6 それから使徒たちと長老たちはこの事柄を見るために集まった。
後48年春ごろ、後に「エルサレム会議」と呼ばれる話し合いがもたれました。アンティオキア教会代表団は、代表者バルナバ、パウロ、他若干名(2節)。若干名の中にギリシャ人テトスもいました(ガラテヤ2章1・3節)。それに対して、エルサレム教会は代表者ヤコブ(「長老たち」の筆頭。エルサレム教会の最高指導者。イエスの実弟。13節以下発言)、ペトロ(「使徒たち」の筆頭。十二弟子の筆頭。7節以下発言)とヨハネ(十二使徒、十二弟子の中で、ペトロに次ぐ地位。ガラテヤ2章9節)の三名が出席していたことは確実です。その他のエルサレム教会員出席者については議論が分かれます。
10節の「あなたたち」は、5節の「ファリサイの党派出身の信者」のように理解できます。民族派ユダヤ主義キリスト教徒も会議の場にいます。そうだとすれば、逆に国際派キリスト教徒もここにいたと思います。マルコの母マリアたちの群れです。エルサレム教会には有力な二つの家の教会がありました。「イエスの母マリア」(1章14節)の自宅と、「マルコと呼ばれていたヨハネの母マリア」(12章12節)の自宅です。ファリサイ派出身者やヤコブやヨハネは、イエスの母マリアの家の教会に連なっていたことでしょう。ペトロはマルコの母マリアの家です。マルコはペトロの通訳の奉仕だったという伝説が残っていますから、両者には関係があります。そしてアンティオキア教会代表団は、11章27節から12章25節までと同様にマルコの母マリア宅に宿泊していたと思います。パウロと喧嘩別れをして実家に帰っていたマルコは、気まずいながらもバルナバとパウロに再会し、ギリシャ語しかできないギリシャ人テトスと、ギリシャ語が苦手なペトロの通訳をしたのだと思います。
だからおそらくエルサレム教会員のほとんど全てがこの会議に積極的に参加したと推測します。民族派と国際派、その中間にあるサマリア教会の立場などなど、さまざまな人が「キリスト者になるために割礼が必要かどうか」意見をたたかわせたのです。それだけの大人数が集まる会議の場所は、「百二十人ほど」(1章15節)の老若男女が集まることができた「二階の広間」(ルカ22章12節)ではないでしょうか。この会議は第二のペンテコステなのです。
「この事柄を見るために集まった」とあります。「事柄」(ロゴス)をしばしば「理」「言葉」と訳してきました。ロゴスを「見る」。「見る」は見極め、見定めるという意味合いでしょう。話し合いとは集まってロゴスを見極めていく作業です。意見が異なり利害が対立する出席者全員にとって合理的な(ロゴスに適合した)結論を言論(ロゴス)を尽くして導き出すのです。当然「多くの議論が生じ」ます(7節)。混乱と混沌です。民主政治というものには話し合いの混乱に耐える精神力が要求されます。
バプテスト教会の特徴の一つに「民主的な教会運営」があります。上から下への上意下達ではないということ、権威主義に立たないということ、力の濫用を許さないということ、一人ひとりが意見をもつ主役であるということ、異なる意見の他者を尊重するということ、言論によって異なる意見同士を調整するということ等々が「民主的な教会運営」の具体です。エルサレム会議は、民主的な教会運営の根拠や模範となりうる出来事です。
7 さて多くの議論が生じて、ペトロが立って、彼は彼らに向かって言った。「兄弟たちよ、あなたたちは最初の日々からあなたたちの中で神が、私の口を通して福音の理を諸民族が聞くためにまた信じるために、選んだということを理解している。 8 そして心を知る方・神は彼らに証言した、聖なる霊を与えつつ、私たちとも同様に。 9 そして彼は、その信実のために、わたしたちと彼らとの間に何らの差別をしなかった、彼らの心を清めて。 10 今やそれだから、なぜあなたたちはその弟子たちの首の上に頸木を置くことで神を試すのか、そしてそれをわたしたちの父祖たちも私たちも担うことができなかったのだが。 11 むしろ主イエスの恵みを通して、わたしたちは救われていることを信じている、彼らもまた同じ仕方で。」
使徒たちの代表者であるペトロが立ち上がります。ペトロの発言の前までは民族主義的な主張が優勢だったかもしれません。「割礼を施されなければナザレ派に入ることはできない」という主張、「ユダヤ人になることが救いの条件である」という主張です。ギリシャ人信徒テトスにとっては自分の存在が否定されたかのように聞こえる発言です。もちろんテトスはエルサレム教会に受け入れられました。「割礼を受けるまでは兄弟ではない」などと、割礼を強制されませんでした(ガラテヤ2章3-4節)。だから同じ会議に出席しているのです。しかし、そもそも「受け入れる」という発想そのものが上から目線です。ユダヤ民族主義者の「無割礼の者たち」に対する差別意識は明らかです。「これは純教理的な意見でテトスさん個人への攻撃ではありませんが」と言いながら、エルサレム教会の民族派は会議の中でテトスを深く傷つけます。差別発言は剣となって魂を殺します。マルコの通訳を介して、自分へのひどい発言を少し遅れて理解するテトス。当事者でありながらうまく反論できないもどかしさがテトスを苦しめます。
この流れを断ち切ったのはペトロでした。テトスとマルコの近くに座っていたペトロはいたたまれなくなって発言をします。それは出席する一人ひとりの心に訴えかけるものでした。最初にペトロはエルサレム教会員全員に語りかけます。「兄弟たちよ」(7節)。当然二人のマリアも出席していたでしょうから、この「兄弟たち」には女性たちも含まれます。「あなたたちは最初の日々からあなたたちの中で神が、私の口を通して福音の理を諸民族が聞くためにまた信じるために、選んだということを理解している」(7節)。「あなたたち」もエルサレム教会員全員、特に18年前のペンテコステを経験した「最初の日々から」一緒だった教友に照準を合わせています。ペトロはローマ人コルネリウスの回心の出来事を紹介しているのでしょうか(10章)。それもあります。しかし素直に読めば、ペンテコステの出来事のことを振り返ってもいると解せます。なぜなら、その日聴衆に諸民族が居たからです(2章8-11節)。
ペトロという人は忘れっぽい人、後で気づく人です。神が諸民族の神であることを聖霊降臨の際に学びますが、忘れてステファノやフィリポを見棄てます。イエスがサマリア人に好意的であったことも忘れていましたが、サマリア教会を訪れて思い出します(8章)。フィリポ系列の諸教会にお世話になってやっとフィリポたち国際派キリスト者の主張の真理性に気づきます(9章)。皮なめし職人シモンの家に居候して、イエスが職業的に差別されていた人の家に泊まったことを思い出します。そして極めつけはローマ人コルネリウス一家に出会ったことです(10章)。神は同じ聖霊をすべての人に与える創造主・再創造の霊です。なぜなら、すべての人は同じ神の霊/息/風を吸い込んで生きる者とされているからです。生者は聖者です。神が清めたものを人が清くないと言ってはいけません。聖なる神がその中で生きて働いているからです。
「そして彼〔神〕は、わたしたちと彼らとの間に何らの差別をしなかった、その信実のために、彼らの心を清めて」(9節)。「その信実のために」は語順的に差別をしないということにも、彼らの心を清めることにもかかりえます。文全体にかかるものと考えます。そこで「信実」は信徒の信仰を指すのではなく、神の誠実を指すと解します。すべての創り主である神は、ご自分の創った被造物を差別しません。誠実な陶工職人は自分の作った陶器を等しく愛します。愛でます。目出度い存在として祝福します。この神の信実が醜い人の心を清めます。神に倣って、神の創った隣の人を差別しないように促されていくのです。差別とは罪の同義語です。罪の贖いは、わたしたちの信仰によるものではありません。ただ神・神の子・聖霊の信実によるものです。
ペトロは何回も不実を働き、多くの罪を犯しました。忘れっぽいからです。ところが神は、ペトロが不誠実な時にも誠実であり続けられました。ペトロがイエスを否定する時にも、イエスはペトロを肯定し続けました。その愛が、ペトロをこの会議の立役者とします。「自分たちユダヤ人ができなかった戒めを諸民族に課すべきでない。むしろ自分のされたいことを隣人にすべきである。それが戒めをあえて破っていったイエスの示した愛ではないか」。割礼によってではなく「むしろ主イエスの恵みを通して、わたしたちは救われていることを信じている」(11節)。隣の人が救われているかどうかを云々する人は、自分の救いが一方的に与えられた恵みであることを忘れているのです。「彼らもまた同じ仕方で」救われました。いや彼ら/わたしたちという区分も意味がありません。恵みはすべての論敵を「わたしたち」にしていまいます。
12 さて大勢の人の全ては黙った。そしてバルナバとパウロの語り続ける、神が徴と奇跡を諸民族の中で彼らを通してなしたとのことを、彼らは聞き続けた。
「神の信実」「イエスの恵み」という言葉はパウロの常套句です。ペトロはここでパウロに影響されパウロとの近さを打ち出しています。パウロの片腕であるギリシャ人テトスは嬉しかったことでしょう。テトスの言葉にならない感動や、民族主義者たちの恥じ入る心と言葉を失う悔い改め。沈黙は聖霊の働く時間であり余地です。沈黙を挟んで会議の流れは逆転します。バルナバとパウロが語り続ける諸民族との教会形成を、エルサレム教会員はじっと聞き続けることになりました。ペトロが「神の信実」「イエスの恵み」を語ってくれたので、話しやすくなりました。国際派のマルコの母マリアたちも頷いて聞いてくれます。オンライン会議の時代、ますます頷きの効果が重要になっています。聞いてくれていると思うと語りやすくなるものです。
先週、二回にわたって行われた連盟臨時総会の議案説明会は興味深いものでした。第一回目・第二回目と対話が進み、混沌からだんだんと整理され全員で「事柄を見極めていく」経験がなされたように感じられたからです。手続の適否、準備資料の適否、賛否意見の合理性、可決否決の効果等々が全体に了解され、納得が調達されていきます。その全過程がバプテストの大切にしている民主政治です。発言回数における男女均衡、教役者/非教役者のばらつきも良くなったと思います。その中で必ずペトロのように流れを変える発言があります。そこに共通することは勇気です。聖霊の促しによる勇気ある発言が話し合いを良くします。ペトロのような忘れっぽい人に働く聖霊を、すべての人は与えられています。
今日の小さな生き方の提案は、聖霊を求めることです。ペンテコステが毎年一度訪れることは恵みです。忘れっぽいわたしたちにも愛が与えられるきっかけになります。論争相手の存在を喜ぶこと、違いを認める寛容さ、苦しむ隣人に共感すること、隣人のために弁護する勇気、論争も平和裏に行う柔和さ、つまり信実であることです。信実な神が、わたしたちに信実な言動を与えます。それが聖霊の実です。バプテスト教会は、あるいは民主社会は、聖霊を必要としています。共に、「聖霊よ、来てください」と祈りましょう。