分はどんな人によって、どんな力でどのようにして、正気を取り戻すに至ったか。

ああ、神は大いなるかな!

 そのように、彼は勇気をだして、たじろぎ、気後れする自分に打ち勝ちつつ家と村にもどったのでした。そしてイエスが言われたとおり、神がなさったことをことごとく語り始めたのでした。

 同様の物語を語るマルコによる福音書では、この男は自分に起きたイエス様の救いのわざを「デカポリス一帯に広めた」とあります。デカポリスとは「十のまち」という意味です。まちというより十の独立した都市国家である。小さいとはいえ主権を持った独立国家です。

 墓場で自分を傷つけつつ暮らしていた男が、異教の十にのぼる国々に、神の福音を伝えるさきがけとなったのでした。

祈り

主なる神さま聖名を讃美します。あなたは、日々、私たちに救いのわざを起こして下さっています。私たちがそれに日々気づくことができますように。そして、世を覆う見えない悪しき力をはるかに超える、あなたの見えない計り知れない大きな力を勇気をもって語り伝えて行くことができますように。そのための教会の宣教と伝道と奉仕のわざをお強めください。