きょうだいが不幸に見舞われた日に オバデヤ書12-16節 2022年9月25日礼拝説教

 エドム王国は南ユダ王国から見ると死海を挟んだ東南の隣国です。イスラエルが王制度を導入する前から、前13世紀ごろまでにエドムは独特の王制度を確立していました(創世記36章31節以下)。イスラエル(ヤコブ)は弟であり、エドム(エサウ)が兄です。王がいるところに宮廷があり、古代においては文字を知っている人は宮廷周辺に限られます。宮廷に知者がおり、知恵が書き記されていきます(箴言25章1節参照)。ヨブに知恵で挑みかかる知者テマン人エリファズは、エドム王国の人でしょう(創世記36章10-11節)。長い王制の伝統からエドム王国に知者が多くおり、「エドム王国と言えば知恵」ということは当時の常識であったのでしょう(オバデヤ8節、エレミヤ49章7節)。ここで言う「知恵」とは処世術のことです。

 知者の多いエドム王国は交易で栄えた経済大国でした。エドムはアカバ湾まで通じるのです。前10世紀に成立したダビデ王朝(統一王国→南ユダ王国)は海を欲してエドム王国を支配したり、逆にエドムから独立されたりを繰り返していました。そのためエドム人はユダ人を憎んでいたと思います。ユダ人はエドム人を軽蔑し差別していたと思います。創世記にあるヤコブ/エサウの双子の葛藤は、イスラエル/エドムの葛藤を説明しています。エサウを知恵の無い野蛮な人間と描くことで知恵の国エドムを戯画化しつつ、両国は双子の兄弟のように近い関係であると語るのです。双子伝承は、ダビデ王朝の侵略行為を正当化するための「政治神話」です。ロシア大統領と同じ論法です。

 前6世紀当時の世界最強のバビロン軍がエルサレムを攻める時に、エドム王国の処世術は新バビロニア帝国の属国となり攻城戦に加勢するというものでした。旧約聖書にはエドムの参戦を非難する記事が憤怒を込めて記載されています(詩編137編7節、エゼキエル35章、36章5節)。この出来事は神話ではなく史実でしょう。

預言者オバデヤは、新バビロニア帝国と諸属国によるエルサレム攻城を経験した人です。籠城した際の飢餓を経験し、バビロン軍・エドム軍の攻撃と略奪を目の前で目撃した生存者の一人です。この点で哀歌の作者と同じ経験をしています。住居や王宮からさまざまな財物・物品が奪い取られ、住民は暴力にさらされ、荘厳な神殿は焼き尽くされ、王族・貴族・祭司の主だった者は強制連行されて行きました。オバデヤはバビロンに連れて行かれなかった大多数の民の一人です。全員が強制連行されたのではなく、多くのユダの民は無政府状態のまま放置されたのでした。占領軍の主力のバビロン軍が遠い本国に引き揚げた後、エルサレムの土地をそのまま領有したい隣国エドム軍のみが残りました。オバデヤの怒りは目の前のエドム人に対して燃え上がります。哀歌の作者が「神が敵となったこと」に目を向けたことと異なる態度です。オバデヤ書は、近視眼的で民族主義に満ちた主張をエドム軍に向けた文書です。

12 そして貴男は見るな、貴男の兄弟の日に、彼の他国人の日に。

そして貴男はユダの息子たちのために喜ぶな、彼らの滅亡の日に。

そして貴男は貴男の口を大きくするな、苦難の日に。

13 貴男は私の民の門の中に来るな、彼らの災いの日に。

貴男、貴男もまた彼の不幸を凝視するな、彼の災いの日に。

そして貴女らは彼の財に伸ばすな、彼の災いの日に。

14 そして貴男は岐路の上に立つな、彼の難民たちを断つために。

そして貴男は彼の生存者たちを閉ざすな、苦難の日に。

 オバデヤが「貴男(あなた)」と繰り返し名指しで非難しているのはエドム軍のことです。一か所だけ「貴女ら」(13節)とあります。財宝等がエドム王国全体にもたらされることから、男性のみに裁きを限定することを解いているのかもしれません。そこから翻ると、男性のみで構成されている軍隊への批判が中心的使信であると捉えることができます。

 「日」が8回も繰り返されていますが、この「日」はエルサレムが陥落した日を指しています。破局の時という意味です。もう少し詳しくみましょう。

 「貴男の兄弟の日」「彼の他国人の日」「彼らの滅亡の日」(12節)には繰り返しがありません。それぞれ1回ずつの言葉です。それはバビロン捕囚という出来事の特殊性・固有性・一回性を強調しています。この決定的な破局が起こった時にあなたはどこにいたのか。他でもないあなたの兄弟国が、他国の軍隊に蹂躙されて滅亡させられた時に、あなたは隣人となりえていたのかという問いが発せられています。「あなたの兄弟はどこにいるのか」(創世記4章9節)。「誰が追いはぎに襲われた人の隣人となったのか」(ルカ10章36節)。身内・同胞・双子の兄弟かと思っていたら、実は他国人・追いはぎの仲間だったのではないかという告発がなされています。

それに対し13節に3回「彼(ら)の災いの日」が集中し、それを12節「苦難の日」と14節「苦難の日」が挟んでいます。この構造は、12節「そして貴男は貴男の口を大きくするな」という命令と、14節「そして貴男は岐路の上に立つな、彼の難民たちを断つために。そして貴男は彼の生存者たちを閉ざすな」という命令が対応していることを示しています。口を開くことと、道を閉ざすことが対比させられているのです。口を開いて大言壮語を語り、相手を高笑いであざ笑うことは、相手の生命を閉ざすことであるというのです。

さらに興味深いことには、ここに「見る(ラアー)」行為が批判されています(12・13節)。この動詞は神が見る/認める行為(創世記1・15章)や、神を見る行為(創世記22章等)などに用いられる、比較的肯定的な意味の動詞です。ここで否定的な文脈であることが一つの驚きです。そして否定的なので「傍観する」「見ているだけだった」という意味で訳されがちです。新共同訳はどちらも「眺める」と訳しています。しかし13節は強調の意味を込めた熟語(前置詞付きの特殊な用法)が用いられているので、「傍観する」という意味では訳しきれません。むしろ、他人の不幸を覗き込むように興味本位でじろじろと見ることが批判されていると解します。

 このことはイエス・キリストの苦難にもあてはまることです。ローマ兵も大祭司の遣わした武装兵も、じろじろと近くに寄って覗き込みながら、大きな口でイエスをあざ笑い、軽蔑しながら拷問をし、生命を断ったのでした。アブグレイブ刑務所においても名古屋の拘置所においても、ミャンマーや香港や天安門においても、南京やシベリアでも、アウシュビッツでもガザでも、つまり昔も今もどこででも起こっている不正義です。死刑であれ戦争であれ(国家による殺人)差別なしに他人を殺すことはできません。

 瀕死の状態のユダ(エサウの甥)を前にしてエドムがなすべきことは、隣人の不幸をじろじろと見てそれを消費することでもなく、侮り嘲り態度や言葉において魂を殺すことではなく、難民としてくるユダの民を自分の国エドムに黙って温かく受け入れることだったのではないでしょうか。悲しむ者と共に悲しむことであったと思います。北イスラエル王国が滅んだ時(前722年)に南ユダ王国がしたことと同じようになすべきであったのでしょう。移民・難民の入国に対して異常に厳しい日本という国のありようもここに問われています。

15 なぜならば全ての国々に接するヤハウェの日が近いからだ。貴男がなしたのと同様に貴男のためにそれはなされる。貴男の報いは貴男の頭に帰する。

16 なぜならば貴男らがわたしの聖なる山の上で飲んだのと同時に全ての国々は引き続き飲むだろうからだ。そして彼らは飲む。そして彼らは呑み込む。そして彼らは成る、彼らが成らなかったように。

 12-14節の禁止命令の理由付けが、15・16節に記されています。それぞれの節の冒頭に「なぜならば」とあるからです。突然に「ヤハウェの日」が登場します。ヤハウェの日は、苦難の日の反対の時です。今まで双子の兄弟の葛藤だけが話題になっていたところ、突然に「全ての国々」(15・16節)に視野が広がります。今日はあえてこの二つの節を救いの指針として解釈します。

 なぜエドムはユダに侵略してはいけないのか。なぜならば全ての国々がエルサレムに上るということが起こるからです。そして鋤を打ち直して剣とした国々は、エドムもバビロンも、小さくさせられるからです。その剣を打ち直して鋤とされるのです(イザヤ書2章2-4節)。侵略と略奪の時にはシオン山でエドム軍はおごり高ぶり支配欲に満たされて酒盛りをしていました。しかし、ヤハウェの日には、ヤハウェが主宰する祝宴が全ての国々のために開かれます(イザヤ25章6-10節)。先に武力を棄てた国々は高い倫理観をもってエドムを、あるいはバビロンをも諫めます。エドムがなしたことはエドムのために戻ってきます。それによって軽蔑と嘲笑が尊重と微笑に変えられます。支配欲ではなく、互いに給仕する姿勢によって全ての者が満腹するのです。侵略国家でさえもヤハウェの晩餐という全世界的な交わりによって、その国々も含めた世界全体が救われます。

 「そして彼らは成る、彼らが成らなかったように」(16節)。多くの翻訳はこの言葉を裁きと採ります(新共同訳も)。しかしこの言葉は、出エジプト記3章14節にある「わたしは、わたしが成りたいところのものに成る」(私訳)と響き合う内容を持っています。共通の動詞(ハーヤー)は「である」というよりも「成る」という意味合いが強いものです。神の名前、神の性質を示す重要な聖句です。モーセに現れた神は自由な方であるということです。そしてこの神を信じ、神に倣う時に、信徒一人ひとりも自由になるのです。イスラエルを尊重することをエドムは成りたくても成れませんでした。しかしヤハウェを共に礼拝する「主の晩餐」に与かる時に、エドムはイスラエルを愛する自由を与えられます。オバデヤ書は五書との関連で読み直されるべきです。

 オバデヤ書がエルサレムで書かれた後に、バビロンの地で五書が編纂されました。その中の申命記23章8節に「エドム人を厭うな。あなたの兄弟だから」という命令があります。礼拝の会衆にエドム人(とエジプト人!)が加わることができるという文脈です。オバデヤ書16節を知っている律法であろうと推測します。共に礼拝をすることができるのならば、必ず兄弟げんかは止むという希望が条文となって示されています。

 そう考えると同じ五書に収められているヤコブ/エサウの物語も異彩を放ちます。一貫して物語はヤコブの狡賢さとエサウの素朴さを記しています。そして寛容なエサウが一方的にヤコブの過去の悪行を赦すのです。創世記はオバデヤ書を完全に裏返します。そのような仕方でダビデ王朝のエドム王国への悔い改めを示し、国際社会の中で双子の兄弟が共に歩む希望を教えているのです。

 今日の小さな生き方の提案は、共に礼拝をしようという勧めです。わたしたちの礼拝は世の終わりの先取りです。ヤコブとエサウの兄弟、レアとラケルの姉妹などの葛藤が、神の前の食事によって乗り越えられていきます。礼拝レベルの距離の取り方が互いの尊重のためには最適です。賛美すること、祈りを聞いてアーメンと思うこと、給仕すること。憎悪と暴力の世界のただ中で、寛容と尊重の文化の種蒔きを礼拝によって創りたいと願います。