アンティオキアの教会 使徒言行録11章19-26節 2021年11月7日礼拝説教

19 そこで、ステファノについて起こった苦難によって散らされた人々はフェニキアとキプロスとアンティオキアまで通って来た、ユダヤ人たち以外には誰にもその理を語らないままに。 20 さて彼らのうちの何人かはアンティオキアの中へと来たキプロスとキレネの男性であり続け、そして彼らはギリシャ語話者たちに向かって語り続けた、主イエスを福音宣教しつつ。 21 そして主の手が彼らと共にあり続けた。それから信じた多数の者たちは主に面して向き直った。 

 11章19-21節は、8章1節に続く出来事を記しています。すなわちステファノが殺された後、国際派キリスト者たちが散らされたということを、詳しく報じています。サマリアまでではなく(8章、フィリポ)、さらに北にも逃げていったというのです。時間的には、サウロの回心(9章)や、ペトロの移動(9-11章)よりも前に起こった出来事です。ステファノ殺害からほどなくして、おそらくは数か月以内に、ステファノの流れを汲む国際派キリスト教の教会が、無名の信徒たちによってアンティオキアに設立されたというのです。その中心には、「アンティオキア出身の改宗者ニコラオ」がいたことでしょう(6章5節)。

 このことの歴史的な意義は大きいものです。というのもアンティオキアが、ローマ帝国第三の大都市だからです。人口50万人、そのうちの一割がユダヤ人。当時多くの会堂があったと言われます。ユダヤ教会堂がニコラオのような「改宗者」を生んでいたのです。アンティオキアは属州シリアの首都です。広大な領土を管轄するローマ総督府が置かれていた都市で、ナザレ派は大いに教勢を伸ばしたはずです。ナザレ派が急速に数を増やした理由は、皮肉なことに、国際派が迫害されたことにあります。国際派でなければ国際都市アンティオキアでの宣教活動は不可能でしょう。しかもそれは十二使徒によるものではありません。名も無い信徒たちによる信徒運動です。

 信徒たちはフェニキア・キプロス・アンティオキアでユダヤ人たちに「その理」を語りました。アラム語話者とギリシャ語話者の差は無い。割礼のある者と無い者の差、ユダヤ人と非ユダヤ人との差、男性と女性の差は、福音においてありえないという真理です。ユダヤ人に対しては、悔い改めの宣教をしていました(19節)。しかし同時に、キプロスとキレネ出身の信徒たちは、ギリシャ語話者たちに「主イエスを福音宣教」し続けました(20節)。その福音は、「イエスが主である」というものでしょう。割礼があるか無いかなど非ユダヤ人差別は省いて、十字架と復活のイエスがあなたもあなたの家族も救うという内容です。彼ら彼女たちは最初から、ユダヤ人の前ではユダヤ人のように、ギリシャ人の前ではギリシャ人のように語り分けていたのです。

 ここではキプロスとキレネだけが特筆されています。キプロスはアンティオキアとの近さにおいて、またキプロス出身のバルナバとの関係において挙げられているのでしょう。キレネはその点で奇妙です。キレネはアフリカ、アンティオキアと遠い場所です。福音書にはキレネ出身の人物は、アレクサンドロとルフォスとの父親であるシモンという男性しか紹介されていません(マルコ福音書15章21節)。イエスの十字架を背負わされた男性です。この人がペンテコステも経験して教会員となり(使徒2章10節)、その後ステファノら国際派に属し、ステファノの苦難の後に散らされアンティオキアに来た可能性はあります。シモンたちキレネ人グループの一人が13章1節の「キレネ人ルキオ」という指導者かもしれません。なお、ルフォスと彼の母親はパウロに紹介されています(ローマ16章13節)。 シモン一家がエルサレムからアンティオキアに移住して、そこでパウロと親交を持った可能性があります。

22 さて彼らについての理は、エルサレムの中にある教会の耳の中へと聞かれた。そして彼らはバルナバをアンティオキアまで遣わした。 23 その彼が接近して、また神の恵みを見ながら、彼は喜び、また彼は全ての者に呼びかけ続けた、心の計画でもって主にとどまるようにと。 24 というのも彼は良い男性であり続け、また聖霊と信仰が満ち続けていたからである。かなりの群衆が主に加えられた。 

 ニコラオ(アンティオキア出身)や、キプロス出身者や、シモン一家(キレネ出身者)が設立したアンティオキア教会が大きく育っていることを、エルサレム教会は聞きます。そのことを非ユダヤ人差別は間違えているという「理(ロゴス)」(22節)として、母教会の教会員一人ひとりは聞きます。この「理」に深く共感し、理解を示した一人がバルナバという使徒・指導者です(4章36節)。バルナバ(ネボの息子の意)はキプロス人の父親と、レビ部族の母親を持つダブルです。彼は国際派に同情的でした。自身ギリシャ語話者でもあったからです。そしてエルサレム教会の中のキプロス人ネットワークの中心人物だったのですが、多くのキプロス人キリスト者はエルサレムから追い出されました。バルナバはエルサレム教会から「ユダヤ人キリスト者」とみなされエルサレムに残留しましたが、本心はニコラオやキプロス人キリスト者たちと一緒にアンティオキアに行きたかったと思います。この思いは、バルナバの「心の計画」(23節)としてずっと温められていました。彼は、民族派キリスト者に対しても、国際派キリスト者に対しても「良い男性であり続け」ました(24節)。相当の人格者です。「良い男性」と評価される人物は、使徒言行録でバルナバの他にいません。良い人であるバルナバはエルサレム教会を見棄てることもできず、この時点までどこにも行かれなかったのでしょう。

 エルサレム教会がアンティオキア教会の様子を知りたいと考えたことは好都合でした。バルナバは立候補してアンティオキアに行ったと思います。というのも、その後一度もエルサレムに帰らないからです。彼はエルサレムの土地を売って、その売価を教会に捧げています(4章37節)。身軽です。キプロス出身のバルナバはアンティオキアに何回も行ったことがあり、国際的大都市であることやキプロス人が多く住んでいることを知っています。アンティオキア教会のキプロス人ネットワークに加わりたい、そこで自分の力を発揮したいとバルナバは考えます。その先には故郷キプロスへの宣教活動があります。彼は志をもってアンティオキア教会に向かいます。

 アンティオキア教会はステファノたち七人の思想信条を引き継いでいました。多言語が行き交い、やもめたちも活躍する、明るく開放的な教会です。予想通りの様子を見てバルナバは喜びます。民族派中心のエルサレム教会から来たのにもかかわらずバルナバはあっという間に馴染んでいます。彼自身がすでに国際派の「理」を自分の信念としていたからです。聖霊の神は非ユダヤ人を差別しない方です。こうして「心の計画」を実現したバルナバは、自らの経験を「証」として教会員たちに勧めます。神は、信徒たちの内心の自由を尊重し、今は苦しくてもいつか必ず地上に各人の「心の計画」を実現させてくださる方です。その方にとどまり、その方につながり続けるべきです。バルナバの説教は、教会の内外で評判となり多くのアンティオキア住民が教会に加わっていきます。

25 さて彼はサウロを探すためにタルソスへと出て行った。 26 そして見つけて、彼はアンティオキアへと連れてきた。さて彼らは丸一年その教会の中に集まるということ、またかなりの群を教えるということ、それから初めてアンティオキアで弟子たちがクリスチャンと称するということが起こった。

 アンティオキア教会でも指導者となった使徒バルナバは一人の男性を思い出します。ダマスコ教会から派遣されエルサレムで捕まえたサウロという人物です(9章26節以降)。バルナバはサウロが旧約聖書の解釈に優れていることに目をつけ、目をかけていました。国際派ステファノを殺し、ステファノの殺害を身に帯びているサウロは、ステファノと同じ国際派です。ギリシャ語を第一言語とする離散ユダヤ人でもあります。エルサレムで暗殺されかけた、このサウロを、バルナバたちは陸路でカイサリアのフィリポのところに逃がし、さらに海路でサウロの実家のあるタルソスまでも送り届けています。もしもサウロが協力してくれたら、自分のさらなる「心の計画」(志)が実現するかもしれないとバルナバは思い始めます。それは故郷キプロスにキリスト教会を設立することです。

 エルサレム教会よりも大勢の教会員が集まるアンティオキア教会は経済的に恵まれていました。エルサレムよりもアンティオキアの方が物価も高く賃金も上です。交通の要衝であるアンティオキア教会を拠点とするならば、西(トルコ方面)にも東(イラン方面)にも国際派の勢力を伸ばすことができます。活動支援金をもたせて、放浪の宣教者たちに旅をさせるという方式です。バルナバはアンティオキアからタルソスに行きサウロを再び捕まえます。

サウロはくすぶっていました。ファリサイ派の実家に帰ってもあまり歓迎されていません。彼がファリサイ派からナザレ派に転向したからです。かといってナザレ派の家の教会をつくることもできません。独身のサウロは両親と同居しつつ家業の天幕づくりをして暮らしています。ファリサイ派の両親は自宅をナザレ派の礼拝には用いさせません。

 バルナバはサウロに「自分もエルサレムでくすぶっていた。アンティオキアの教会に来ないか」と誘います。サウロは感激し、バルナバに心酔し、すぐにもアンティオキアに行こうとします。両親はサウロと大喧嘩をしたと思います。その末に息子を勘当したのではないでしょうか。サウロの書いたフィリピの信徒への手紙3章から推測できます。サウロはキリスト(バルナバを通じて)に捕まり、その絶大な価値のゆえに、血統その他一切には価値がないという心境に至りました。「父の家」を棄てたサウロは、以後故郷に立ち寄りません。

 アンティオキア教会で丸一年サウロはバルナバの薫陶を受けます。毎週の礼拝を共にし、アンティオキア教会が大切にしていることを身につけていきます。それはクリスチャンという呼び名のもと、さまざまな背景を持つ人が集まるということです。教会員となったサウロ(シャウール)はパウロというギリシャ語の名前も用いるようになります。どちらで呼ばれても気にならなくなるのです。ファリサイ派はユダヤ人同士の中であっても「分離する者」であり、当然にヘブライ語名しか許しません。しかしナザレ派はクリスチャンという呼び名のもとどのような背景を持つ者もそのままで受け入れています。その広い愛によって偏屈なサウロが生かされます。心の狭さが、徹底した思考となって独特な聖書解釈を編み出していくのです。

 今日の小さな生き方の提案は、「良い男性」バルナバに倣うということです。彼は国際派アンティオキア教会の働きをいち早く評価し自ら赴きます。またサウロを素早くそこに引き込みます。もともとキプロス宣教という計画があったからです。しかしこの志を彼は民族派エルサレム教会の中では思慮深く秘密にしていました。エルサレム教会自身の意思でアンティオキア教会に興味を持つまで、祈って待っていたのです。待つバルナバは時が来ると急ぎます。短期間で誰も敵にせず、自分の志実現のために全ての人を巻き込んでいきます。待ちつつ急ぎつつ。バルナバのような人になりたいものです。