44 この話をペトロが語っている最中に、聖霊がその理を聞いている全てのものの上に降った。 45 そしてペトロと共に来た割礼からの信者たちは、非ユダヤ人の上にも聖霊の贈り物が注がれたということに驚いた。 46 というのも彼らは彼らが舌で語っているのを、また神を崇めているのを聞き続けていたからだ。
本日の箇所は、聖霊がそこに集まっている人々すべてに降ったということと、その証拠(聖霊の贈り物)としてその人々が舌で語ったということを報告しています。つまり、この出来事は「第二のペンテコステ」です。
第一のペンテコステはエルサレムで起こりました。ガリラヤから従っていた百二十人余りの老若男女に聖霊が降り、さまざまな言語(舌)でみんなが「イエスは主」と告白したのでした(2章)。「舌で語っている」(46節)という現象は、ペンテコステの後では、本日の箇所まで出てきません。ヤッファの教会員が驚いているという事実は、ヤッファの教会でも「舌で語る」という実践が無かったということの証左・裏付けとなります。
六人のヤッファの男性教会員がペトロと共にカイサリアのコルネリウスの家に来ました(11章12節)。皮なめし職人シモンも同行していたかもしれません。そして六人のうち少なくとも二人は、「割礼からの信者たち」です。その意味するところは、生まれながらのユダヤ人から改宗したキリスト者というだけではありません。非ユダヤ人でありながら、後にユダヤ教に入信し割礼を受けてユダヤ人となった改宗者も含まれうるからです(6章5節「改宗者ニコラオ」等)。国際派指導者フィリポの系列であるヤッファ教会には、このような改宗者たちも多くいたと思われます。ヤッファは港町。地中海全体に開かれた町です。そしてユダヤ人は地中海全体に居住し、それぞれの町に会堂を建て、礼拝を毎週捧げていました。そこに非ユダヤ人からユダヤ人へとなる「改宗」の苗床があります。その改宗者たちがヤッファに移住すれば、ヤッファの会堂に連なるでしょう。そこからナザレ派に転向する人々も多くいたことでしょう。「割礼からの信者たち」を、「(生まれながらの)ユダヤ人キリスト者」とだけ捉えない方が、初代教会という社会運動を正確に捉えることができると思います。
ヤッファ教会員六人、そしてローマ人百人隊長コルネリウスとその家族・親戚縁者、二人の執事たちと、部隊の兵士、これらの人々全員に聖霊が降りました。「その理(ロゴス)を聞いているすべての者の上に」と書いてある通りです。「その理」とは、神が偏見を持っていない方であるという真理です。ユダヤ人もギリシャ人もローマ人も、中国人も朝鮮人も日本人もアイヌ人も琉球人も、すべての人は神の似姿です。その理を聞いて、そして、その理に従う者には聖霊が降ります。聖霊がその人を「イエスは主」と自分の舌で告白する人に、また「主はすばらしい」と自分の舌で神賛美をする人に変えるのです。
この日、コルネリウスの家の教会が創始されました。著者ルカは、この教会を第二のエルサレム教会として描写しています。
それからペトロは答えた。 47 「私たちと同様に聖霊を受けた、これらの人々が浸されるための水を誰が妨げることができるか。」 48 さて彼はイエス・キリストの名前において浸されるために彼らを整えた。それから彼らは彼に数日留まることを頼んだ。
コルネリウスの家に集まっている人には、二種類の人がいます。バプテスマを受けてから聖霊が降った人と、聖霊が降ってからバプテスマを受けた人です。ヤッファ教会の六人はバプテスマを受けた後に、この日初めて聖霊がその身に降りました。この人々は自分に初めて起こった出来事にも驚いています。ペトロとコルネリウス一党は、聖霊が降ってからバプテスマを受けました。基本的にはペトロも、ペンテコステの聖霊降臨の後にナザレ派としてのバプテスマを受けた(百二十人の弟子は相互授浸か)と考えます。
聖書にはこの二つが混在しています。聖霊が降ってから人はバプテスマを受けるのでしょうか。それともバプテスマを受けてから、聖霊が降るのでしょうか。水のバプテスマの後に、聖霊のバプテスマも必要なのでしょうか。本日の箇所を見る限り、それらは混在していて良い、どちらか一つの道があるわけでもないということが分かります。両者が同時に存在しているからです。
実は著者ルカは、どちらかというとバプテスマが先、聖霊が後という考え方を重視しています(8章16節他)。本日の箇所は例外的なのですが、しかし重要なことに、ペンテコステの順番と一致しています。
理屈の上では、聖霊が先に宿って、信じる心が与えられ、信仰告白をするようになるはずです。パウロならばそう言うでしょう(1コリント12章3節、ローマ10章9-10節)。聖霊が先、救いが先、バプテスマが後です。ルカという歴史家は、このようなパウロの思弁、抽象的な神学理念に対して挑戦しながら、この両者をまとめようとしています。いろいろな信仰生活があって良いわけです。その人にとって、「あれが聖霊の降った時だった」とか、「あの出来事に確かに神の導きがあった」とかの自覚があれば、それで何の問題もありません。出来事が先、教理が後です。聖霊が降ったという出来事が、一体バプテスマの前だったのか後だったのかも、その人が主観的に決めるだけのことです。
わたしたちもルカのように大らかに考えたいと思います。例えば、晩餐のパンとぶどう酒を取る行為が、バプテスマを受ける前なのか後なのかということの意味はどうなのでしょうか。その人自身がその意味付けをすれば良いだけのことではないでしょうか。聖霊の導きというものは、バプテスマの前にもありうるし、またバプテスマの後にもありうると考えます。なぜならば聖霊が神そのものだからです。天地を創られ、わたしたちを創られた、いのちの御霊は、確かに全ての生命のうちに生きて働いているからです。
ペトロは「私たちと同様に聖霊を受けた、これらの人々が浸されるための水を誰が妨げることができるか。」と言います。この言葉は、エチオピアの宦官の言葉を真似ています。「見よ、水が。私が浸されることを何が妨げているか」(8章36節)。二人の言葉は、単語レベルで一致しています。二人の言葉に共通する趣旨は「バプテスマという儀式を妨げるものはない」という骨太の真理です。バプテスト派であるわたしたちは、この真理を「信教の自由」という言葉で言い表し継承しています。
さてペトロは、エチオピアの宦官のバプテスマ志願の言葉を誰から聞いたのでしょうか。単語レベルで一致している表現をペトロが創始したとは考えられません。しかもペトロは、「非ユダヤ人にバプテスマをすべきでない。割礼を先に受けてユダヤ人になってからでなくてはだめだ」という考えの持ち主でした。割礼重視という、この考えの前提には「男性中心主義」があり、「婚姻における男性支配」も潜んでいます。だからこそペトロは、やもめら女性たちに押し立てられた国際派ステファノやフィリポを切り捨て、フィリポのサマリアでの伝道をも邪魔したのです。
エチオピアの宦官の言葉を聞いた唯一の人物は、フィリポです。ペトロとかなり気まずい関係になっていますが、元々は同郷ベトサイダの出身で、二人は仲が良かったと思われます(特にアンデレを介して)。フィリポはエチオピアの宦官のバプテスマについて、リダの教会員たちにも、またタビタや皮なめし職人のシモンらヤッファの教会員たちにも熱く語っていたはずです。アフリカ系の肌の滑らかな人々にも、また宦官にも、イエス・キリストの福音は宣べ伝えられたこと、神は分け隔てなく全ての被造物の神であるということを、フィリポは宣教していました。リダの教会やヤッファの教会は、その証を大切に伝承していました。そしておそらくそれらフィリポ系列の教会でバプテスマを執行する時に、一種の「式文」としてエチオピアの宦官の言葉と、異読に保存されている8章37節が用いられていたのでしょう。
志願者:「見よ、水が。私が浸されることを何が妨げているか。」
執行者:「もしあなたが全ての心から信じているなら、それは適切だ。」
志願者:「わたしはイエス・キリストが神の子であると信じている。」
これらのやりとりの後、バプテスマが執行されます。
フィリポ系教会の信徒たちにペトロは非常にお世話になっています(9章32節以降)。毎週礼拝にも参加しています。居候期間中、教会で(海で)バプテスマがあったはずです。つまりペトロは、リダとヤッファの教会から、エチオピア人受洗志願者の言葉を受け取ったのです。この式文は非常に良いと感銘を受けたからです。「バプテスマを受けるために妨げとなりうる人間とは誰なのか。誰もいないはずではないのか。ましてや自分が妨げとなってはいけないのではないか」。あのペトロが、フィリポ系列の教会の実践から学び、それらの教会の言い伝えの言葉を自分の言葉として発していることに、ペトロという人の成長を見ます。ペトロとフィリポの接近がここにあるのです。「もう一度、今こそフィリポに会いたい」。ペトロの本心だと思います。
48節でペトロは、コルネリウスたちのバプテスマを執行していません。新共同訳聖書のように「命じた」と訳しても、そうです。ペトロは、自分以外の誰かがバプテスマを行うことを望んでいます。その人物というのは、先にカイサリアで宣教活動を始めていたフィリポ以外には思い当たりません(8章40節)。ペトロは、コルネリウスの家の教会が、フィリポの家の教会と合流するように整えたのでしょう。
48節「彼ら」とは誰でしょうか。文法的には直前に出てきている複数の人物と考えることが素直です。それならばコルネリウスたちではなく、ペトロと共に来ていたヤッファ教会員たちです。彼らは悔い改めたペトロと、自分たちの師匠フィリポの歴史的和解の食卓を設けます。彼らはペトロの意を受けてコルネリウスたちをフィリポの教会に合流させます。そして彼らはフィリポを執行者とする、コルネリウスたちのバプテスマ準備を整えます。そのために、ペトロに数日の滞在を求めていくのです。
これがルカの描く第二のペンテコステです。ペトロとフィリポが再び共に働くことの意義をルカは深く捉えて、最大限重視して使徒言行録に収めています。
今日の小さな生き方の提案は、教会が公式に用いる言葉は、人を導く力があるということを確認することです。ペトロという人はバプテスマの式文によって自らの狭さに気づかされたのです。長期間居候して、フィリポ系列の教会の礼拝に参与し続けて、その教会で毎回使われる公の言葉が、頑固で偏狭なペトロの心を柔らかくし、心に働きかけ、あの理を理解できるようにしました。割礼のあるなし、ユダヤ人であるかないか。このような定規はあまりにも短くしかも歪んでいるのです。神は、もっと長く真っ直ぐな定規を持っています。割礼を施されることが不可能な宦官のエチオピア人や、神を畏れるローマ人と自分の間に何の違いがあるのでしょうか。わたしたちも教会の公式の言葉(式文や信仰告白)をこれからも整え、伝道していきましょう。