紀元前7世紀の預言者は4人います。ナホム、ハバクク、ゼファニヤ、エレミヤです。ハバククはナホムよりも少し後の時代の預言者です。ナホムはアッシリア帝国の滅亡(前612年)を喜ぶ愛国者でした。アッシリアの弱体につけこんで南ユダ王国ヨシヤ王が「申命記」(12-26章)という律法を掲げて中央集権国家をつくります。「神の民は神の法により公正な裁判によって統治されるべき」というスローガンのもとにです。強烈な民族主義者でもあるヨシヤ王は領土拡張政策をも採ります。前721年に滅亡した旧北王国領もほぼ占領します。エルサレム住民による熱狂的な支持を得ます。しかし軍拡路線によってヨシヤ王はエジプトに殺されます(前609年)。アッシリアを滅ぼしたバビロニアはエジプトと対峙すべく西に向かいます。両大国の間にある南ユダ王国も圧迫されるようになりました。ナホムの喜びは、ぬか喜びだったのです。
ユダ国内の内政は申命記律法の制定者ヨシヤ王の死後混乱を極め、国外には両大国の緊張があります。何を芯に立て直すべきか、外交的にはどの国に与するべきか。ハバククという名前はアッカド語(アッシリアやバビロニアの公用語)に由来するものです(「バジル」「ハッカ」)。アッシリアへの長い臣従はアッカド語がユダ国内で用いられる状況を生んでいたのでしょう。反アッカド語/反メソポタミア文化/ユダ民族主義という時代の風潮の中、バタ臭い名前のハバククがバビロニアの脅威を告げます。前600年前後の預言です。
1 預言者ハバククが(幻で)見た負担。 2 いつまでか、ヤハウェよ。私が喚くべきは。しかしあなたは聞かない。私はあなたに向かって叫ぶ。「暴力」。しかしあなたは救わない。 3 なぜあなたは不法を私に見せるのか。そしてあなたは困窮をみとめる。そして破壊と暴力が私に向き合う。そして彼が論争と競合を負担するということが起こった。 4 それだから律法がゆるむ。そして公正は継続的には出ない。なぜなら悪人がその義人を囲み続けているからだ。それだから歪曲され続けていることから公正が出る。
1-4節まではハバククから神への問いという形で、国内情勢が物語られています。ユダ王国内には「暴力」(2・3節)が横行しています。暴力とは「不法」(3節)の言い換えです。つまり法に則らないで勝手気ままな「自分ルール」が見過ごされていたということです。行政機関も司法機関もうまく権力を使えない状態です。また暴力とは「破壊」(3節)の言い換えです。言論によって建設的な議論を積み重ねていくことではなく、事物を強引に壊して解決しようとすることです。異なる意見のぶつかり合い(論争)を打ち切って、多様な論敵とより良い結論を見出す作業(競合)を止めて、「難しい事柄について何も考えないこと」を押し付ける者たちがいたのでしょう。
たとえば物価が高騰した時に、「これは両大国の緊張に原因があるのだから、しっかりと外交的にもまた国内産業的にも立て直す政策を立てよう」というまともな意見が上がったとします。それに対して、「あの店にはまだ食べ物がある」と言って店を壊し、略奪し、議論の基礎を壊す人もいるでしょう。その行為が咎められない社会は無法地帯です。だから暴力の横行は「律法がゆるんだ」(4節)状態であり、法による支配の否定です。それがゆるやかに社会を自滅させていきます。
これらの破壊者たちが預言者ハバククの向き合っている論敵です。「そして彼が論争と競合を負担するということが起こった」とあります。この「彼」こそ「悪人」(4節)と呼ばれる、ハバククの論敵でしょう。「その義人」は、ハバクク本人と解します。ハバククは、悪人たちと法廷で争うこともあったと思います。「公正」(ミシュパート)が社会に出るようにと願って、暴力に押しつぶされているエルサレム住民を弁護して、一緒に喚き叫んでいたのでしょう。法廷ではハバククのような義人は小数であったと推測されます。悪人たちが囲み続けているからです(4節)。
最高裁長官は王です。ところが王は公正な裁判を行いません。ヨシヤ王は自分の立てた律法に事例を厳正にあてはめて公正な判決を下したと思います。しかしそれ以降の王にはその熱意も力量もない。裁判は、おそらく賄賂によって「歪曲され続けて」(4節)います。かろうじて歪曲を免れた部分だけが社会に出て行くという事態によって、公正は常に継続的に社会に出て行きません。この状態は、さらに法に対する不信を生みます。
ハバククは真の最高裁長官である神に問います。「いつまでこのような社会不正義が公然と行われ続けるのでしょうか。あなたがエルサレム住民と私の困窮をみとめているのにもかかわらず。」ハバククの問いは義人ヨブの問いと重なります。不条理な苦しみを負わされている人がいます。なぜ神はその人に対する暴力を黙認するのか。いつまで忍耐すれば良いのか。そもそもそのような神は「義」であり、信じるに足りる方なのか。神の正義を問うたり答えたりする議論を「神義論」と呼びます。
そして神は、ヨブに対するのと同じく、ハバククに対しても意外な答えをもって応答します。それが5-11節です。
5 あなたたちは諸国の中で見なさい。そしてあなたたちはみとめなさい。そしてあなたたちは自分たちを愕然とさせなさい。そしてあなたたちは驚きなさい。なぜなら私があなたたちの日々に行為を為すからだ。もしそれが説明されても、あなたたちは信じない。 6 なぜなら見よ、私がバビロニア人たちを興しつつあるからだ。その苦くて素早い国(を)。(そして彼は)地の広いところに行き続けている。彼に属していない居住地を所有するために。
国際社会の中にあることをまず見よとヤハウェは語ります。南ユダ王国は真空パックの中にあって自治を行っているわけではありません。国際関係の中で自分たちが生きていることをまず認めなくてはいけません。確かに現在の急激な物価上昇は世界が狭いことを浮き彫りにしました。それと同時に、日本という国においては今まで賃金算定にあたって物価上昇が考慮に入れられていなかったことを知らされました。この国は、水光熱費が他国よりも高いことにも鈍感でした。諸国の中にあるということを見て、みとめなくては、井の中の蛙となり続けます。互いに外国のことを知り驚き、驚かせ合わなくてはいけません。それによって国内の「公正」について貴重な示唆が与えられるからです。
ヤハウェの神はハバククたちが生きている時代に「行為を為す」というのです。それはバビロニア人たちを、他ならないヤハウェが興しつつあるという出来事です。イスラエルの神ヤハウェは、100年以上前(前721年)に滅んだ北イスラエル王国を興さないというのです。あるいは新バビロニア帝国が勃興したのは、バビロニアの国家神マルドゥクによるものではなく、イスラエルの神ヤハウェによるものであるというのです。
このようなことはいかに懇切丁寧に説明が尽くされても到底信じられるものではありません。「もしそれが説明されても、あなたたちは信じない」と神自身が予測している通りです。説明するという行為の語義は数えることです。一つ二つと丁寧に理由を並べ立てる行為、経緯を物語る行為です。そのように説明責任を全うされても、信じることが困難な神の行為です。そしてまた、この神の答えはハバククの問いに対する真正面の答えではありません。「いつまで国内の統治不全が続くのか」という問いに対して、神は「バビロニアがエルサレムを軍事占領するまで」と答えているように聞こえます。当然ハバククは12節以下で反論しますが、神はただ「義人というものは、信によって生きる」(2章4節)とだけ答えます。信じられないかもしれないけれど信じなさいというわけです。そして神は、ヨブに対して被造物を列挙したのと同じように、バビロニア軍がいかに強いかを列挙します。あまり神の主張の説得力を強めないように思いますが紹介します。
7 彼は恐ろしく、また恐れられ続けている。彼自身より彼の公正と彼の傲慢が出る。 8 そして彼の馬たちは豹たちよりも軽快である。そして彼らは夕方の狼たちよりも鋭敏である。彼の軍馬たちは飛びかかる。彼の軍馬たちは遠くから来る。彼らは食べるために急ぎ続けている鷲のよう飛ぶ。 9 全ては暴力ために来る。彼らの顔の群れは前へ。彼は捕虜を砂のように集める。 10 そして彼は王たちを侮蔑する。そして君主たちは彼のために嘲りの的。彼は砦(を)嘲る。そして彼は塵を積んだ。そして彼はそれを掴んだ。 11 その時彼は霊(を)変えた。そして彼は渡った。そして彼は罪を犯した、「これが彼の神に属する彼の力」(と言って)。
神の意思は「世界最強の新バビロニア帝国には戦争では勝てないので臣従した方がましである」というところにあるのかもしれません。同時代の預言者エレミヤもそのような意見を持っていました。確かにバビロニアは傲慢であるけれども、戦争をして全てを破壊されるよりはましな選択ということでしょう。なぜかと言えば、2章5節以降は傲慢なバビロニアもまた自らの「暴力」(9節)によって滅びに向かうことが神の答えとして語られているからです。暴力をとるものは暴力によって滅びます。神はハバククが用いる鍵語「暴力」「公正」を用いて答えています。
バビロニアという国の問題は、「彼自身より彼(独自)の公正・・・が出る」(9節)ことです。6節以降の「彼」はすべて6節「その苦い国」(男性名詞)を指します。大国は軍事力による威嚇をもって脅し、独自の「公正」を押し付け、国際法を無視します。五大国の拒否権がそれに似ています。それは全体にとって公正ではありません。ロシアのことだけを言っているのではなく米英仏中も1945年以来ずっと行ってきたことです。その態度はその他の中小国を侮辱し軽蔑する行為です。神はそのような国を興しもし倒しもします。
「その苦い国」の自己絶対化は「これが固有の神に属する固有の力」(11節)といううそぶきに表れています。これを「罪」(11節)と呼びます。罪とは力による支配であり、自分がそのような支配をするのにふさわしいと勝手に思い込むことです。国のレベルでは軍事的侵略や経済的搾取でしょうし、個人のレベルでは権威主義によって力を濫用することです。
イエスの時代、ローマ帝国からの独立によるイスラエル再興を望む弟子たちに対して、イエスは「主の晩餐」をもって応えました。互いに給仕し合うところ、義人イエスを中心に罪人同士が信じ合う交わりに、暴力を棄てた公正な自治が興されます。
今日の小さな生き方の提案は、統治不全を続けない努力を始めることです。神は歴史の中で超大国の滅亡の連続を通して、またイエス・キリストの開始した「神の国運動」を通して、公正な自治のあり方を教えています。「すべては暴力のため」だから駄目なのです。大国に頼るのも駄目です。誰のための公正かを問うことです。力を奪われている人にとっての公正を考えることです。武力ではなく言葉を取ること。言葉ではなく霊を取ること。権威ではなく謙遜を取ること。支配ではなく給仕をとること。指図ではなく同労をとること。庇護ではなく対等をとること。教会という公正な交わりをつくりましょう。