エルサレム会議の決議内容(29節の四つの禁令)を記した手紙がユダとシラスに託されました。アンティオキア教会代表団バルナバ、パウロ、テトスと共に、ユダとシラスがアンティオキアに行きます。ただし、わたしはペトロと通訳者マルコも共にアンティオキア教会に同行したと推測します。なぜならば、「アンティオキアの衝突」という事件が、30-41節に起こったと考えるからです。アンティオキアの衝突とは、パウロとペトロ(やバルナバ)との対立です(ガラテヤ2章11-14節)。大まかに言えば次のような出来事です。
アンティオキア教会にペトロが来た時のこと、最初は教会で無割礼の信徒たちに交じって主の晩餐・愛餐を共にしていたにもかかわらず、エルサレム教会のヤコブのもとから幾人かが来た時に共に食べることを止めてしまった、バルナバまでも止めてしまった、それを咎めてパウロは多くの人の前でペトロを非難したという事件です。
本日の箇所はパウロとバルナバの喧嘩別れの理由としてマルコの同伴の適否(37-38節)しか挙げていませんが、アンティオキアの衝突事件を重ね合わせると、もう一つ深刻な理由があったと推測できます。それはパウロが一つ目の禁令に違反して偶像に供えたものをも自由に主の晩餐・愛餐のために用いていたのではないかという理由です。ユダヤ人信徒に配慮してその行為は差し控えるとヤコブに約束したにもかかわらず。
パウロの二枚舌に気づいたユダは任務から解かれた後エルサレムに戻ってヤコブに報告し、ヤコブは別の何人かを急きょアンティオキアに遣わします。その人々が来てからは会議の出席者ペトロは自由過ぎる主の晩餐・愛餐に出席せず、そのペトロをバルナバもマルコも弁護したと推測します。このような対立も同時並行的にあって、アンティオキア教会に留まっていたシラスをパウロは選び、逆にバルナバはマルコを同伴し、それぞれの道を歩んだのでしょう。
以上のような歴史の再構成を前提にして本日の箇所を読み解いていきます。
30 そこで実際彼らは解き放たれて、彼らはアンティオキアの中へと下った。そして大勢の人を集めて、彼らはその書簡を授与した。 31 さて(彼らは)読んで、彼らはその勧告について喜んだ。 32 ユダもシラスも、彼ら自身共に預言者たちであり続けていたのだが、多くの理を通してその兄弟たちを勧告した。そして彼らは強めた。 33 さて時が為して、彼らは平和と共にその兄弟たちから彼らを派遣した者たちに向かって解き放たれた。 〔34 さてシラスにとってそこに留まることが(良いと)思われた。〕 35 さてパウロとバルナバはアンティオキアに滞在し続けた。(彼らは)教えながら、また福音宣教をしながら、他の多くの者とも共に、主の理を。
アンティオキア教会代表団バルナバ、パウロ、テトスも、そしてエルサレム教会指導者である預言者ユダ、シラス、使徒ペトロ、マルコも、会議出席という任務から「解き放たれ」ました(30節)。「多くの者」(35節)がエルサレムからアンティオキアへとヤコブの手紙を持参して移動します。そしてアンティオキア教会の大勢の者たちを集めて、正式に書簡が授与され、その場で朗読されました。読み上げたのは使徒筆頭のペトロであり、それをマルコがギリシャ語に通訳したのかもしれません。
「偶像への供え物と血と絞め殺したものと近親相姦等から離れること。これらのことからあなたたち自身を守り続ければ、あなたたちは良く行うだろう。あなたたちは強くあれ。」(29節)この勧告を聞いたアンティオキア教会員は喜びました。割礼の強制が入っていなかったからです。そして、「強くあれ」という呼びかけに大きく頷きました。
続いてユダとシラスが、口頭で四つの禁令について解説をしていきます。「預言者」(32節)の職務は、未来予告というよりも説教や奨励を語るというところにあります。アンティオキア教会の五人の指導者もみな預言者であり教師でした(13章1節)。ユダとシラスは対等の信徒(「兄弟たち」32節)としてアンティオキア教会員をみなし、レビ記17-18章を解き明かしたのでしょう。それが彼らの任務でした(27節)。
勧告を終えた二人は彼らを遣わしたエルサレム教会に対する任務から解き放たれました(33節)。原文は、「見送られ・・・帰って行った」(新共同訳)とは書いてありません。任務が終わった後も残った者たちがいたことを原文は暗示しています。シラスとマルコとペトロです。36節以降のシラスとマルコの選びは、二人がアンティオキア教会にその時居なければ相当困難です。34節の底本に無い異読〔 〕部分は、この時点でシラスがエルサレムに帰る文脈上の不合理に古代の写本家も気づいていたことを示しています。シラスもマルコもペトロも「他の多くの者」(35節)として、バルナバとパウロと共にアンティオキアで主の理を教え続け福音宣教をし続けたのです。
おそらくユダだけがエルサレムに帰り、ヤコブにアンティオキア教会の様子を報告したのだと思います。その時ユダは、「偶像への供え物から離れること」という禁令を、アンティオキア教会はゆるやかに解釈し主の晩餐・愛餐に適用していない、それをパウロもペトロも黙認していると告げます。
ヤコブは「激怒」(39節)します。無割礼の信徒に割礼の強制をしない代わりに、ユダヤ人信徒が出席している礼拝では偶像への元供え物を食卓に出さないということが、両教会の交わした約束の根幹だったからです。ヤコブは急きょ新たな教会員派遣をし、事実確認と抗議の準備を始めます。
36 さて幾日かの後バルナバに向かってパウロは言った。「本当に向き直って、全ての町――そこにおいてわたしたちは主の理を告げたのだが――の下にある兄弟たちに注視しよう、いかに彼らが持っているのかを。」 37 さてバルナバはマルコと呼ばれたヨハネも共に仲間に入れることを望み続けていた。 38 さてパウロは、パンフィリアで彼らから離れその働きのために彼らと共に来なかった者を仲間に入れないことが、相応しいと思った。
ヤコブからの教会員たちが来る前に、パウロがバルナバに向かって提案します。「前回の旅で訪れた全ての町を訪問しよう。どのような仕方で信仰生活を持ち続けているかをよく見よう。」(36節)。この提案にバルナバは賛成します。総論賛成です。全ての町の中にはバルナバの故郷キプロス島が含まれています(13章4-12節)。故郷の教会のために彼は常に祈っていました。
コロサイ4章10節によれば、バルナバとマルコは従兄弟同士の関係です。マルコの故郷もキプロス島かもしれません。マルコの母マリアと、バルナバの母は姉妹であるかもしれないのです。かつてバルナバは母のために土地をエルサレムに購入したのではないかと申し上げました。さらに深掘りすれば、彼がキリスト者となる際に土地を売り払った時以来、彼の母はマルコの母と同居していたのかもしれません。その家が教会となったのです(12章12節)。
かつての旅でマルコはキプロス島までは同行していました。マルコはキプロスで伝道活動を続けたかったのでしょう。「なぜ小アジア半島に足を伸ばすのか」という疑問を持っていました。またマルコは、パウロのキリストの十字架と復活による救いという「教理重視」の考えに批判を持っていました。そこでマルコはパンフィリアのペルゲという町で旅を止めエルサレム教会に戻ってしまいました。バルナバは近しいマルコも、(もしかするとペトロにも)一緒に伝道旅行の仲間になってほしいと「望み続けていた」(未完了過去)のです。
しかしパウロは違います。キプロス島にそこまでの思い入れはありません。パウロもまたマルコが重視する「イエスのガリラヤでの生き様と悲劇的な殺害」という考えに批判を持っていました。マルコを同行させることは自身の伝道の足を引っ張ると考えました(40節「自身のために」)。そこで途中で離れる者ではなくシラスやテトスらを伴った方が良いと主張したのでしょう。
そうこうするうちにヤコブからの者たちが到着し、パウロ対ペトロの対立、さらにパウロ対バルナバとマルコの対立が決定的になります。アンティオキアの衝突です。
39 さて激怒が生じた。その結果、お互いから彼らは分かれる。一方でバルナバはマルコを仲間に入れてキプロスの中へと船出する。 40 他方でパウロは(自身のために)シラスを選んだ。彼は出発した、その兄弟たちによって主の恵みに引き渡されて。 41 さて彼はシリアとキリキアとを通り過ぎ続けた、その諸教会を強めながら。
39節の構文は特別です。「分かれる」「船出する」という不定詞で表された行為までが、激怒の結果必然的に生じています。一体誰が激怒したのでしょうか。わたしはバルナバだと思います。元迫害者パウロを引き立ててアンティオキア教会指導者にまで押し上げたのは人格者バルナバです。自分の大きな罪が神と信徒仲間に赦されたことを忘れてマルコの小さな瑕疵を咎める料簡の狭さや、アンティオキア教会の不誠実によって苦しい立場に置かれたペトロに配慮もせずに面罵する身勝手さ。このことに激怒しながらもバルナバは品位を保ちつつパウロを諭し、自ら身を引いたのだと思います。
アンティオキア教会はパウロを選びました。「その兄弟たちによって主の恵みに引き渡されて」(40節)パウロは出発したとあるからです。バルナバに対してその記述はありません。バルナバとマルコは静かに海路で故郷キプロス島へ向かいます。他方、パウロは「教会公認の派遣宣教師」となって、シラスやテトスらを伴い(しかし原文の主語は単数形で過度にパウロ主体の表現)シリア地方とキリキア地方を陸路で進みます。海路・陸路の別も象徴的です。この後、マルコとバルナバは使徒言行録から姿を消します。
アンティオキア教会はエルサレム教会に偶像の供え物に関する不誠実さを抗議されました。それと同時に「書簡がアンティオキア教会だけではなくシリア地方とキリキア地方の諸教会にも宛てられている」ことをも指摘されたと思います(23節)。この点においてはまったく反論ができません。パウロの提案は前回の旅で訪れた町のみに行くことでしたが(36節)、教会は修正し、今まで訪問したことのないシリア・キリキアの諸教会に手紙回覧のためにパウロを派遣します(41節)。アンティオキア教会は、バルナバを切り離し、エルサレム教会との関係も修復し、パウロとシラスとテトスを宣教師として派遣するという総合判断をしたのでした。
今日の小さな生き方の提案は、組織決定は必ず誰かに不利益を与えるということに気づき反省することです。しかしそのような人間たちのなす破れの多い組織決定を通しても神の歴史が進むということを信じることも必要です。神はバルナバもパウロもマルコも最も良い形で用いました。キプロス宣教、パウロ書簡、マルコ福音書がその実りです。不実、衝突、競合という醜い罪の行為を繰り返しながら、福音は伝播されました。誰かの被る不利益に細心の注意を払いつつ、自分の良心に忠実な意見を出し合って総合判断をしましょう。罪深くあっても誠実であれば、神は必ず見てくださり、介入し一人ひとりの人生と教会の歴史を導きます。