エルサレム教会の決議(4節「決められた掟」。15章29節にある四つの禁令)は、パウロとシラスによって約束通りアンティオキア教会と、シリア地方、キリキア地方の諸教会に渡されました(15章23節・41節)。「エルサレム教会は今後非ユダヤ人信徒に対して割礼を強制しない」ということが、この決議の要点でした。その直後に、テモテという人物の割礼記事があることが、読者を混乱させます(3節)。しかもパウロという割礼不要論者がテモテに割礼を施したというのです。一体初代教会に何が起こっていたのでしょうか。
1 さて彼はデルベの中へとまたリストラの中へと下った。そして見よ、テモテという名前のとある弟子がそこに居続けた。信のあるユダヤ人女性の息子、一方でギリシャ人の父の。 2 その彼はリストラとイコニオンにおける兄弟たちの下で証言され続けていたのだが。 3 パウロはこの男性が彼と共に外へ行くことを望んだ。そして取って、彼は彼に割礼を施した、これらの町々の中に居続けているユダヤ人たちを通して。というのも全ての者は彼の父親がギリシャ人として存在し続けていたということを(既に)知っていたからである。
テモテは後3世紀の教会指導者オリゲネスによればデルベという町の出身者です。文法的に1節「そこに」はデルベを指すこともその理由です。またリストラという町で伝道が「失敗」しパウロが半殺しにされたことや、それに反してデルベでは多くの人が弟子になったことも理由となります(14章)。Ⅰコリント4章17節によればパウロはテモテを直接伝道しているようです。第一回伝道旅行の時にデルベでテモテはバプテスマを受けたのでしょう。1節「テモテという名前の弟子がそこに居続けた」という表現も、テモテが14章で弟子となって、そのまま教会に繋がっていたことを示唆しています。
テモテの母親の名前はエウニケというユダヤ人女性です(Ⅱテモテ1章5節)。父親の名前は分かりませんが生粋のギリシャ人であることがやや強く明記されています。当時、母親がユダヤ人・父親が非ユダヤ人である子どもは「ユダヤ人とみなされた」そうです。たとえばバルナバがそれに当たりましょう。その場合も割礼がユダヤ人とみなすことの要件となります。エウニケ夫妻は、このユダヤ人社会のルールを決然と採用しませんでした。生まれた息子には割礼を施さなかったのです。ユダヤ人とみなされることを拒否したのです。母親エウニケはユダヤ人であることを止めます。息子への割礼は夫を貶めることを知っています。そして父親もギリシャ人であることを恥とせず、ギリシャ人のままで生きます。そのような人生の選択もあって、ユダヤ人居住者が少ないデルベという小さな町に暮らしていたのでしょう。
エウニケは息子にテモテというギリシャ語名のみを付けます。その意味は「神への畏敬」です。夫妻は神を信じています。二人の畏れ敬う神は、「ギリシャ人もなくユダヤ人もなく、その人らしさが大切にされる」世界を創る神です。エウニケは半殺しに遭ったパウロというユダヤ人男性の看病に携わり、キリスト信者になります。ナザレ派の中の国際派であるバルナバとパウロの語る福音は、エウニケの「信」と重なっていたからです。彼女の自宅がデルベの教会になり、息子テモテも、義母ロイスも信徒となります。
小さな町デルベにある大きな教会は、リストラにある小さな教会と、イコニオンやピシディア・アンティオキアにある大きな教会と連携を取っていたようです。使徒言行録でしばしば四つの町は混然と並べられます(1・2節、14章6節・19節・21節)。バプテストの「地方連合」のような協力体です。信徒同士の行き来があったのでしょう。それらの諸教会の間で、テモテという人物は、優れた信徒として「証言され続けて」いました(2節)。テモテは地方連合会長のような立場で、四つの町を飛び回って諸教会を繋いでいたと推測します。彼は割礼を受けていませんから、会堂には入りません。伝道対象者は非ユダヤ人、諸民族です。
久しぶりにデルベの教会を訪れたパウロ。その日の礼拝説教はテモテでしょうか、母エウニケでしょうか。そこにエルサレム出身のユダヤ人シラスが紹介され、シリア・アンティオキア教会派遣宣教師パウロが紹介され、豊かな交わりが形成されます。エルサレム教会から割礼を強制しないというお墨付きが与えられ(4節)、デルベ教会、特にエウニケは喜びます。
テモテに導かれて、パウロとシラスはリストラにもイコニオンにも行きます。リストラは小さな教会です。ユダヤ人街から遠く離れ、あの立てるようになった男性の自宅で家の教会が営まれていました。リュカオニア語の礼拝です。イコニオンは大きな教会です。ただしパウロとバルナバが追放された後に、かなりの数のユダヤ人信徒が再び会堂に戻ってしまったと思われます。ユダヤ人会堂から距離を置く形で迫害を避けながらギリシャ人中心の教会形成がなされていました。テモテはどちらの教会でも信頼されている様子です。
地方連合会長テモテに連れられてデルベから、リストラ、イコニオンを訪れたパウロは、二つのことを考えました。一つは、新しい地域へと活動を広げていく可能性です。たとえばイコニオンからピシディア・アンティオキアには行かずに、北方のガラテヤ地方、ミシア地方に向かっていくのです。もう一つは、テモテをもその新しい旅に同伴することです。テモテが諸教会をつなぐネットワークづくりに優れているからです。
その際にパウロは残酷な提案をテモテにします。「割礼を受けよ」というのです。パウロは割礼不要論者ですが、自己矛盾を隠さないで開き直る癖も持っています。実用主義者でもあります。彼は「ユダヤ教会堂を利用する伝道方法」にこだわりがあり、捨てきれません。彼自身にあるユダヤ人優越主義。教会がユダヤ教ナザレ派であること。教勢の急速な拡大のためにはユダヤ教徒からの改宗(宗派替え)が効率的だったこと。エルサレム教会による掟も、割礼を強制はしないが否定もしていないこと。テモテが会堂を用いた伝道でさらに力を発揮するだろうこと。さまざまな理由があります。平たく言えば「割礼をしてもしなくてもキリストの救いとは関係ないのだから、割礼をしても良いのでは」ということなのでしょう。実用主義です。
テモテは両親のことを思い浮かべ深く悩みます。身体を痛める恐怖もあります。しかし結局この申し出を受け入れます。パウロは力を濫用してテモテの心と体を傷つけていますから、ハラスメントをしているのです。「そして取って、彼は彼に割礼を施した、これらの町々の中に居続けているユダヤ人たちを通して。」ギリシャ人著者ルカの冷めた記述は、静かな憤りを含んでいます。直接に割礼を施したのはユダヤ人たちかもしれません(田川建三)。仮にそうであったとしても、パウロがテモテに割礼を施したのだと明記し、やんわりとパウロを批判しています。パウロが(シラスは注意深く除外されています)、非情にもマルコとバルナバを切り捨てる一方で、強引な形でテモテを引き連れたということは批判的に検証されるべきなのです。
この後、パウロはデルベの町を訪れることはありません。第三回伝道旅行においても素通りしています。エウニケに顔向けができなかったからでしょう。
4 さて彼らが町々を通って行く時に、彼らは彼らにエルサレムの中に(いた)使徒たちと長老たちの下で決められた掟を守るようにと引き渡した。
一方でパウロは、「エルサレム教会から割礼の強制はない」と触れ回り諸民族に対して伝道しながら、他方でテモテに割礼を受けさせて会堂に入りユダヤ人に対しても伝道をします。それはギリシャ人の前ではギリシャ人のようになり、ユダヤ人の前ではユダヤ人のようになるパウロの真骨頂でもあります(Ⅰコリント9章20節)。パウロは、自分自身の意見の振れ幅が大きく、激しく相手を罵るように感情の起伏も激しく、移ろいゆく状況に対して打算的妥協的です。それだから不安定な指導者です。しかし一つだけ筋が通っていることがあります。信徒を増やすということへの熱意と実践です。人を増やすという目的のためならばすべては正当化されると思い込んでいる節があります。果たして、今日わたしたちはこの考えを無批判に正当化できるでしょうか。
5 実際それだから、その諸教会はその信で強められ続けた。そしてそれらは数的に日ごとに増え続けた。
5節の主語は「諸教会」です。だから、信徒が増え続けたと言わずに、著者ルカは教会が増え続けたと言います。ルカは、パウロの勘違いを正そうとしているように読めます。好き嫌いで仲間を決める態度や、自分の伝道方策こそ一番と思い上がる傲慢。そのために隣人の良心・身体を傷つけても意に介さない態度。あるいは、自分の伝道方策のゆえに信徒が増えたという勘違い。パウロは自己肥大という罪を犯しているのです。諸教会は、「その信で」強められ・増えたとあります。「信仰を」(新共同訳他)は意訳です。
本日の箇所で「信(ピスティス)」という言葉は、形容詞で一回(1節。エウニケに対する形容)、名詞で一回登場します(5節)。1-5節の段落は二つの「信」に囲まれ、二つの「信」は呼応し共鳴しています。つまりエウニケという信徒のもつ「信」こそが模範です。神の誠実さを信じ抜いて、公正ではないユダヤ人社会を飛び出てギリシャ人と結婚し、自由意思でユダヤ人男性パウロを助け、キリスト者となり教会を建て上げた「信」。信のある人は芯のある人です。テモテを通して、諸教会に配られたのはエウニケのもつ「信」です。自らが持つエウニケ由来の「その信で」諸教会は強められ増えていったのでした(5節)。具体的には町に散在する家の教会の数が増えていったのです。つまりエウニケのように自宅の提供を申し出る教会員が増えたということです。この件とテモテが割礼を受けたという伝道方策とは関係がありません。
エウニケとベルゲ教会・リストラ教会・イコニオン教会が持っていた「信」はイエス・キリストにも見られます。イエス・キリストも信実な神を信じ抜きました。それゆえに力の濫用と不公正に苦しむ民の隣人となられたのでした。その信実な歩みの終着点が十字架です。イエス・キリストのもつ信によって、わたしたちは不誠実な罪びとのままで救われました。自己矛盾の多いパウロは、常にこの原点に立ち戻らなくてはいけません。キリスト信徒を迫害している最中に復活のイエスがパウロを諸民族の使徒として召し出し悪から救い出したのです。パウロはテモテへの加害を認め自らを小さくするべきです。
今日の小さな生き方の提案は、パウロのようにならずにエウニケのようになることです。イエス・キリストから与えられた「信」をもち、芯のある人になることです。甚だ残念な事例として、著者ルカはテモテの割礼を記しています。ユダヤ人を得るために、他人をユダヤ人にさせることは良くないのです。すべての人はその人のままで救われます。すべての人はその人らしくあるという救いを受け取ることができます。エウニケのように。あなたの信があなたを救った。これが福音です。妥協打算の闇に飲み込まれがちな毎日に、エウニケに倣って自分らしい輝き方で星のように輝いて生きたいと願います。