本日も預言者イザヤの書き残した「メシア預言」を取り上げます。7-8章においてイザヤはこれから生まれるヒゼキヤ王を「時の徴」とみなしました(前730年ごろ)。9章でイザヤは幼いヒゼキヤ王が占領された民にとっての希望の光であると告げました(前720年ごろ)。11章はヒゼキヤ王に対する期待が裏切られた後の預言と解します。おそらく前710年代の預言です。なぜならそのころイザヤは軍事・政治指導者である王に失望したからです。
前713年ヒゼキヤ王は他国と同盟してアッシリア帝国に反乱をしました。しかし翌年鎮圧され、完全にアッシリア帝国に臣従することとなりました。イザヤの理想は武力や軍事同盟に頼らずに神にのみ信頼をおく政治です。ヒゼキヤ王は武力や軍事同盟によってアッシリア帝国に打ち勝とうとして挫折します。イザヤはダビデ王朝の断絶を予感します。そしてそれこそが神の導きなのではないかとさえ思うようになります。メシアはダビデの子であるべきなのでしょうか。あの軍事と政治の天才ダビデ王はメシアの理想なのでしょうか。平和を打ち立てるメシアはダビデのようではないし、平和とはダビデ王朝のような軍事政権ではない。イザヤの平和思想は深まります。
1 そしてエッサイの幹から若枝が出た。そして芽が彼の根〔複数〕から伸びる。 2 そしてヤハウェの霊が彼の上に安らいだ。知恵の霊と洞察、助言の霊と力、ヤハウェ(へ)の知識と畏れの霊。 3 そしてヤハウェ(へ)の畏れの中に彼の喜び。彼の眼の外観によってではなく彼は裁く。そして彼の耳の噂によってではなく彼は決める。 4 そして彼は正義において貧しい人々(を)裁いた。そして彼は平等において地の虐げられた人々のために決めた。そして彼は彼の口の鞭において地(を)打った。そして彼の唇の霊において彼は背反者(を)死なせた。 5 そして正義が彼の腿の帯(と)なった。そしてその信実が彼の腰の帯(となった)。
1節「エッサイの幹」と10節「エッサイの根〔複数〕」は、この1-10節を囲い込んで枠組みをつくっています。これを一塊の段落として理解すべきです(新共同訳参照)。エッサイは、モアブ人ルツの孫であり、ダビデ王の父親です。職業は羊飼いです。今までイザヤは「ダビデの家」(7章13節)や「ダビデの王座」(9章7節)という言葉を用いていました。ダビデを理想とするダビデ王朝が永続すると信じていたのです。
しかし、ここでイザヤはダビデ王朝のやり直しを提案します。羊飼いエッサイには他にも子どもたちがいたからです。男の子だけで他に7人おり、当然女の子も7-8人いたはずです。ダビデという巨木を倒してもエッサイのいくつもの根からは新しいメシアが生まれえます。一代遡ることで、理想のメシアのすがたをイザヤは書き換え、上書き保存します。新しいメシアはダビデのような南北連合・エルサレム統一王国の政治権力のトップ、最高司令官「王」ではなく、むしろ「羊飼い」であるべきだというのです。
新しいメシアは剣や槍や鎧や盾や兜、軍靴・軍服によって武装していません。2節には「霊」という言葉が四回も用いられています。メシアはヤハウェの霊によって生まれ、霊によって満たされて活動する方です。「知恵」によって自ら洞察力を持っており、「助言」によって隣人から力を分けてもらえる、新しいメシア。ヤハウェを常に畏れる敬虔さが彼に備わっています(3節)。だからこそヤハウェの霊が彼を休み場とみなして安住します。鳩が洪水の後休み場を探したように、聖霊はメシアを探し「これは私の愛する子」と言って降り、メシアの上にずっと安住します。
新しいメシアは人を外見で判断しません。伝聞や噂で決めつけません。そうではなくて「正義」と「平等」を基にして(4節)、へこんでいる人を平らなところまで引き上げます。逆におごり高ぶっている人(「背反者」5節)を平らなところまで引き下げます。そうして徹底的に言論で、平たい討論で治めます。(「口の鞭」5節)。見える脅し、武力による威嚇ではなく、見えない知恵・知識・洞察・助言こそ彼の統治力です。メシアは武装せず丸腰のまま「正義」を太もも(剣を隠す場所)に帯び、「信実」を腰に巻きます。
平和の君主であるメシアは、ダビデ王やヒゼキヤ王のような、軍事同盟に頼る政治権力者ではないという地点にイザヤは達しました。「ダビデ王朝は、神の支配(平和)を打ち立てることができない。神の支配に反する原理で統治し続け地上の王に臣従している。このまま滅亡するかもしれない。ダビデ王朝滅亡後、新しいメシアの到来によってのみ神の支配(平和)が打ち立てられる。」イザヤは、平和の君主の周りで起こる平和を夢見ます。
6 そして狼〔雄〕は小羊〔雄〕と共に滞在した。そして豹〔雄〕は山羊〔雄〕と共に伏す。そして若い牛〔雄〕と若い獅子〔雄〕と肥育が共に、そして小さな若者は彼らを導き続けている。 7 そして牛〔雌〕と熊〔雌〕は共に牧草を食べる。彼女たちの子どもたちは伏す。そして獅子〔雄〕は牛〔雄〕のように藁を食べる。 8 そして乳児は毒蛇の穴に接して遊んだ。そして蝮の巣に接して幼児が彼の手(を)伸ばした。 9 彼らは傷つけない。そして彼らは滅ぼさない。私の聖の山の全てにおいて。というのもその地(に)ヤハウェを知ることが満ちたからだ。海のために覆い続けている水のように。 10 そしてその日において以下のことが起こった。(すなわち)諸々の民の旗として立ち続けているエッサイの根、彼に向かって国々は求める。そして彼の休息の場が栄光となった。
イザヤの希望する平和な世界は、肉食動物と草食動物が仲良く共存する世界です。「狼」「豹」「若い獅子」「熊」が肉食、「小羊」「山羊」「若い牛」「牛〔雌〕」が草食です(6-7節)。さらに驚くべきことに、肉食動物の「獅子」が草食動物の「牛〔雄〕」へと変えられるという奇跡すら起こります(7節)。平和な世界においてはいわゆる「弱肉強食」が起こらないというのです。被支配者が支配者になる(草食から肉食へ)のではありません。それは内部で激しい競合をする共食い社会です。そうではなく支配者が被支配者と同じ立場になる(肉食から草食へ)のです。そうすれば共に安心して眠ることができます。全てが被支配者(仕える者)になる時に神の支配が成立します。
イザヤの希望する平和な世界は多様性を重んじるジェンダー平等な社会です。非常に多彩な動物の種類が紹介されています。狼・豹・羊・山羊・牛・熊・獅子・蛇と。しかも同じ動物であっても異なる単語が用いられています。牛・獅子・蛇は数種類に言い換えられています。その中で、牛と熊は女性です。「彼女たちの子どもたち」(7節)と書いてあるとおりです。妻も預言者であったイザヤは、ジェンダー平等を多様性の基礎において、理想の人間社会を描いています。動物も肉食か草食かだけで括られてはいけません。蛇もいるからです。括られきれない多様な個人がそのままで安全に生きていけることが平和です。
イザヤの希望する平和な世界は、子どもたちが「第一の住民」、真っ先に幸せを受け取ることができる世界です。誰も子どものようでなければ神の国に入ることができないからです。実は子どもという言葉もこの箇所では全て異なる単語で言い換えられ、ほぼ全ての年代の子どもたちが網羅されています。ヒゼキヤ王の誕生から成長までをメシア預言と結びつけたイザヤの関心は、平和とは何かを考える際にも発揮されています。6節「小さな若者」と7節「子どもたち」は7歳ぐらいから20代までも含みます。8節「乳児」は3歳ぐらいまで、「幼児」は3歳よりも上ぐらいでしょうか。子どもという存在も多様性の象徴です。
人間の「小さな若者」が「若い牛」「若い獅子」を導くとは、なんと逆説に満ちた言葉でしょうか。一般的には、経験の浅い若者は牛の一突きにも、また猛獣である獅子の襲撃にも耐えられない弱い存在でしょう。しかし、そのちっぽけな若者、侮られる存在にこそ社会全体はリーダーシップを譲っていかなくてはいけません。平和をつくり出すためには、小さくされている若者に導いてもらうことが大切です。不当に扱われてきた彼ら彼女たちは、必ず他人を不当に扱わず正義と平等のもとに民全体を導くでしょう。それが「シルバー民主主義」を克服する道です。平和を創る担い手は、いつの時代も若者です。ナザレのイエスが若者であったことは示唆的です。
その一方でさらに小さな乳児や幼児には安全が、とりわけ自由に遊ぶ権利が保障されなくてはなりません。小さい時によく遊んだ人間こそが、青年になってから創造的に自分のなりたいことを見つけることができます。多様な生き方を見出し、平和を構成する一因・一員となることができるのです。子どもの権利/自由/遊びというものは最もないがしろにされがちです。大人は子どもを完全に人権を持っている存在として尊重するべきです。それと同時に大人は子どもを発展途上の人格を持っている存在として保護するべきです。毒蛇や蝮が子どもたちを傷つけ滅ぼすことがないような仕組みをつくらなくてはいけません。そうして大人は子どもに未来を約束しなくてはいけないのでしょう。
イエスの到来とともに、彼の周りに神の支配と平和が実現しました。子どもたちが祝福され、小さくされていた者たちが尊重され、特に女性たちにリーダーシップが委ねられ、利害対立者(徴税人と熱心党)同士が同じ食卓で食事をし、全ての人が給仕役となるという出来事が起こりました。暗闇を歩き続けるガリラヤの住民たちがその平和を受け取りました。イザヤの待ち望む「その日」(10節)が来て、神の支配は貧しい者・虐げられている者に平和のうちに近づいたのです。ヤハウェの霊がイエスの上に臨んでいました。イエスの周りには、フェニキア人女性も、サマリア人女性も、ローマ兵もいました。ユダヤ人の王として生まれ、ユダヤ人の王として殺された方は、全世界の主、「諸々の民の旗」(10節)です。
もはやイザヤは南ユダ王国やヒゼキヤ王に期待しません。神の支配を待ち望み、新しいメシアに希望をおきます。新しいメシアとはエッサイの根から出たナザレのイエス、人の子となった神の子、平和を実現するために僕となった王です。ここにイザヤのメシア預言は長い年月をかけて完成します。
今日の小さな生き方の提案は、お互いのもつ多様性を認め合うことです。すでに今ここに多様な人々が集まっています。さらに、その多様性を広げていくことです。当然のことながら、この交わりの外にはもっと多様な人々が存在しています。毎年クリスマスにわたしたちの教会に初めて来られる方々が与えられていることは感謝なことです。それは平和を希求し、平和の君を待望する季節に相応しい出来事です。多様な人々の共存こそが平和であるからです。多様な人の受け皿になりうる教会は、ある意味個人に深入りしない交わりだと思います。尊重とは適切に距離を保つことだからです。礼拝ぐらいの交わりが丁度良いでしょう。その一方で礼拝が多様な人々を受け止めきれているかが吟味されるべきです。子どもたちに導かれて共に平和を教会でつくりましょう。