立ち帰って生きる エゼキエル書33章7-11節 2022年6月26日礼拝説教

エゼキエルは紀元前7世紀から6世紀にかけて生きた預言者です。身分の高い祭司だった彼は、第一次バビロン捕囚(前598年)の際に王侯貴族の一員としてバビロンに強制連行されます。そしてバビロンの地で預言者とされ、捕囚の民の指導者となります。エゼキエルは「旧約聖書のカルバン」と称される神学者です。彼無しには旧約聖書という正典や、シナゴーグでの礼拝は成立しなかったと思います。非常に珍しいことですが日付が小まめに付いているので、エゼキエルの預言は正確に年代づけができます。基準となる「第一年」は前598年(1章2節)。本日の箇所は前587年以降の預言です(32章17節「第十二年」)。すなわち第二次バビロン捕囚が起こり、エルサレムが陥落し、徹底的に王宮も神殿も焼き払われた「破局」の後の預言です。

バビロンの地に連れて来られたユダヤの民はいつか約束の地に帰り、大祭司の仕切のもと神殿で犠牲獣を捧げる礼拝をすることを夢見ていました。ダビデ王朝さえ続けば、エルサレムは陥落しないと思い込んでいたのです。しかし、エレミヤやエゼキエルが警告した通り、バビロン軍による徹底的な破壊が行われました。心の拠り所を失った民は嘆き立ち直ることができません。「実にわたしたちの背反とわたしたちの罪はわたしたちの上に。そしてそれらにおいてわたしたちは腐りつつある。そしてどのようにしてわたしたちは生きるか」(10節)。この嘆きと問いこそが、聖書信仰の出発点です。哀歌の嘆きが種として継承され、信仰の芽となります。信仰とは大いなる否定をくぐりぬけて、大いなる肯定にたどりつくことです。死ではなく生への執着です。

エゼキエルは民の絶望を希望にひっくり返すために尽力しました。そのためにモーセ五書を会堂で毎週朗読するユダヤ教団を組織し、ダビデ王朝なし・神殿なし・犠牲祭儀なしの信仰共同体イスラエルを再創造したのです。エゼキエルは第二のモーセです(2章5節、申命記18章18節)。

7 そしてあなたは、人の子よ、見張りよ、わたしはあなたをイスラエルの家のために与えた。そしてあなたはわたしの口から言葉を聞いた。そしてあなたは彼らにわたしによって警告した。 8 わたしが悪人のために、『悪人よ、あなたは必ず死ぬ』と言った時に、そしてあなたは彼の道から悪人に警告するために語らなかった、そして彼・悪人は彼の罰において死ぬ。そして彼の血(を)あなたの手によってわたしは求める。 9 そしてあなたは、実にあなたが悪人を彼自身より立ち帰るために彼の道から警告した。彼は彼の道から立ち帰らない。彼は彼の罰において死ぬ。そしてあなたはあなたの全存在を救った。

 本日の箇所の鍵語は、「そしてあなたは、人の子よ」(2回)と、何度も繰り返される「そして(ウェ)」です。「そしてあなたは、人の子よ」は7・10節の冒頭に置かれているので、この単語を目印にして区切って説明をいたします。

たった一文字の接続詞ウェの頻出は、預言者のほとぼしる情熱を示しています。預言の言葉をたたみかけているのです。あえてウェを「そして」とだけ訳し、日本語訳がいかに工夫して滑らかにしているかを示しています。新共同訳聖書の訳語「~なら」(7・8・9節)、「~でも」(8節)、「しかし」(9節)、「~のに」(9節)などは、すべて同じウェという接続詞を解釈しているのです。

 ウェの畳みかけと対応しているのは「完了視座(断言口調)」です。機械的に過去のように訳しましたが、ヘブライ語に時制、現在・過去・未来はありません。話者の主観によって、言い切りたければ完了視座、あいまいにしたければ未完了視座が選ばれます。7-9節の前半に「~した」という完了動詞が偏っており、後半に「~する」という未完了動詞が偏っています。完了の場合は「するぞ」とも訳せます。未完了の場合は「するかもしれない」「するべきだ」「することができる」「必ずする」など、さまざまに訳しえます。

「与えた」、「聞いた」、「警告した」(2回)、「語った」、「救った」が完了です。未完了視座の動詞は、「死ぬ」(3回)、「求める」、「立ち帰る」(2回)です。完了視座はわたしたち信徒が、何に対して頑固に固い態度で臨むべきかを教えます。そして同時に未完了視座は、わたしたち信徒が何に対して柔軟で軽やかな態度で臨むべきかを教えています。

 神がエゼキエルを民に与えたこと、エゼキエルが神の言葉を聞いたこと、また神を伝言して民に警告したこと、語ったこと、その行為がエゼキエル自身を救ったことが完了で断言されています。神の動作とエゼキエルの動作です。これらのことはエゼキエルの召命と使命にかかわることです。神が何を自分に期待し、自分は自分の命を何に使うのかは明確に言い切れる方が良いのです。エゼキエルは世界を見張りイスラエルに言葉かけをすることを使命とされました。その召しに全力を傾けました。

エゼキエルの預言の特徴は、行為による預言が多いことです。象徴行為とも言います。たとえば、巻物を食べること(3章)、寝返りを打たずに寝ること(4章)、髪の毛と髭を剃ること(5章)、荷物を運び出すこと(12章)、妻の死に際して泣かないこと(24章)などです。言葉だけではなく行為によって全力で、神を伝言しようとしています。生き甲斐があるということは素晴らしいことです。そのことがエゼキエルの全存在を救い出し生かします。頑固に一途に全力で神の言葉を語った。それゆえに彼は救われたのです。完了視座の動詞は、神の前にあるエゼキエルの幸いな生き方を指し示しています。

エゼキエルに対して神は「人の子よ(ベン・アダム)」と呼びかけます(7・10節)。これはエゼキエル書の一貫した特徴です。人の子はイエスにおいて一人称(わたし)ですが、エゼキエルにおいて二人称(あなた)です。神からの愛情のこもった呼びかけなのです。いばらず、気張らず、ひるまず、卑下もせず、ただ等身大の自分のままで謙虚に神と人とに仕えよ。このような呼びかけが込められています。「人の子よ」という呼びかけを受けたからこそエゼキエルは全力で使命に真っ直ぐ打ち込むことができたのでしょう。エゼキエルは第二のアダムです。

それに対して未完了視座の動詞はどうでしょうか。「死ぬ」、「立ち帰る」は、「悪人」(8・9節に4回)と呼ばれる民イスラエルの動作です。「求める」は神の動作です。ここには「必ず死なねばならない」から「ひょっとすると死ぬかもしれない」という幅があります。悪人/罪人の死や悔い改めは、起こるかもしれないし起こらないかもしれない可能性の世界です。神の預言者への責任追及もそうです。

 エゼキエルの一直線な生き方と、悪人イスラエルの曖昧・両義的な生き方が対比されています。死ぬかもしれないし、悔い改めるかもしれないという未完了なあり方です。つまり神の民の未来は変更可能です。確かに「彼(悪人)は彼の罰において死ぬ」(8・9節)は二回繰り返されているから重要な指摘です。しかし教会は自らのみすぼらしさを嘆き過ぎる必要はありません。歴史の主は未来を変え得る方だからです。軽やかに考えましょう。

10 そしてあなたは、人の子よ、あなたはイスラエルの家に向かって言え。それだからあなたたちは言った。曰く、『実にわたしたちの背反とわたしたちの罪はわたしたちの上に。そしてそれらにおいてわたしたちは腐りつつある。そしてどのようにしてわたしたちは生きるか』。 11 あなたは彼らに向かって言え。わたしは生きている。わたしの主人・ヤハウェの託宣。もしもその悪人の死においてわたしが喜ぶのならば・・・。なぜならばもしも悪人が彼の道から立ち帰るならば彼は生きるからだ。あなたたちは立ち帰れ。あなたたちは立ち帰れ、悪いあなたたちの道から。そしてなぜあなたたちは死ぬのか、イスラエルの家よ。」

 聖書の神は死ではなく生を喜ぶ方です。「もしもその悪人の死においてわたし〔神〕が喜ぶのならば」(11節)別ですが、これは反語表現、強い否定と解されます。神は悪人の死をも喜びません。むしろ生を喜びます。その神は、真摯な悔い改めを民に求めています。「罪人のわたしをお赦しください」という率直な懺悔の祈りです。「背反(ペシャア)」「罪(ハッター)」「悪(ラシャア)」「罰(アヴォン)」がずっと自らの上にのしかかり、自力では現在進行形で腐りつつあるという事実を素直に認めることが大切です。自らに対する絶望は、神に対する希望と裏表の関係にあります。神は腐敗中の現在を未来において変更できる方です。

10-11節は命令形が支配的です。「言え」(2回)と「立ち帰れ」(2回)です。神は預言者に命じます。民に命じることを命じます。未来を変更させるために必要なことが何かを示す命令です。それは自分の道から神の道へと方向転換することです。

二つの疑問文が対応しています。民イスラエルの質問「どのようにしてわたしたちは生きるか」(10節)に対して、神も質問「なぜあなたたちは死ぬのか」(11節)で返しています。民は「いかにして生きるか」という処方箋を求めますが、神は「なぜ死ぬのか」と問い、生きる理由を語ります。わたしたちの生きる根拠は「神が生きている」という事実です(11節)。「わたしは生きている。死ぬな、生きよ。立ち帰って方向転換をしてわたしのもとに来なさい。わたしという細い道を踏んで生きなさい。その道は命に至るし、その道を歩くことそのものが生きるということだ」。もしも人生のどこかで立ち止まり、振り向き、立ち帰ることができるならば、未来は変わりえるのです。

神に立ち帰らない生き方は、生きているにもかかわらず死んでいるかもしれない生き方です。未完了かつ両義的な道です。「彼(自分)の道」(8・9・11節)を生きながらにして、命を使い切っていない生き方だからです。自分の道は広いものです。自分で幅を決められ、自分で道をつくることもできます。それに対して、エゼキエルも歩き、代々のキリスト者たちも歩いたイエス・キリストの道は、細く曲がりくねって険しい道です。道であり真理であり命であるイエス・キリストが定める道です。神と隣人とを愛するという道、世界の不正義や不公正をただす道、世の光・地の塩である教会をかたちづくる道です。

今日の小さな生き方の提案は、改めて今日から新しい人生を生き直すことです。わたしたちは人生に絶望し自らを腐らせがちな存在です。いかにして生きることができるかの技術を探しがちです。それは的外れな考え方です。主イエス・キリストが復活し今も生きておられる方であるという事実の方向に振り向きましょう。神はわたしたち一人ひとりの生命、全存在、生きることそのものを喜び祝福しておられます。なぜ死ぬのか。命こそ宝です。立ち帰って自分の道からイエス・キリストの道に乗り換えましょう。すると使命が与えられます。利己的な生き方から利他的な生き方へと変えられます。自らを神とする生き方から、神と隣人を愛する人の子らしい生き方に変えられます。時は満ちた。神の国は近づいた。立ち帰って福音を信ぜよ。そうすれば生きる。