11 さてトロアスから船出して、わたしたちはサモトラケの中へと直航した、さて来るべき日にネアポリスの中へと(直航した)、 12 そこからフィリピの中へと(直航した)――そしてそこはマケドニア地区の最高の都市、植民市であるのだが――。さてわたしたちはこの都市の中に幾日か滞在し続けた。
前回と同様に巻末の聖書地図「8 パウロの宣教旅行2, 3」をご覧いただけるとトロアス、サモトラケ、ネアポリス、フィリピの位置関係が分かります。イコニオンからトロアスまでは紆余曲折がありました。しかし、トロアスからフィリピまでは一直線だったとルカは語ります。「直航した」(11節)という動詞は、3回繰り返される「~中へと」で分かるように、サモトラケ、ネアポリス、フィリピ(内陸!)までかかります。トロアスで初めてパウロ、シラス、テモテの三人に出会い、三人を一晩で説得してフィリピ行きを承諾させたルカの気持ちが、この筆致に現れています。トロアスから船出した船は一日でサモトラケ島につき、翌日はネアポリスにつきました。その足で2㎞先のフィリピの町まで、四人は一気に行きました。
読者にフィリピの町で起こった出来事を早く伝えたいという気持ちもあるでしょう。フィリピはルカの故郷。「マケドニア地区の最高(一番)の都市」です(12節)。新共同訳他多数は「マケドニアの第一地区の都市」と訳します。マケドニア地方の第一の都市が首都テサロニケであるからです。しかし文法的には困難であり写本上の支持もありません。ここはルカがお国自慢をしていると考え「最高の都市」とします。最高の町で最高の人(リディア!)に最高のことが起こったのです。
前42年ローマ共和国は、フィリピをローマの「植民市(コロニア)」(12節)とします。ローマ共和国はフィリピの町から小アジア半島へと軍事侵略を続けていきました。陸海交通の要衝だったからです。フィリピにはローマ軍が駐留し続け、退役後も住み続けます。「軍都フィリピ」です。次いで前30年以降にローマはフィリピ市に「イタリア権」を与えます。土地にかかる税金の免除というローマ市民と同じ特権を、フィリピ市民は得るのです。これによりイタリアからの自営農民が大量に移住してきます。ローマ市民権を得ている者や、得たいと思っている者も流入します。ちなみに除隊後の軍人たちは政治的力を持ち続け後のローマ皇帝候補を擁立することもしています。フィリピの信徒への手紙4章22節「皇帝の家の人たちからよろしく」という言葉は、ローマとフィリピの近さを示しています。おそらくパウロはこの手紙をローマで書いているからです。
ルカはローマ軍の傷病兵の治療にあたる医者だったのかもしれません。『テルマエ・ロマエ』ではありませんが、ローマ風の公衆浴場での湯治がフィリピでも盛んだったことでしょう。「軍都世田谷」に自衛隊中央病院があるようなものです。その点でルカはパウロに親近感を持っています。パウロも軍需産業の一つである天幕づくり(ローマ軍の野営用テント)という生業によって、親の代からローマ市民権を得ていました。シラスの正式の名前は「シルワノス」です(一テサロニケ1章1節)。この名前はラテン語由来であり、彼のヘブライ語名は知られていません。彼もローマ市民権を生まれながらに持っているユダヤ人でした(21節)。おそらくシラスはラテン語が上手です。フィリピの町にはラテン語を話す軍人・農民が多くいます。小ローマです。その一方で陸海の交易が盛んなのでギリシャ半島・小アジア半島を行き来する、ギリシャ語を使う商人も多くいます。この点はギリシャ語を話すデルベ人テモテにとって親しみやすいものでしょう。
ローマ化されたギリシャ都市フィリピ。ルカに案内されたフィリピの町は三人にとってとても居心地の良い町でした。仕事を得やすく、仕事をしながら福音宣教をしやすいからです。「幾日か滞在し続けた」(12節)は、複数の「安息日」(13節)と矛盾するので、ある程度の期間三人はルカとともにフィリピに滞在し続けたと推測します。控え目な著者ルカは自分の存在を薄くするために、また物語の劇的急展開を印象付けるために、あえて「幾日か」と語っているのではないでしょうか。
ここからの出来事、つまりフィリピの教会の設立記事は、マルタとマリア(ルカ10章。福音を座って聞く)、徴税人ザアカイ(同19章)、エマオの晩餐(同24章。強いて泊まらせる)、エチオピアの宦官(使徒8章。非ユダヤ人非男性の野外でのバプテスマ)、ローマ兵コルネリオス(同10章。神を畏れる者とその家の者たちの入信)と、いくつも重なり合い響き合う美しい物語群です。同じルカが書いているということは示唆に富みます。
13 それから安息日〔複数〕の日に、わたしたちは都市の外に出て行った。わたしたちがそこで祈りがあるべきと思った川の傍に(出て行った)。そして座って、集っていた女性たちにわたしたちは話し続けた。
ローマ帝国の法律に「境壁法」というものがありました。外来宗教の礼拝施設は、都市内部に建立してはいけないと、その法律は規定しています。だから13節にあるように、ローマ植民市フィリピの都市城壁の外に「祈り」と呼ばれる礼拝施設があったのでしょう。この点、地元出身者ルカの情報は精確です。「祈り」はユダヤ教会堂の言い換えであることは、聖書外資料によって裏付けられています。使徒言行録では一貫して「会堂」と呼ばれていますが、この箇所だけルカは「祈り」と呼びます。特別な意味が込められているからでしょう。おそらくフィリピの町では固有名詞として「祈り」という場所は理解されていました。そこにはユダヤ教正統のメンバーになれない人々が多く集まっています。割礼を受けることができない女性たち、割礼の意義を感じない男性たち、非ユダヤ人(ギリシャ人、アシア人、ローマ人)たちです。しかしこの人々はユダヤ人たちの信じる神に興味があります。「神を敬う者」(14節)たちです。正統の会堂から締め出され自発的に「祈り」を建立した、この人々は、ユダヤ人の信じる唯一神は全世界の人間を救う神であるという信を持っていました。その信は誠実な祈りです。
ルカもこの「祈り」の元来のメンバーだったと思います。ルカはトロアスでパウロ・シラス・テモテに出会って、三人を「祈り」メンバーに紹介し、「祈り」の中の有志たちでナザレ派の教会を創り出そうと考えたのでしょう。13節の主語「わたしたち」にはルカが含まれています。あえて自分をパウロたち側に寄せて記述の中立性を図ろうとしていると推測します。控え目です。
14 そしてリディアという名前の、とある女性・ティアティラの都市の紫(染料/布)商人・神を敬う者は聞き続けた。主は、パウロによって話されている事々に注意を向けるようにと、彼女の心を開いた。 15 さて彼女と彼女の家がバプテスマを受けた時に、彼女は呼びかけた。曰く、「もしもあなたたちがわたしを主に信実であると判断するのであれば、わたしの家の中へと入って、あなたたちは留まれ。」そして彼女はわたしたちを強要した。
ティアティラは小アジア半島リディア地方の中心都市です。そのためリディアという女性は、リディア地方出身の解放奴隷であると推測する人もいます。あるいはリディアは紫染料を染める職人であった、それゆえに差別を受けた貧しい人だったとする人もいます。出自はそうかもしれません。しかしおそらくこの時点では、彼女は出身地ティアティラ産の綿花からできた布を紫に染めた紫布を商う豪商だったと思われます。職人ではなく「商人」と明記されているからです。そして「家(オイコス)」(15節、2回)を所有しているからです。彼女の家には使用人がいたことを示唆しています。古代社会において女性が職を持ち経済力(オイコス+ノモス)を持つことは稀有な事態です。相当の才覚がある女性です。そしてギリシャ語話者・奴隷出身者・女性であるリディアには、「ギリシャ人もユダヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない」という福音は、心に深く留まる内容を持っています。
ルカはリディアの配偶者だったかもしれないと、わたしはさらに想像の翼を広げています。フィリピの医者ルカがなぜ小アジア半島の港町トロアスにぶらぶらしていたのでしょうか。リディアから商用を頼まれて、ティアティラ市に行った帰りにトロアスで船を待っていたのではないでしょうか。だからどうしてもリディアに会わせたいと願って三人を説得したのではないでしょうか。
ルカの願い通りリディアはパウロたちの言葉を聞き続けます。彼女の家の者たちもそうです。聞いたことのなかった旧約聖書解釈です。「ナザレのイエスが十字架にかけられ、よみがえらされた神の子である。イエスを殺した罪を悔い改めて生きよ。教会という交わりに連なれ。割礼は不要だ。バプテスマを受けてキリストを着よ」というのです。正統会堂で聞いたことのない言葉です。
リディアはパウロたちに言います。「ごらんなさい、川があります。わたしたちがバプテスマを受けるのに何の妨げがあるでしょうか。」パウロたちは、リディアとその家の者たち、つまりルカも含めて、全員にバプテスマをします。そこにはリディアの家で働く若い女性奴隷もいました。ルカから治療を受けたローマの老退役軍人もいました。リディア・ルカ夫妻の子どもたちもいました。イタリア人もマケドニア人もアシア人もユダヤ人も、農民も商人も奴隷も軍人も医者も、貧しい者も富んでいる者も、大人も子どもも、健常者も障がいのある者も、性でくくられない人も「イエス・キリストは主である」(フィリピ2章11節)と告白する者はみな、ナザレ派へと入信するバプテスマを川で受けたのです。「祈り」メンバーのほとんど全員だったと思います。
リディアはパウロたちに呼びかけます。「ここにいる神を敬う者がすべて主に信実であることはお分かりの通りだ。今日あなたたちはわたしたちの家に泊まらなくてはならない。家の教会を設立したい。わたしの家を礼拝のために用いてほしい。明日は日曜日、主の日であるから、明日の礼拝をフィリピ教会設立感謝礼拝としよう。」三人に異論があるはずもありません。トロアスまでの失意の旅を、神がフィリピで喜びに変えられました。リディアの呼びかけ、「わたしのうちに留まれ」を三人は聖霊が語る福音として聞いたはずです。こうしてパウロを最後まで支援し続けるフィリピ教会が誕生します。最も幸せな「主にある交わり」をパウロはフィリピで経験します。
今日の小さな生き方の提案は初代教会の経験を自分たち自身の経験とすることです。フィリピの教会の前身は「祈り」というグループ。メンバーは義に飢え渇いていました。敬虔な者ほど世界の不公正・正義の欠如に悩まされます。教会の大前提・共通の根っこに「曲がった時代の中でどのようにして星のように生きることができるか」という問題意識があります。その共通点以外はミスフィット、ばらばらで決して括られない多様性、星座ぐらいに星同士が離れている集まり、これこそ教会という交わりの本質です。祈り合う関係というものは距離を保って尊重する関係です。近すぎると喧嘩別れしがちです。人間は相互に類似しているから分かり合えるということは誤解です。逆に相違しているから共感が必要なのです。星座のような維持可能な交わりをつくりましょう。