テサロニケ教会 使徒言行録17章1-9節 2022年10月2日礼拝説教

1 さてアンフィポリスとアポロニアとを通過して、彼らはテサロニケの中へと来た、そしてそこにはユダヤ人たちの会堂があり続けたのだが。 2 さてパウロのための慣例に従って、彼は彼らに向かって入って来た。そして三度の安息日に接して彼は彼らのために(旧約)諸文書から論じた。 3 開きつつ、また、キリストが苦しみ、また死者たちの中から復活するべきだったということ、また「わたしがあなたたちのために告知している者こそそのキリスト・イエスである」ということを解説しつつ。 4 そして彼らの中から何人かは説得された。そして彼らはパウロとシラスの立場をとった。敬虔なギリシャ人たちのうちの多くの人々も、最上層の女性たちのうちの少なくない人も。

 17章からは「わたしたち」ではなく「彼ら」に戻ります。このことは著者ルカがパウロ・シラス・テモテから離れたことを意味します。ルカはフィリピに残り(そもそもフィリピ住民)、三人がテサロニケに向かいます。ルカはなぜかテモテのことを省きがちですが(4節)、テモテも同行していたことは確実です(一テサロニケ1章1節)。

 「アンフィポリスとアポロニアとを通過して」(1節)とあります。巻末の聖書地図8にあるように、フィリピ・アンフィポリス間は70km、アンフィポリス・アポロニア間は60km、アポロニア・テサロニケ間は40kmあります。一つの町で一泊しないといけない距離です。おそらく安息日を挟まないで、毎日移動し二泊三日でアンテオケに到達したのでしょう。なぜならば、アンフィポリスとアポロニアにユダヤ人たちの会堂(安息日礼拝の場所)がなかったからです。「そこ(テサロニケ)にはユダヤ人たちの会堂があり続けた」(1節)は、アンフィポリスとアポロニアには会堂がなかったということをも言っています。正統ユダヤ教会堂での安息日礼拝に参加しながら、旧約聖書について論じることでナザレ派を増やすという伝道手法が、もはや慣例と化したパウロの常套手段です(2節)。

 テサロニケという町はマケドニアの首都であり最大の都市です。名前の由来は、マケドニアからインドまでを軍事征服したアレクサンドロス大王の妹の名前にあります。紀元前2世紀以降、海陸の要衝として栄えた町です。それはローマに支配された後も続きます。町は徹底的にローマ化されましたが自治が認められていました。テサロニケの住民は、ローマの一員というよりもむしろマケドニア人としての誇りを持っていました。

 テサロニケには今日も登場する5-6名によって成る「市民代表」(6節)がいます。ローマ帝国の役人ではなくテサロニケ市民の代表者たちです。この人たちが内閣のように行政を司り、その下に「民会」(5節)と「評議会」という組織がおかれ直接民主政治が行われていました。ただし、その民会はおそらくギリシャ語を扱うマケドニア人成人男性だけが構成員だったことでしょう。

人口が多いテサロニケ市にはユダヤ人が多く住んでいますが、民会には入ることができません。ユダヤ人たちは会堂を建てて自分たちの自治をそこで行っていました。その会堂の中に、パウロ・シラスという離散ユダヤ人出身のナザレ派ユダヤ教徒と、テモテという最近割礼を受けてユダヤ人になったナザレ派ユダヤ教徒が、入ってきました(2節)。

なお、「三度の安息日」(2節)を字面通り「三週間」と理解しないで、数か月ぐらいの長期間と理解したほうが良いと思います。パウロたちは、テサロニケで金銭的には困窮して「夜も昼も働きながら」伝道活動をしています(一テサロニケ2章9節)。テサロニケ滞在中にフィリピ教会からも財政支援を受けています(フィリピ4章16節)。パウロはただ一度しかテサロニケに滞在しませんでしたが、手紙まで書き送っています。最古の新約文書・テサロニケの信徒への手紙一です。おそらく腰を据えて教会形成をしたのだと推測します。ユダヤ教会堂に行ったことは三度だったと解すれば良いと思います。

ユダヤ教会堂にはヘブライ語聖書があります。その聖書を開きながら、パウロは驚くべき解釈をします。エルサレム郊外で十字架刑に処されたイエスがキリスト(油注がれた人)である、その方は神によってよみがえらされたキリストであるであると主張するのです(3節)。おそらくイザヤ書53章が開かれたのだと思います(8章32-33節、ルカ24章26-27節)。すると、幾人かのユダヤ人が説得されました(4節)。その中に「ヤソン」という人物がいました(5・6・7節)。

 ヤソンという名前はヘブライ語のヨシュアのギリシャ語音写の一つです。同じヨシュアはイエスとも音写されます。ナザレのイエスに親近感を持ったのでしょうか。あるいはパウロやシラスのような離散ユダヤ人に共感したのかもしれません。彼はリディアや牢獄の看守と同じように、ナザレ派の三人を自宅に泊まらせ、そこを家の教会とします。テサロニケ教会の創設です。

 ヤソンのようにナザレ派の「立場をとった」ユダヤ人は少なかったようです。立場をとるという言葉は「籤によって責務が割り当てられる」という原意です。「従う」(新共同訳)という意味はありません。むしろ「同労者になる」という語感でしょう。ユダヤ人男性の中で会堂から距離を取る人は籤引きのような確率の少数者です。むしろ多かったのは「敬虔なギリシャ人たち」(4節)です。ここでギリシャ人テモテが言及されていないことは意図的なのだと思います。ヤソンたちユダヤ人は、同じユダヤ人である「パウロとシラスの立場をとった」のです。そしてギリシャ人たちは、父親がギリシャ人のテモテの立場をとります。

 「敬虔なギリシャ人たち」とは、ユダヤ教に好意的ではあるけれどもユダヤ教徒にはならない非ユダヤ人です(10章2節、13章16節、16章14節)。テモテの父親のように妻がユダヤ人という人もいたことでしょう。彼らはテモテに興味を持ちます。男性ばかりではありません。非ユダヤ人の女性たちがこの会堂には集っています。保守的な会堂には今でもユダヤ人女性でさえ共に礼拝できないのにもかかわらず、この古代の会堂はかなりリベラルです。なぜ会堂は非ユダヤ人・非男性に好意的なのでしょうか。その女性たちの社会階級のゆえでしょう。テサロニケ市民の中でも最上層の社会階級だった彼女たちの経済力と政治力に期待していたからでしょう。民会に加われないユダヤ人たちは、個々の権力者たちと結びつき交渉術をもってユダヤ人街を守ろうとしていたのでしょう。テモテはその人々の多くを会堂から引きはがしてしまいました。 

5 さてユダヤ人たちは嫉妬して、そしてアゴラにたむろしている者たちの中から何人か悪い男性たちを連れて行き、そして群れをつくり、彼らは町を擾乱し続けた。そしてヤソンの家に面して立ち、彼らは彼らを民会の中へと引き出すことを求め続けた。 6 さて彼らを見つけられなかったので、彼らはヤソンと何人かの兄弟たちとを市民代表たちの前に引きずり出し続けた。次のように叫びつつ、「世界を混乱させている者たちが、これらの者たちがここにも来ている。7 その彼らをヤソンは(屋根の)下に受け容れた。そしてこれらの者たち全ては皇帝の勅令に反して行動している。イエスという別の王が居ると言いつつ」。 8 彼らは、これらのことを聞いている群衆と市民代表たちを扇動した。 9 またヤソンと残りの者たちから保釈金を取って、彼らは彼らを解き放った。

 ナザレ派がテサロニケでも第一号の教会を設立してしまったこと、そのために正統ユダヤ教会堂から信徒と求道者が流出してしまったことは、ユダヤ人街にとって大きな痛手でした。ナザレ派に対する報復や防衛措置を講じなければなりません。できればユダヤ人同士の内輪もめと理解されない仕方で。というのも、同じユダヤ人というくくりで市民代表たちや民会に睨まれたくないからです。そこで彼らは足がつかないように地元のヤクザを雇います(5節)。アゴラとは町の中心にある唯一の広場(公共の空間、民会も開かれる場)であり、そこに面して行政庁が建築されていました。アゴラにたむろするヤクザに金を渡して、パウロ、シラス、テモテという人物をヤソンの自宅からアゴラまでしょっぴいて民会で追放処分決議をかちとるようにという依頼をしたのです。彼らは群衆を作り、ヤソンの家の前に立ちます。「三人を出せ」と言い、ヤソンは「それはできない」と返し、押し問答になります。もしかすると三人はこの時ヤソンの家から別の場所に避難していたかもしれません。

 面倒になったユダヤ人たちはヤクザと共にヤソンと他の教会員たち(地元のアンテオケ市民含む)を市民代表のところに力づくで突き出します(6節)。会堂に集う最上層の人々のコネで、市民代表たちに直接会うことができたのでしょう。「ローマ帝国内の秩序を乱している者たちがここにも来ている。このヤソンは連中の一味となり連中を宿泊させている。この連中は皆イエスという主がローマ皇帝を差し置いて存在すると言っている」。庁舎の中からアゴラに居る人々に聞こえるように大声でユダヤ人たちは扇動します。ナザレ派だけが危険な思想を持っている、国家内乱罪を犯している、と。8節の主語は「彼ら(ユダヤ人たち)」です。新共同訳の「当局者たち」ではありません。ユダヤ人たちは市民代表たちを動かそうとします。しかし、市民代表たちは冷静です。ヤソンたちナザレ派の背後にも最上層の人々が多くいることを知っています。市民代表は会堂の主張と教会の主張を汲み取り解決策を提示します。

 「教会から保釈金を取った上でヤソンたちの拘束を解きたい。本来は行政が預かるべき保釈金だけれども、その保釈金は会堂にあげよう。パウロ、シラス、テモテという3名についてはテサロニケ市からの退去を直ちに教会が責任もって実施するように。これ以上ユダヤ教内部の教理争いを民会に持ち込まないように。そういうことでこの件については一件落着ということにしたい」。保釈金を受け取った人である9節の主語もまた「彼ら(ユダヤ人たち)」です。新共同訳の「当局者たち」ではありません。謎の行動に市民代表と会堂と教会との三者間の密約を推測します。上記の密約があれば、この騒動に登場しなかったパウロたちが10節で直ちにその夜ベレアに送り出される理由が分かります。アンテオケ教会員たちは知恵に満ちた交渉力で何とかパウロたちを逃がし生命を救いました。自由都市アンテオケの町で培った自治の能力の高さが決め手です。ローマ風かつ小アジア半島と近いフィリピ教会とも異なる長所がアンテオケ教会にありました。マケドニア地方にあるフィリピ教会とアンテオケ教会は交わりを続けながら、その地に根を張って独自の教会形成を続けました。なお、パウロやシラスとは最後の別れになりましたが、テモテは何回かテサロニケ教会に手紙を運んでいます。主にある交わりは続きます。

 今日の小さな生き方の提案は、アンテオケ教会のあり方を真似るということです。古代民主政に初代教会も影響を受けています。同様に現代の民主政とバプテスト教会は相互に影響されるべきでしょう。教会も家庭も学校も地域も職場も、常にもっと民主化されていかなくてはいけません。それは各人に異なる幸福を追求する自由を与え、全員に公正と平等を与えることです。自分がひまになることと隣人を拘束しないこと、パンと一票を配ることです。