1 さてユダヤの下に居続けている使徒たちと兄弟たちは非ユダヤ人も神の理を受容したと聞いた。 2 さてペトロがエルサレムに上った時に、割礼からの者たちが彼に向かって批判し続けた。 3 次のように言いながら、「あなたは無割礼の男性たちに向かって入って行った。彼らを得ながら、また、共に食べながら。」 4 さてペトロは始めて、彼は彼らのために順々に告示し続けた。
ペトロは9章から10章に渡る長期の旅を終えて、エルサレムに帰ってきます。彼はエルサレム教会に居続けることに疲れ、フィリポ系列の教会を転々と居候していました。気づくと、リダ、ヤッファ、カイサリアという町にある教会を巡る大旅行となっていました。そしてカイサリアの地で同郷の使徒フィリポと仲直りをしたのだろうと推測します。そこで、ペトロに新しい使命が生まれました。フィリポたち非ユダヤ人とも教会形成をするグループ(国際派)の名誉の回復です。エルサレム教会の主流は、民族主義的右派キリスト者たち(民族派)です。その人たちと国際派キリスト者たちの架け橋になることをペトロは志し、あえてエルサレムへと帰るのです。案の定、風の噂で民族派はペトロの転向を聞いていました。彼らはペトロを批判します。なぜ割礼をしない者たちの家に入り、食事を共にするのか。ペトロは自分の経験を丁寧に語ります。
5 「私、私が祈りながらヤッファに居続けた。そして私は恍惚のうちに幻を見た。降りつつある、大きな敷物のような、とある器を、四隅で天から降ろされつつある(器を見た)。そしてそれは私にまで来た。 6 そしてそれの中へと注目して、私は観察し続けた。そして私は地の四足獣と野獣と這う物と天の鳥を見た。 7 さて私は私に言っている声も聞いた。『ペトロよ、起きてあなたは殺せ。そしてあなたは食べよ』」。 8 さて私は言った。『とんでもない、主よ。というのも俗なものや汚れているものを何も私の口の中へと入れたことはないのだから』。 9 さて天からの二度目の声により彼は答えた。『神が清めたものを、あなた、あなたが俗にするな』。 10 さてこれは三度起こった。そして全てが再び天の中へと引き上げられた。
ペトロは自分が見た幻を忠実に再現して語り聞かせます。宗教的に汚れているとされた動物たちに対するペトロの態度に、民族派キリスト者たちは大いに頷きます。聞き手は語り手に共感します。うまい語り口です。そして、ペトロと同じように神に不平を言います。「とんでもない。汚れているものを食べたことなどない。神が汚れていると律法で定めたものを、なぜ神が清めた物などと言うのか」。
11 そして見よ。直後に三人の男性が、私たちがその中に居続けた家に接して立った。その彼らはカイサリアから私に向かって遣わされていたのだが。 12 さて霊が私に差別することなく彼らと共に来るように言った。さて、私と共に、これらの六人の兄弟たちも来た。そして私は男の家の中へと入った。
ペトロは三人の非ユダヤ人男性の来訪が、三回にわたって「汚れた動物」が自分のところに降りてきたことを指していると説明します。その人々は天から来た存在であり、神が清めた存在です。「低俗な汚らわしい者ども」というような差別と偏見を持つことなく、彼らと一緒にカイサリアに行けと聖霊が促したとペトロは言います。多分ペトロもカイサリアには行きたくなかったと思います。自分が追い出して疎遠になったフィリポがいたからです。しかし、聖霊が促すので(その実態はフィリポの弟子たちである「六人の兄弟たち」がペトロに師匠フィリポとの仲直りを促したということでしょう)、三人の非ユダヤ人と共に一泊二日の旅をしてカイサリアのコルネリウスを訪ねたのです。
ペトロは非ユダヤ人たちと一緒に食事をしたことは旅の途中の宿屋ですでにあったとさらりと白状しています。それはヤッファの教会員六人も同席している場面です。この時点で自然にペトロはエルサレム教会員にヤッファの教会員を紹介したことでしょう。国際派フィリポの薫陶を受けた教会がヤッファにあり、そこでは非ユダヤ人たちと共に礼拝をし、晩餐を共にすることが当たり前でした。ペトロだけが別の皿に「清い動物」を食べていたのです。だから宿屋の食事においても、三人の非ユダヤ人とユダヤ人ペトロの仲介役として、国際派キリスト者六人が役に立ちました。
13 さて彼は私たちに、彼の家の中で彼が天使をどのようにして見たかを説明した。(天使は)立ち続けまた次のように言い続ける。『あなたはヤッファへと遣わせ。そしてペトロと呼ばれているシモンを呼べ。 14 その彼があなたに向かって話を語るだろう。それにおいて、あなたもあなたの家全ても救われるであろう(話を)』。
次にペトロはローマ人コルネリウスの家に入ったことが事実であることを認めました。そしてコルネリウスも天使と出会っていること、天使の命令に従って三人の男性をヤッファに遣わしたことを説明します。ペトロとコルネリウスには面識がありません。しかしこの二人を出会わせようと、天使を遣わす神・聖霊である神が働きかけているということをペトロは力説します。
ただしペトロは事実と異なる部分を盛り込んでいます。14節の末尾は「それにおいて、あなたもあなたの家全ても救われるであろう(話を)」は今までの物語にはありません。ペトロの脚色です。コルネリウスは自分と自分の家族が救われるという約束をもとにペトロを呼んだのではありません。理由も知らされない命令にただ従ったのです。この点でコルネリウスの信仰はアブラハム・サラ・ロトの信仰に比べられます。こういうところをペトロはエルサレム教会員に紹介した方が良かったと思います。ペトロはコルネリウスの信ではなく、自分の行為を誇っています。「自分の説教によって人が救われる」という傲慢な思いが見え隠れします。ペトロの自己肥大です。
15 さて私が語り始めた時に、聖霊が彼らの上に降った。ちょうど初めに私たちの上にも(降った)ように。 16 さて私は以下のように言い続けていた主の話を思い出した。『ヨハネは実際水でもって浸した。さて、あなたたちは聖霊の中に浸される』。 17 そこでもし神が、主イエス・キリストを信じている私たちと同様に、彼らに同一の贈り物を与えたのならば、私はどのようにして神を妨げることができるか」。
15節以降は、事実の経過をペトロがさらに自分たちエルサレム教会員に引き付けて解釈している言葉です。カイサリアのコルネリウスの家で起こったことは、「ちょうど初めに私たちの上にも(降った)ように」、同じ聖霊が降った出来事なのだというのです。ペトロの言葉を聞く者たちの中には、最初の百二十人もいたことでしょう。もちろんペトロも、そしてフィリポも最初の百二十人の一人です。この一言は、聴衆の心を鷲掴みにしました。彼ら彼女たちは民族派である前に、同じ霊を飲んだというペンテコステの同志なのです。国際派のフィリポが設立に関与した教会も、同じナザレ派であることをエルサレム教会員は気づきました。何にも増して目の前にヤッファ教会員六人がいます。その中には、割礼からの者もいれば、非ユダヤ人もいます。エルサレム教会員たちは悔い改めへと導かれます。
さらにペトロは畳みかけます。イエス・キリストは非ユダヤ人が教会に加わることをどのように考えるだろうかと。「主の言葉を思い出した」とは、一番弟子ペトロにしかできない話術です。「ヨハネは実際水でもって浸した。さて、あなたたちは聖霊の中に浸される」(1章5節)。主イエス・キリストが予告した聖霊の中に浸される経験を、エルサレムの宿屋の上階でもカイサリアのコルネリウス宅でも、ペトロはしました。二度したので同じ聖霊だとペトロには分かります。ということは、復活のイエスが言う、聖霊の中に浸されるべき「あなたたち」の中に非ユダヤ人は含まれます。
そしてフィリポ系列教会のバプテスマ執行のための式文から学んだ言葉で結びます。「私は神を妨げることができない」。ヤッファの教会員たちにとって誇らしく嬉しい瞬間です。ペトロが自分たちの礼拝実践をエルサレム教会に紹介してくれたからです。ペトロは、やっと「良いサマリア人」のような自ら隣人となる人に成長しました。
おそらくこの後に、ペトロは六人の仲介者と共にフィリポとカイサリアで会ったこと、そして彼に謝ったこと、彼の家の教会で共に礼拝し、そこでも非ユダヤ人たちと共に主の晩餐・愛餐をしたことを、エルサレム教会員に伝えたのではないかと推測します。この経緯報告のすべてが、ペトロに対してなされた批判に対する有効な反論となるからです。割礼があるかないかという狭い間口よりも、聖霊の創る交わりという広い間口をとることがナザレ派としては良いという主張がペトロの結論です。
18 さてこれらのことを聞いて、彼らは黙った。そして彼らは神に栄光を帰した、以下のように言いながら。「実に非ユダヤ人たちにも神は生命に至る悔い改めを与えた」。
エルサレム教会員は黙りました。どれくらい長い時間だったのでしょうか。しばらくして口を開いた時に、彼ら彼女たちは神に栄光を帰します。賛美を捧げ、神を崇める告白をしたのです。神賛美は、自らの悔い改めと裏腹の関係です。自らの小ささを認める者が神の大きさを告白できます。ステファノやフィリポら国際派を切り捨てたことへの悔い改め、割礼の有無で人を神聖か俗物かを判断することへの悔い改め、ペトロに対する不当な非難をしたことへの悔い改め等々、これらの罪を悔い改めて、神にのみ栄光を帰します。
「実に非ユダヤ人たちにも神は生命に至る悔い改めを与えた」。この言葉は自分たちが悔い改めたことを前提にしています。非ユダヤ人たち「にも」とあるからです。彼ら彼女たちはペトロの悔い改めの旅を追体験しました。そしてペトロの悔い改めがペトロを再生させたことを確認し、自らもその悔い改めの道を辿ったのです。これは辛い作業です。歯を食いしばって沈黙のうちになされる自己切開です。今までの生き方の否定を含むからです。しかし悔い改めは生命へと至る、生き方の大転換です。
今日の小さな生き方の提案は悔い改めることです。ナザレのイエスは次の言葉から神の国運動を始めました。「時は満ちた。神の国は近づいた。あなたたちは悔い改めよ。そしてあなたたちは福音を信ぜよ」。イエスは、すべての人に向かって「悔い改めよ」と今も呼びかけています。それが生命に至る道だからです。神の国はすぐそこに近づいているので、その方角に向きを変えることが悔い改めです。神の国は、教会と同じではありません。教会も世俗組織の一種であり日本社会の一部です。狼と羊が同居し赤ん坊が導くような交わり。王が給仕し招かれていない客が大勢いるような食卓。多様性と逆説に満ちた交わりが神の国です。そこに民族主義や差別はありえません。手元にある聖書が示す、近づきつつある理想社会です。この方角へと常に教会も人類も、悔い改め続け方向修正し続けなくてはいけません。謙虚で柔軟であり続けましょう。聖書を起点にぶれ続けましょう。それが生命へと至る道です。