ダニエル書の1-6章は、伝説的な義人ダニエルの物語です(エゼキエル14章14節参照)。ダニエルはバビロンに連れて行かれたユダヤ人です。そして新バビロニア帝国とペルシャ帝国で立身出世を果たす行政官です。彼の境遇は創世記のヨセフと似ています。世界最強のエジプトで、夢を解釈する能力によってファラオの次の地位にまで上り詰めたヨセフ。約束の地を失い、外国に暮らさざるを得なくなったユダヤ人たちにとって、ヨセフは目標となる人物です。奴隷として売り飛ばされ、冤罪をかぶせられて牢獄に軟禁させられながらも、不屈の精神と知恵によって人生を切り開いたヨセフのように、どんな苦境に陥っても自分の人生を諦めてはいけない。そのような気持ちをもって、ユダヤ人たちは大都会の中で自分たちの「街」を形成し、会堂に集まって五書を開いて礼拝し続けたのでした。
紀元前2世紀ごろダニエル書を書いた人々は、ヨセフ物語を下敷きにダニエルを主人公にした物語を著しました。これは1-6章は短編歴史小説です。すべての著作には著者の設定する目的があります。著者たちは、外国の支配によって苦しい生活をしている同信の友を励ますためにダニエル書を書きました。セレウコス朝シリア王国がユダヤを支配していた時代です。国家によってユダヤ人の信仰が蹂躙されていました。シリア王アンティオコス・エピファネスは、エルサレム神殿にゼウス神の像を運び込んだりもしました。
ダニエル書は個人の思想信条をふみにじる国家を批判しています。その点でバプテストにとって重要です。なぜならば内心の自由・信教の自由を主張することはバプテストの伝統だからです。そしてそれは民主主義にとっての根幹でもあります。国家とは何か、国家権力を委託された者はどのようにふるまうべきか、本日の聖句から読み取っていきましょう。
粗筋は以下の通りです。南ユダ王国を滅ぼした新バビロニア帝国のネブカドネツァル王は、ダニエルほか三人のユダヤ人青年を高級官僚として取り立てました(1-3章)。ある日王は理解不能な夢を見ます。夢は未来を示すと信じられ、夢の解釈は専門知とみなされていました。王はダニエルに夢解きを依頼します。一つの夢は大きな木が生え、野の獣・空の鳥がそこに宿る夢です。もう一つの夢は、天使が「その木を切り倒せ。ただし切り株・根は残し、獣と共に野の草を食べるようにさせよ」と言うとの夢です(4章1-15節)。
ダニエルは第一の夢を解きます。大きな木はネブカドネザル王のことを指すというのです。新バビロニア帝国が当時の西アジア世界最強の国となり、周辺を属国としていったことが、野の獣・空の鳥が宿っている状態によって示されています(16-19節)。第二の夢の解釈が本日の聖句です。
20 そして、王が天から降りつつある見張りと聖者(を)見たとのこと。そして(彼は)言い続けている。「あなたはその木を切り倒せ。そしてあなたはそれを破壊せよ。ただしその根の切り残し(は)その大地の中にあなたは放置せよ。そして鉄と青銅の鎖でもってその野原の草の中に。そして天の露が濡らすままにさせよ。そしてその野原の獣と共に(それが)彼の所有物(となる)。彼に関する七つの時が過ぎるまで。」
20節は、10-13節を要約しています。私訳と新共同訳の違いは、「その根の切り残し」を「切り株と根」としているところです。アラム語原文に「と」がないので語順的にも私訳の方が素直と思います。つまりここは幹の切り株ではなく、地上に出ている根を切った跡のことを言っているのだと思います。それほどに徹底的に切り倒された木を想像するべきです。
木に宿る獣や鳥はいません。根だけが大地の中に残され、草の中に鉄と青銅でもって縛り付けられます。そうして大木は獣よりも低い位置となり、獣と同じく草だけを所有することになります。高いところに居る者が低いところに引きずり降ろされたこと、また、人間と獣が同じ低さになったことが要点です。
21 これがその解釈。王よ。そしてこれは私の主人・王の上に臨んだ、至高者の決定。 22 そしてあなたを彼らは人間たちから追い払いつつある。そしてその野原の獣と共にあなたの住居がなるために。そしてその草(を)牛のように彼らはあなたに食べさせる。そして天の露(で)彼らはあなたを濡らす。そしてあなたに関する七つの時が過ぎる。あなたが人間たちの王国の中の至高者の支配を知るまで。そして彼が選ぶ者に彼はそれを与えるということを(知るまで)。 23 そして彼らが、その木に属する、その根の切り残しを放置するようにと言った限りにおいて、あなたの王国はあなたのために堅固だ。天が支配者たちだということをあなたが知ることにより。
ダニエルの解釈は、14節とほぼ同じです。王は、夢の中で夢の解釈までもすでに教えてもらっていました。結論まで示されながら、王は理解できなかったのです。自分が理解したくないことを理解しないという癖を人間は持っています。聖書はこのような不遜な態度を戒めています。わたしたちに対して、真の意味で「知る」(22・23節)態度を身に着けるようにと勧めています。知るということは、自分にとって「不都合な真実」をこそ知ることです。王にとって自分が最大の支配者であってそれ以外の支配者がいることを不都合な真実です。ここでは、「人間たちの王国の中の至高者の支配を」知ること、「彼(至高者)が選ぶ者に彼はそれ(王国)を与えるということを」知ること、「天が支配者たちだということを」知ることが王に求められています。
主を畏れることは知識の始まりです。主を知ることに絶大な価値があります。国家権力を持つ者たちこそ、このことを知らなくてはいけません。どんなに背の高い大木であっても天には届きません。至高者には高さにおいて及ばないわけです。驕れる者は久しからず。高みを目指す者、上から目線で他者を見下す者、自分が何ほどか大木であると思い上がる者は、その枝を払われ、その幹を切り倒され、その根っこまで切り刻まれます。神は石ころからでもアブラハムの子孫を生み出すことができます。
ネブカドネザル王が思い上がるならば、王に教育が施されます。家に住まずに「野の獣」になり草を食べるという訓練です(25-34節)。実に面白い教育方法です。空の鳥、野の花を見よと言われたイエスの言葉を思い起こさせます。誰でも牛のようにならなければ神の国に入ることはできないのかもしれません。そして「枕するところがない」という状況が、人間を謙虚にさせていくのかもしれません。
この教育を経ても権力者たちが謙虚になれないならば、自分が歴史の主ではないと知らないならば、自己肥大を止めないならば、国は滅びます。新バビロニア帝国も、ペルシャ帝国も、アレクサンドロスの帝国も、ヘレニズム諸王朝も、ローマ帝国も滅びました。日本という大国志向の国も、アメリカという大帝国も、一帯一路を目指す中華帝国も、ユーラシアにまたがるロシアも滅びます。今や大国を操る国際資本こそが、本日の聖句のネブカドネザル王に喩えられるのでしょう。「今だけ・金だけ・自分だけ」という大金持ちたちです。この人々が草を食べるような低さを知るべきなのです。
さて、大木を倒したり、大木に教育を施したりする者たちとは誰なのでしょうか。20節は単数の主語「あなたは・・・」としていますが、見張りと聖者が互いに言い合っていると解します。22節・23節「彼らは・・・」とあることもその根拠です。複数の天使たちが大木を倒し、根っこを縛り付けて追放し、根っこに草を食べさせています。ここには「天の会議」という考え方が前提にあります。唯一神教にとっては奇妙な考え方ですが、天には神を議長とする合議体があるというのです(ヨブ記も参照)。そこで人間世界のことについても何らかの決議がなされます(14節)。天の会議における話し合いとそこでの決議そが、地上の歴史を導いています。23節でも「天が支配者たちだ」と複数形を用いているように、天は唯一神の単純な言い換えではありません。この考え方は、三一神教であるキリスト教に援用しやすいものです。
独裁者を教育するものは、民主的な運営です。独善的な人を教育するものは、多様性社会です。搾取する大富豪を教育するものは、貧者たちです。自分を神とするものを教育するものは、天の会議・三つで一つの愛の神です。イエスのアッバと、イエスと、イエスの霊は、よく話し合って歴史を導いています。今もそのように天が権力者たちに働きかけているということをわたしたちは信じる必要があります。
24 だから王よ、あなたに関する私の助言が受容されるように。そしてあなたの罪(を)あなたは義でもって、またあなたの咎/罰(を)貧者(に)共感することでもって贖え。もしかするとあなたの安心は長くなるかもしれない。
24節のみが純粋にダニエルの意見、王への助言です。自分を分不相応に大きく見せたがる者の罪は、この世界で小さくさせられている者たちと共に生きることでしか贖えない・買い戻せない、つまり人生のやり直しがきかないとダニエルは語ります。「義」は罪の反対語としても用いられていますが、「義援金」のような寄付・施しをも意味します。高い者を引きずり下ろす神は、低い者を高める神です。サムエルの母ハンナや、エリサベトとマリアが歌い上げている通りです(サムエル記上2章、ルカ福音書1章)。また自らの罪を認めた低い者が、神に義と認められ高く評価されます。徴税人のような大金持ちにも切り刻まれた根っこのような生き方が可能であることをイエスは示しています(ルカ福音書18章9-14節、19章1-10節)。使徒言行録によれば、これらの「ユダヤ教正統から締め出された人々(やもめ・こども・女性・障がいのある人々・諸民族出身者)」たちが共同出資して教会は立ち上がりました。教会という合議体も、わたしたちを謙虚に生きさせる教育機関です。この世界で苦労を背負う多様な私たちが共感しあって礼拝する時に、わたしたちは罪あるままに義とされ、キリストの謙虚を身にまといます。
もしも謙虚さ、低さ、身を屈める姿勢、草を食べる姿勢を保つならば、ひょっとすると安心が少し長くなるかもしれません。ダニエルはあまり大きな約束をしていません。人間は調子に乗りやすいからです。
今日の小さな生き方の提案は、根っこが切り刻まれるほどに徹底的におのれを砕いて生きるということです。「祈る」というヘブライ語動詞は自分を砕くという原意です。「礼拝する」という動詞は自分を折り曲げるです。わたしたちの堅固さ・安心というものは、徹底的な自己否定をくぐりぬけて与えられる、十分な自己肯定です。どんなにこの世で成功しても、大いなる存在となっていても、神の前の自分の小ささを知るという価値には及びません。これを救いと呼びます。キリストによる救いは、あらゆる困難の中で生きる力を与えます。自分の小ささは散々知っています。ならばそれを潜り抜けられるはず、大きな安心を神はこの辛い出来事を通してさえも与えてくださるはずです。共に祈ること、共に礼拝すること、互いに仕えること、給仕し合うことによって、国家の中で国家を超えて、日常生活を謙虚に全うしていきましょう。