2章13節で第一回目のエルサレム訪問を行なったイエス一行は、5章1節で再びエルサレムに来ます。この間、ユダヤ地方・サマリア地方・ガリラヤ地方を放浪し、時には宿泊をさせてもらいながら弟子を増やしていったことを、今まで確認してきました。今日の箇所は二回目のエルサレム訪問という場面です。
今日は一つの文にこだわってそのことからこの物語全般を読み解いていきたいと思います。物語を串刺しにする縦糸があるからです。それは、「良くなる」と訳されている言葉です(6・9・14節)。この言葉をギリシャ語で読むと、「健康/健全となる」という表現です。だから6節は、「健康となるということをあなたは望むか」という質問、9節は「その人は健康となった」、14節は「健康となったのだから」というように書いてあります。
非常にひっかかる表現です。なぜかと言えば、健康ではないこと・病気であること・しょうがいを持っていることが「罪を犯していること」と結びついているからです(14節)。病気・しょうがいは罪の結果、あるいは病気・しょうがいを持つことは罪を犯すことそのものという考え方がここにあります。
その一方で同じヨハネ福音書9:1-3において、イエスは目の見えない人がなぜ目が見えないのかという質問に、本人の罪のせいでも両親の罪のせいでもないと言い切っています。このように聖書の内部(しかも同じ文書内)で矛盾が起こったときに、わたしたちは決断を迫られます。病気の者・しょうがいを持つ者を罪人とする解釈を採るのか(健康な者・健常者を罪人ではないとすることを含意)、それとも、そうではない解釈を探るのか、その決断です。
21世紀に生きるわたしたち、人権という考え方を知るわたしたち、特に憲法の人権条項に大きな制限を加えるために改憲したい人が力を濫用しているこの時代に、わたしたちはしょうがい者差別を容認したり福祉を切り捨てたりする方向の解釈を採るべきではないのです。何人も差別されない権利があり、最低限健康で文化的に暮らす権利、平和のうちに生きる権利を持っているからです。その価値判断に立って、もう一度聖書を読み直しましょう。ここで言う「健康」とは何かが問題となります。
ヨハネ福音書の著者は新約聖書の著者の中で最もギリシャ語が下手です。著者の第一言語はヘブライ語/アラム語、そしてギリシャ語は第二言語です。もちろん下手などという評価は失礼です。わたしたちの英語もその程度のものだからです。ともかく、第二言語であるということは、著者がまずはヘブライ語でものを考えているということ、そしてそれを頭の中でいちいち翻訳して、ギリシャ語に直して書いているということなのです。わたしも米国で同じような体験をしました。
福音書の著者は「健康な(ヒュギエース)」というギリシャ語を、もともとどのようなヘブライ語でイメージしていたのでしょうか。辞書を見ると、ヒュギエースは、ヘブライ語の「生きている(ハイ)」や「平和のうちに(シャローム)」という単語の翻訳語であることが分かります。こう考えると先週の話とつながります。「あなたの息子は生きている」ということに重要な意味がありました。著者はここでも「生きている(ハイ)」というヘブライ語を頭の中で翻訳したのでしょう。いっときの癒やしが問題ではなく、永遠のいのちを生きるということが問題なのです。
イエスは永遠のいのちを今生きたいのかと問いました。それに対して、彼はいっときの癒やしを求めました。当時の言い伝えに従って、水が動いた時に池の中に入ると病気が治るという言い伝え・迷信です。水が動くのは天使が池に入ったからなのだ、だから天使が入っているうちに自分も池に入ればいやしてもらえるのだと信じられていたのです。
永遠のいのちを生きるということは自由になることです。風のように思いのままに生きることです。迷信が人を自由にさせないということは、その人は罪にとらわれていることなのです。38年間病気で苦しんでいる人は、病気だけではなくこの迷信によって苦しんでいるのです。自分が罪人だと思いつめることが罪です。もちろんその罪というものは社会が作り上げた悪です。彼の外にあります。責任の外です。しかし、罪は彼の中にまで入り込んで蝕んでいます。彼の尊厳を奪っています。彼本人もその罪から自由になり尊厳を取り戻し、そして同時に外側にある罪の仕組みを批判していかなくてはいけません。
イエスは迷信に従いません。イエスは池の水を動かして水の中に入ることを手伝ったり、「さあ、今だ、池に入りなさい」などと命じたりしませんでした。病気の人に向かって、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」と言いました(8節)。これが「生きる」ということです。迷信にとらわれると池に呪ない的な力があるように思えるわけです。池ばかりに注目し本当に求めていることを見失うわけです。本当の求めは自由に生きることなのです。
だからイエスはあえて安息日律法を彼に破らせます。迷信と同じ力を持っているのが、「安息日には一切の労働が禁じられる」という律法だったからです(10節)。実際、イエスがただ彼を自宅に帰らせただけならば、何も迫害されたり命を狙われたりしないで済んだことでしょう。ここでは、あえて律法を破らせることが大事だったのです。律法にも迷信とおなじ問題が潜んでいるからです。それは苦しんでいる人をさらに苦しめるという問題です。宗教的な意味づけをしながら人を苦しめるのです。人を自由に生きさせないようにする力、「罪人」とレッテルを貼られる人を生み出し続けるという悪さです。
迷信は「~すれば罪から救われる」と言います。律法は「~しなければ罪を犯さないですむ」と言います。「池に入れば」と、「安息日に床を担がなければ」が、空欄に入るのです。どちらも同じような効果を与えます。それは人の視野を狭くすることと、人を萎縮させることです。どんどん自由でなくなるということ、そして相互に監視してお互いの自由を制限していこうとすることです。安息日は人類のためにあるのです。人類が安息日のためにあるのではありません。安息日は人を自由にするために決められたものです。奴隷が解放されたことを祝う、自由の記念日です(申命記5:12-15)。本末転倒を起こして安息日規定の奴隷になり、600m以上歩けないとか、これを運んだら労働にあたるとか、生き方を狭く定めることは奴隷への逆戻りです。
すべての法律には趣旨・そもそもの目的があります。その目的を外れる解釈はいけません。聖書の法律・律法のそもそもの目的は平和の実現にあります。イエスは、神を愛し・隣人を愛し・互いに愛し合うことに、律法全体を要約しました。これがシャロームの中で生きるということです。永遠のいのちを生きると言い換えてもかまいません。この趣旨に反する規定を増やすこと、この趣旨に反する行いをすること/させることは、実は律法違反となるのです。
「神の言葉」である律法を拡大解釈して38年間病気である人を「罪人」呼ばわりすることは律法の趣旨に反します。それは、神の名を悪用しているから、神を愛していないのです。38年間病気で立てなかった人が起き上がり歩けるようになったことを喜べない人は律法の趣旨に反しています。隣人を自分のように愛していないからです。隣人の回復ではなく、隣人の規定違反に注目し咎め立てすることは、律法を無にしています。互いに愛し合っていないからです。
この箇所では明白に言われていませんが、当時のユダヤ教徒たちは「イエスの治療行為も安息日に許されていない労働である」と咎め立てしていたことが他の福音書から分かります(マコ2:23-3:6)。イエスの安息日解釈は、「わたしの父(ヘブライ語アビ、アラム語アッバ)は人間を自由にするために常に働いている。そのことを実感するために礼拝するということが安息日の趣旨だ。だから、人間を自由にする行為をわたしは安息日にも行う。安息日は人間を自由にするためにあるのだから」というものでした(17節)。
イエスはこうして律法を冒涜する者としていのちを狙われます。すでに神殿を冒涜する者として目をつけられていました(2:20)。ここで完全にブラックリストに入れられたのです。しかも、神と自分を同一視するという意味で(近しい親子とみなすこと)、神ご自身を冒涜する者として迫害されいのちを狙われます(18節)。この結果は、ある意味宿命です。永遠のいのちを生きる人は、自由であり寛容であり非暴力であるので、不自由かつ非寛容かつ暴力的な者たちにとって極めて邪魔な存在だからです。光は世に来ましたが人は光よりも闇を愛したのです。世界中の罪、または罪の世界全体がイエスを十字架へと追い立てていきます。
さて、自ら自由であり、人に自由を与え、この世界を自由なものへと解放するイエスは、何かに縛られて不自由に生きている人に問うています。「あなたは生きたいか」と。わたしたちはとんちんかんな答えをするかもしれません。しかしイエスは一方的な恵みとしてわたしたちを立ち上がらせ、あえてわたしたちを縛っている世間体や差別意識をわたしたち自身の手で破らせようとします。自由な生き方を今から始めなさいと言うのです。いっときの病気の癒しではなく生き方の問題として、「迷信を捨てなさい・律法を破りなさい、もしそれが自分や隣人を不自由にさせているなら」と呼びかけています。仮に病気そのものが治らなくても、もしこの意味で自由ならばその人は永遠のいのちを生きている・平和を実現しているのです。しょうがいは不自由ではありません。あるしょうがいによって(たとえば目が見えないなど)その人に不自由を感じさせている世界こそが罪深いし平和ではないのです。
さらにいったん自由にされた人・永遠のいのちを生きるようになった人にイエスは命じています。「永遠のいのちを生きるということ/迷信や律法を気にせず自由に歩き回るということ/平和のうちに生きるということが、あなたの身に起こっています。だから、二度と奴隷のくびきにつながれてはいけません。自由に生きなさい(ガラテヤ5:1)。奴隷の家であるエジプトへの逆戻りの方がもっとひどいことになるでしょう。ゆさぶられないで、この荒れ野の中を少数者として堂々と自由に生きなさい」(14節)。
イエスが神と等しい者とみなしていたということは来週詳しく取り上げます。三位一体という信仰との関係で申し上げます。今日わたしがお勧めしたい小さな生き方の提案は一つです。それは縛りからの解放です。
迷信・律法は今もわたしたちを縛っています。今も「不幸な人」を食い物にする宗教ビジネスが、迷信につけこんで繁盛しています。あるいは、「原発の安全神話/必要神話」という迷信、「三歳児神話」という母親を縛る律法、「強姦神話」という女性たちを貶める下世話な俗説、北朝鮮と中国が侵略するなどなど、世間にはその人をその人らしく自由に生きさせない迷信や律法がたくさんあります。「男らしく/女らしく生きよ」という身近な規範も、人を苦しめる律法になりえます。キリストはこれらの罪からわたしたちを自由にしわたしたちを自分らしく生かします。しかもいったん自由とされた後も、その自由を持ち続けるようにとわたしたちを励まします。安息日の礼拝によってそれがなされます。安息日礼拝の趣旨は縛りからの解放です。この自由な生き方にすべての人が招かれています。