いのちを得るために ヨハネによる福音書5章31-47節 2013年8月18日礼拝説教

永遠のいのちを生きるということがどのようなことなのか、少しずつヨハネ福音書から学んでいます。聖書を学ぶことは良いことです。バプテストの教会はしばしば聖書の学びを信徒の手に取り戻したと言われます。素人が聖書を自由に解釈して良いと考えるからです。牧師だけが解釈権限を持っているわけではありません。それはそれで良い気構えです。

しかし一方で、気をつけなくてはいけません。印刷物である聖書の中に永遠のいのちがあるわけではないからです(39節)。聖書を研究することで人は永遠のいのちを得ることはできません。むしろ文字は人を殺し、霊は人を活かすのです。いったん「神の言葉」ができた時に、それを悪用する人は必ず出てきます。もっとも危険な人物は牧師・神学者でしょう。重箱の隅をつつくように、他人を神の言葉で隣人を裁き始めるのです。「モーセが訴える」(45節)という事態は、およそ経典を持つ宗教ならばどこにでもありうる話です。さらに神の言葉を悪用する宗教者を政治が悪用するときに最悪のことが起こります。政教分離原則が厳しく守られなくてはいけない理由はそこにあります。

バプテストの教会は非常に賭博性の高いことをあえて行なっています。誰でも聖書を自分流に解釈して良いというからです。牧師・神学者に加えてさらに多くの「律法学者」を生むことになりうるからです。そしてもう一つの危険性は「言葉を持つ者たち」が支配的になりやすいというものです。これも一種の「文字は殺し、霊は活かす」という事態でありましょう。説教中心の礼拝は言葉が多い礼拝です。会議が多い教会運営は言葉が多い交わりです。自覚的信仰告白を尊ぶということは、言葉を持っている人を尊ぶ風潮を作ります。それで良いのかという問いを持ちます。それによって排除されてしまう人がいるからです。言葉が苦手な人が居場所を失う可能性があるからです。

バプテストの教会は神以外のものを絶対視しません。バプテストの伝統すら神ではありません。まさにバプテストだからバプテストを批判できるのです。ヨハネ福音書全体の教えは文字中心のわたしたちのあり方を揺さぶります。大まかに言えばそれは、「文字より霊」です。ヨハネ福音書は永遠のいのちを決して「あの世」の話にしません。「世の終わり」という考え方も希薄です。その代わりに、永遠のいのちを今生きることに重点があります。そしてそれは霊である神と神秘的に一つになっている時に実現します。神と常に共にいる状態、これがヨハネの語る救いなのです。今・ここで・霊的に生きること(記録より記憶)、それが大切です。キリスト教は最初期、聖書を持っていませんでした。彼ら/彼女らの礼拝は霊の導くままに行われていたのです。だから、ヨハネ福音書の聖霊重視の考えは、紀元後一世紀の当時としては決して珍しいものではありません。

わたしは「聖書を読むな」とか「重んずるな」などと言いたいのではありません。むしろ聖書を読むことをお勧めします。学ぶのも解釈するのも自由です。わたし自身も文字としての聖書をこよなく愛している人間の一人です。ヨハネ自身も福音書を書いているのですから、文字で伝えたいことがあるわけです。言いたいことは、神は書かれた本以上の方であるということです。そして、今日の箇所は聖書の読み方についての示唆を与えています。「このように読めば先程の危険性が薄まりますよ」、「このように読めば永遠のいのちを生きることができますよ」、という但し書きが書いてあります。その鍵はイエス・キリストです。いのちを得るためにイエスのもとに来るときに、わたしたちは永遠のいのちを生きるのです(40節)。

今日のお勧めは、聖書を「指」として信頼して読むということです。ここで指と言っているのには二つの意味合いがあります。一つは聖書がイエス・キリストを指差しているということです。もう一つは聖書がわたしたちの生き方を方向づけるために未来を指差しているということです。

「見よ、神の小羊」と指差した時に、指が大事なのでしょうか、それとも指差された方が大事なのでしょうか。当たり前ですが、指差された方に注意を向けるために、ヨハネはイエスを指差したのです(33節)。聖書とイエスとはそのような関係に立ちます。文字としての聖書は、イエス・キリストを指差す指です。わたしたちは指を拝むのではなく、指差されたイエスを拝むのです。

「モーセはわたしについて書いている」(46節)とあります。ここでモーセと呼ばれているのは「モーセ五書(創・出・レビ・民・申)」=「律法(トーラー)」です。さらには、当時編纂途中であった旧約聖書全体のことを言っているともとれます。現代のわたしたちにあてはめて言えば、「聖書全体はイエスについて書いている」とイエスが言っているということです。

聖書を一言でまとめるとどんな本でしょうか。色々なあだ名がありうると思いますが、今日はそのうちの一つを紹介します。それは、「神の子の歩み」という言い方です。旧約聖書にはイスラエルの歴史が書いてあります。新約聖書にはイエスとその弟子たちの歴史が書いてあります。これらは神の民の歴史です。神の子とされた者たちのあゆみです。

そこからもう一歩踏み込みます。聖書に出てくる登場人物は神の子らなのですから、神の子イエスと似ていると考えるわけです。すべての人は生まれながらにして神の似姿です。そうだとすれば神の独り子と似ていて当然です。そのような信頼をもって聖書を読むときに、聖書はイエスについて証をしている本となるのです(39節)。

たとえば創世記から申命記をモーセが書いたとすると、この創世記から申命記に出てくる人々はみな神の子について書いてあるとイエスは言っています(46節)。アダムとエバという人は神の子です。神の息・霊をもらって生きています(創2章)。聖霊によって生まれたイエスと似ています。二人は対等に向き合って生きています。それと同時に、神と向き合って生きています。このあり方がイエスに似ています。

ノアとその家族も似ています。暴力に満ちていた時代にあってノアだけが神の前に潔白だったのです。イエスに似ています。また多様ないのちを運んだ箱舟は、嵐の中でイエスと弟子たちが乗った舟に似ています。アブラハムとサラも似ています。地上で旅をして回るところがイエスに似ています。イサクは父親に殺されそうになります。イエスにそっくりです。モーセ・アロン・ミリアムという三人の指導者もそれぞれイエスに部分的に似ています。モーセは柔和でした。アロンは弁舌が上手でした。ミリアムはモーセを救いました。

この人たちはみな神の子イエスに似ている神の子らなのです。この意味で旧約聖書はイエスについて書いています。だから、似ているところを発見するようにして読むことが大事です。これがわたしの勧める聖書の読み方です。聖書に出てくる人物と、イエスと似ているところを積極的に探し出す読み方です。それは指として聖書を信頼することです。この本にはイエス・キリストが満ちていると信じて読むのです。人間は生まれながらにして神の子であると信じて読むのです。いくら聖書を読んでいても(我流であれ学問的であれ)、そこに神の子を見出さないならば、「あなたたちはわたしを受け入れない」(43節)と、イエスによって批判されることでしょう。

この読み方は、わたしたちの日常生活に影響を与えます。人に対する見方が変わるからです。「人を見たら泥棒と思え」という考えの逆です。「人を見たら神の子と思え」という考えです。その人の中に、イエス・キリストを見るという考えです。憲法の言い方で言えば、全ての人には決して侵されない人権が与えられているという言い方でも構いません。

このようにキリストを指差す指として聖書を読むことは、わたしたちのものの考え方や生き方に影響を与えます。つまり第二のこととして、指としての聖書はわたしたちの未来の生き方の方向を指し示しています。今日の聖句に沿った言い方をするならば、わたしたちが毎日「行っている業そのもの」が方向づけられていくのです(36節)。

イエスは自分の生き方そのものが、神が自分を遣わしたことの証明書だと言っています。言い換えれば、神の子である証は、その人の生き方で分かるのです。たとえば、バプテスマのヨハネという人が一所懸命推薦して、「このイエスが神の子なのです」と言ったとしても、イエスが何も愛を行わなければ神の子であるという証明にはなりません。「わたしは人間の証は受けない」(34節)とイエスは、ヨハネによってなされる証明すら拒否しました。業そのものが神の子であることを証明します(36節)。良い業が永遠のいのちを得ていることの証です。どんなに聖書を研究していてもだめです。もし愛がなければ、そのような知識は何の役にも立たない、いのちを得るためには役立たないのです。

神の子らしい生き方というものがあります。神への愛・隣人への愛、この二つです。もし目に見える隣人を愛せないならば、目に見えない神を愛すことはできません(ヨハネの手紙一4章20節)。だから二つというよりこれは一つの生き方です。人を愛している人は神を愛しているし、神を愛している人は人を愛しています。福音書のイエスはこの生き方を実践した方です。

今日の箇所で「あなたたち」と呼ばれている人たちは、18節にあるエルサレム在住のユダヤ人たちの中の権力者たちです。政教一致した社会の中で、宗教界の指導者でもあり政治の指導者でもあった神殿貴族やファリサイ派、ヘロデ党などの人々です。この人たちは癒着しているのでお互いを褒め合うけれども、貧しい人々を虐げていました。サマリア人やガリラヤ人を蔑視していました。「自分の名」(43節)ばかりを気にしていて隣人を愛していないので、「神への愛がない」とイエスは批判しています(42節)。

わたしたちの未来の生き方はイエス・キリストの生き方において指さされ方向づけられています。すべての人を神の子とみなして、キリストは十字架に向かいました。自分を殺そうとしている人や、現に自分を殺している人でさえも、神の子であると認めて、その者たちのためにも犠牲を支払いました。その人たちの代わりに/その人たちのために死んだのです。敵をも愛して、自分のいのちを他人に捧げ、他人に配ったのです。

これが神からのお使いの内容でした。利他的な生き方の実践です。イエスは自分自身について言い訳をしませんでした。自己推薦もしませんでした(31節)。ただ黙々と愛を行なったのです。聖霊に満たされて利他的に他者の利益のために生きたのでした。神の子の業そのものがわたしたち神の子らの模範です。

金持ちの男とイエスとの対話のような問答が今・ここで可能です(マコ10:17以下)。「イエスさま、永遠のいのちを得るために何をすれば良いのでしょう」「聖書に書いてあるように生きたらどうですか」「聖書の言葉はよく知っていて全部守っています」「それならば、他人のいのちのために何か一つでも良い業を行ったらどうですか。他人のために生きるときに、あなたは自分の永遠のいのちを得ます。永遠のいのちを生きることができます。なぜかと言えば、その良い業を行ったのは、永遠のいのちを持っている神、あなたの内に働く神の霊だからです。」今週一つでも利他的な生き方を実践できるように共に願いましょう。