神は人を分け隔てしない 使徒言行録10章34-43節 2021年9月19日礼拝説教

34 さてペトロは彼の口を開いて、彼は言った。「真理に基づき私は、神が顔をとる者ではないと把握している。 35 むしろすべての民族において、彼を畏れる者や義を働く者は彼に認められている。 

 ペトロはコルネリウスの言葉(30-33節)を聞いて今はっきりと把握します。同じ神がコルネリウスとペトロに現れて、この出会いを導いていることが分かりました(1-16節)。そして自分が夢の中で見た幻は、食べ物の清い/汚れているが主題なのではなく、人間の清い/汚れているが主題であるということを理解しました(28節)。食べ物は単なる喩えです。ユダヤ人だけが清く、それ以外の人々が汚れているという考え方(理)そのものが問題なのです。

 「分け隔てする」と新共同訳が翻訳する言葉の直訳は「顔を取る/採る」です。初代教会の中でもパウロのグループがよく用いる特殊な単語です。パウロの主治医である著者のルカは、この言葉をパウロから受け取っています。この言葉は、「ある顔は受け取り、ある顔は受け取らない」ということから、「依怙贔屓する」「偏見をもつ」という意味に転じました。神は、さまざまな顔に人間を創りましたが、ある顔を気に入り、ある顔を気に入らないということを考えません。すべて大切な器です。わたしたちはとかく特定の人の顔色をうかがいます。また気に入らない顔を憎むことすらします。すべて神の似像、神の顔を映す鏡です。神の顔は、さまざまな顔をもつ、すべての人間に対して等しく向けられています。これは真理です。

 この真理に基づくのならば、ローマ人もギリシャ人も神の似姿です。ユダヤ人だけが神の民ではありません。すべての民族の中に神の民がいます。「神を畏れる者」というユダヤ教に好意的な人も(コルネリウスたち)、あるいは「義を働く者」という、ユダヤ教とも関係なく正義をこの地上に実現している人も、「清い」のです。神は信実な方です。だから神に向き合う人には信実だけが求められます。イエスの再三の宣言のように「あなたの信があなたを救った」のだし、神はアブラハムの信をみて(顔をみてではなく)、アブラハムを「義を働く者」と認められました。

36 彼は、イエス・キリスト――この男性が全ての主である――を通して、イスラエルの息子たちにかの言葉を送った、平和を福音宣教しつつ。 37-38 ユダヤ全土を通して生じた話を、あなたたち、あなたたちこそが知った。ヨハネが宣教したバプテスマの後で、ナザレからのイエスがガリラヤから始まって、そして神が聖霊でもってまた力でもってどのようにして彼に油注いだかも(あなたたちこそが知った)。その彼が善行をしながら、また悪霊たちによって抑圧された者すべてを癒しながら、歩き回ったのだが。なぜなら神が彼と共に居続けたからだ。 

 神はイエス・キリストを通して平和というものを福音宣教しつつ、大切な言葉/考え方/理(ロゴス)を送ったのです。ナザレのイエスは、ヨハネによってバプテスマを受けました。聖霊によって生まれ、聖霊によって油注がれ、聖霊によって押し出されて、ガリラヤでイエスは悪霊たちによって抑圧されていた人々を癒しました。古代世界のことです。悪霊に憑かれるという言い方が指すことがらは非常に広い範囲のことがらです。何でもかんでも悪いことは悪霊の仕業とみなされるからです。

新約聖書が語る「悪霊に憑かれる」ことの意味を、現代の状況と切り結び、現代にも意味あることとして理解することが必要です。その観点で言えば「悪霊に憑かれる」とは、「非人間的な行為をするようにと社会によって押しやられる」という意味でしょう。このような人々を「ただの人(人の子)」に快復させていくことが人の子であり神の子であるイエスの善行です。驚くべきことに、悪霊に憑かれた人物こそが真っ先に「イエスが神の子である」と見抜きます(ルカ8章28節)。救いをもっとも必要としているのは抑圧された人々だからです。時に顔が憎まれることすらあります。このような人々を生み出さないように社会を変えようとすることもイエスの善行です。イエスもまた「顔をとる者」ではなく、すべての人は清い/良いという理に立って行動しました。

 平和をつくりだすイエスに、常に神が共におられました。なぜならば悪霊祓いこそが平和をつくりだすことだからです。神は平和の神です。平和とは天地創造の状態を快復することです。お互いを面と向かって「極めて良い」と認める円満な状態こそ、聖書の語るシャロームです。この意味で差別や偏見、それらに基づく抑圧こそ、平和の反対語です。イエスが平和の主であるということを告白する者たちに、この平和が与えられます。

39 私たちも、彼がユダヤの地域でもエルサレムでも行ったこと全ての証人。その彼を彼らも殺した、木の上に架けながら。 40 この男性を神は三日のうちに起こした。そして彼は彼に顕現を与えた。 41 すべての民にではなく、むしろ神によって前もって手を伸ばした証人たちに、死から彼の起きることの後に彼と共に食べまた共に飲んだ私たちに(与えた)。 

 ガリラヤで悪霊祓いによって平和をつくりだしたイエスは、エルサレムでも平和を打ち立てました。それが十字架と復活、そして教会の誕生です。ユダヤ政府の権力者たちも住民もローマ兵もイエスに従っていた弟子たちも、その時にいたエルサレム住民はみなイエスを木の上に架ける勢力となりました。悪い意味の「群衆」とも言えるし、「悪霊的勢力」とも言えます。

 エルサレムではガリラヤと反対のことが起こります。おびただしい悪霊によってイエスが抑圧されます。愛弟子に裏切られ見捨てられ、政敵に冤罪をかぶせられ、鞭打たれ、茨の冠をかぶせられ、嘲笑され、占領軍に重い十字架を担ぐように強いられ、釘打たれ、木に架けられ、虐殺されたのです。社会全体が、エルサレム住民をイエスの十字架刑執行へと駆り立てていました。エルサレムでのイエスは、悪霊祓いをしません。悪霊に圧し潰され排除される道を選びます。全部を負って、全部を呑み込むためです。十字架はブラックホールのようなものです。すべての負のエネルギーを集めて葬るのです。悪霊祓いの究極の仕方です。イエス以外の全ての人は、何らかの溜飲を下げたり、自分の保身を確保したりして「平和」を得ました。イエスを犠牲にして、イエスの命を消費して、「平和を買った」のです。

 これはもやもやとした「平和」です。極めて良いと言い切れない内容の平和です。「日本の平和のため安全保障上沖縄に基地が必要だ」という言い方によってもやもやするのと同じです。沖縄の犠牲に基づく平和とは何でしょうか。真の平和は、もやもやを打破する内容でなくてはなりません。神は神の子を三日目に起こします。誰かを犠牲にしてつくる平和を、イエスの十字架で終わらせるためです。イエスは負のエネルギーを葬る(「死を絞め殺す」)ためだけの人の子ではなく、正のエネルギーをすべての人に配る神の子でもあるのです。イエスは永遠の命をもつ復活者。イエスを主と告白する、生きている人への生命の「増し増し」が行われます。この証明のために、神はイエスをよみがえらせます。生+永遠の命のためです。Noでは人は生きないし、社会は変わりません。Yesが人を活かし、社会を変えるのです。

イエスの復活は誰の目にも明らかなかたちでは起こりませんでした。イエスの弟子たちにのみ復活のキリストが姿を見せます。この人々は最ももやもやしていた人々です。言い換えれば罪の自覚に圧し潰されていた人々です。この人々が「証人」になることが相応しいというのです。なぜならば、この人々は自分の生活や人生や生命について、本当に失望した良心的な人々だからです。確信をもってイエスを殺した人々に失望はありません。欲望通りの虐殺です。やむをえず殺す側に回った者たちに罪の自覚が生まれます。そのような人々は、イエスの復活を必要としていますし、イエスの復活を希望として受け入れられるものです。「わたしのせいで、そして同時に、わたしのために、イエスは十字架で殺され三日目によみがえらされ、このわたしの前に現れてくださった」。相応しくない者が証人となる理由は、きわめて逆説的なものです。相応しくないことを熟知し思い知らされている人は、正にそれだからこそ、イエス・キリストの十字架と復活の証人として相応しい人なのです。イエスの傷だらけの手は弟子たちに予め伸ばされています。思わず笑ってしまう逆転劇、あるいは加害者更正プログラムも平和の一表現です。

ペトロという一番弟子は最も卑劣な人物として福音書で描かれています。彼は大切な師匠イエスを保身のために否定しました。だからこそ復活のイエスの証人として相応しい器です。ユーモアと笑いが起こる出来事だからです。笑いがもやもやを吹き飛ばし真の平和を打ち立てます。教会がエルサレムでペトロを中心に生まれたことは、神のユーモアです。嘲笑と冷笑というマイナスを、明るい笑いというプラスに転換させる聖霊の力です。その笑いの源泉は、イエスと共に食べ共に飲んだという経験です(41節)。だから教会は主の晩餐を礼拝で必ず行ってきたのです。様々な人々が囲む食卓にユーモラスな平和が溢れています。互いに給仕する交わりが悪霊を遠ざけるのです。

42 そして彼は私たちに指示した。民に宣教するようにと、またこの男性が、生きている者と死んでいる者の裁き手(として)神によって定められた者であるということを証言するようにと(指示した)。 43 彼のために全ての預言者は証言している。彼を信じる者すべては、諸々の罪の赦しを彼の名前によって受け取ることを。」

 著者ルカにとっての福音は、「諸々の罪(複数)の赦し」です(43節)。ルカ福音書・使徒言行録に一貫して流れています。ここは罪を単数形で語るパウロに対するルカの応答です。原罪・贖罪という思想はルカ文書に弱い。だからルカ文書では罪を犯した時の悔い改めが強く求められています。悔い改めればイエス・キリストの名前によって、何度でも赦しが与えられるというのです。複数の赦しはその都度適切な裁きと共に行われます。イエスが生きている者と死んでいる者との裁き手でもあるからです(42節)。ルカは生き方の転換を常に促しています。教会という交わりは、それを可能にする神の器です。平和のうちに笑いが起こるので、「ごめんなさい」と言いやすいからです。

 ペトロは自分で説教しながらコルネリウスたちに「ごめんなさい」と言っています。ペトロの非ユダヤ人差別が軽やかに悔い改められ、教会の歴史がさらに塗り替えられていきます。

 今日の小さな生き方の提案は、自分の正しさを言い募らないで間違えることもあると認めることです。神の微苦笑を思い浮かべるなら、頑固なわたしたちにもそれが可能になります。悔い改めとは方向転換です。こちらの方向が間違えと知ったら、逆の方向に転換すれば良いだけのことです。軽やかに生きましょう。軽い足運びこそペトロの長所です。何度もやり直して学ぶことができることもペトロの長所です。自分に絶望しすぎず、自分に期待し過ぎず。神の顔を仰ぎながら神の起こすユーモラスな出来事を希望しましょう。