クリスマスの出来事 2021年12月24日 キャンドルサービス説教

 子どもの頃のクリスマスの思い出と言えば、「少しずれたプレゼント」です。12月25日の朝になると枕元にクリスマスプレゼントが置かれているのですが、本当に願ったものとは少し違うものなのです。我が家に来たサンタさんの能力の問題でした。子どもの本心を調べる手間を省いていたのでしょう。クリスマスは微妙な喜びの日でした。

 マリアとヨセフも、若干そのような感想を持ったかもしれません。占星術の学者からもらったプレゼントの中に微妙なものが一つあるのです。黄金と乳香は分かります。しかし、没薬はどうでしょう。没薬は死没した人に塗る薬です。赤ん坊の誕生に対する贈り物としてはずれていないでしょうか。確かに高価ではあります。とは言え贈り物を転売するわけにもいきません。30年以上経って、母マリアは没薬が贈られた意味を知ります。赤ん坊だったイエスが十字架で虐殺され、没薬を必要とするようになった、正にその時です。

 同居することになった母は大の犬好きです。毎朝世田谷公園を歩く時に犬と行き交う度に、「啓ちゃん、犬でも飼わないかね」と言うのです。わたしの本心は「二度と犬など飼わない」というものでした。というのも昨年の今頃亡くした、愛犬のリックが常に心に居るので、別の犬を飼うことはなんだか「不倫」をしているような感覚になるからです。また、飼い犬の死を見るのが嫌だからです。この間、家族は新しい犬を飼う計画を出したり引っ込めたりしていましたが、わたし一人だけ頑として断っていました。

 しかし家で退屈そうにしている母を見ると少し気の毒になって、「お母さんがそんなに言うなら飼いますか」と、ある時から言うようになりました。勢いづいた家族が引き取るのを決めたのが保護犬だったパウチ(中型犬、5歳)です。「わたしはちっこいのが良い」と言っていた母には、ずれたプレゼントですが。一方私は母に感謝しています。もし「犬でも飼わないかね」と何度も言われなかったなら、一生他の犬を飼うことはなかったでしょう。おかげで今や毎日、母と犬とわたしという三者で散歩を二回することになりました。久しぶりかつ新鮮なメンバーでとても楽しい毎日です。おかげであの悲しみが癒されていくことが実感されています。

 ずれたプレゼントの循環によって、世界は成り立っているのかもしれません。キリストというプレゼントに対して、弟子たちを含めた人間の応答はずれていました。結局世界はキリストを締め出し十字架で殺しました。そのずれた行動がキリストの復活の大前提となります。おかげで復活の生命というプレゼントをいただくことができるようになりました。螺旋階段のように前に行ったり後ろに行ったりしながら、わたしたちは上に登ります。

 クリスマスのひと時、自分には少しずれていると思われる方も、どうかイエス・キリストという贈り物を心の中に受け取り受け入れていただければと願います。正にそのずれこそが、人生を上に持ち上げる力だからです。